76.軟禁明けの夜会
窓の外に広がる、煌びやかな世界。
皇宮で開かれる本日の夜会は、ここからも見える自慢の庭園を広く見渡せるように、と宮内の至る場所に細やかで綺麗なライトアップが施されている。
普段、こういった場はあまり好きではなかったアイヴィーだが、今回ばかりは思いっきり、めいっぱい、晴れやかな気分で、鼻歌を歌い始めるほど浮かれている。それも、そのはず……。
「やっと解放された……そ、外だ……っ」
「姉さん」
本日の夜会で、これまでで最も長かった謹慎が解けたアイヴィーは、その喜びをかみしめていた。
そんな彼女へ手を差し出し、エスコートをするテオドール。
彼の手を取り馬車を下りたアイヴィーは、テオドールが言おうとしている事を理解し、少し不貞腐れたように口を開いた。
「分かってるわよ。いつも通り、壁のシミになって大人しくしてるから」
「……壁の花って言いたいの?」
現在、外面だけは完璧令嬢の仮面を被っているアイヴィー。落ち着いた所作でそう言ってはいるが、テオドールはそんな彼女の態度に、小さくため息をついている。
これまでの間ずっと、公爵邸外では誰が見てもお淑やかで、儚くありながらも、公爵令嬢として相応しい振る舞いをしてきたアイヴィー。テオドールは彼女の、そんな外向けの仮面の分厚さを知っている。
今はこんな態度をとっていても、いざ人前に立てば、姉さんはきっちりとイメージ通りの振る舞いをするだろう──と、テオドールがアイヴィーへ向ける信頼は、そこに対してだけは厚かった……そう、これまでは。
しかし最近、テオドールのその信頼は、大きく揺らぎ始めている。
(原因は、いつも大体、あの人が関わってくると……なんだけど)
テオドールが、とある人物を頭に思い浮かべながら会場へ足を踏み入れた、その時。まだ部屋に入って数歩しか歩いていないにも関わらず、アイヴィーがピタリ、と立ち止まった。
横から漏れ聞こえる、「あ」という小さな声。
サッと首を向け、アイヴィ―へと視線を移したテオドールは、彼女の顔を見て露骨に顔を歪めた。
「は、はわ……ぁわ……」
アイヴィーの瞳の奥が、キラキラと輝いている。
もしや、と思いながら、テオドールはゆっくりと彼女の視線の先を追う。
(……やっぱり)
その先に立つ人物を目にしたテオドールは、はぁと再び小さくため息をついた。
キラキラと煌めいている彼女の視線の先には、テオドールがアイヴィーにこれまでのような安心感を得られなくなってしまった原因────皇太子殿下の側近であり護衛騎士の、グレイソン・サーチェスの姿があった。
しかも、何故か今日の彼は……
「お、推しが貴族衣装に身を包んでいる……」
「……」
──いつも、こういった場ではレオナルドの護衛騎士として、彼の傍らにいるのに……
どうして……!?
すぐ隣で、酷く冷めた目を向けているテオドールにはお構いなしに、アイヴィーは目に、脳に、刻みつけられた推しの姿に、思考を奪われている。
──はわ……かっこいい……めちゃめちゃレアだ!
「……SSRだ」
「…………」
横で口元を押さえながらよく分からない言葉を呟くアイヴィーを、テオドールは引き続き、冷めた目で見つめていた。
*
あの日、仄暗い路地裏でまるで米俵のように担がれ、回収されていったアイヴィー。彼女はその後、スペンサー公爵家に仕える全ての者たちの手によって、本気で軟禁される形となっていた。
「──であるからして、励むように」
「はっ!」
アイヴィーを邸内へ入れたスペンサー公爵は、使用人や騎士たちを集め、告げた。
これは極めて重要な実施訓練だ。一時的に邸内で監視することとなった人物を、決して邸宅外に出さない事を最優先に、通常業務を行う。
スペンサー公爵のその言葉に、邸の者たちは皆、やる気に満ち溢れた表情をしていた。
……どうやら、後でこっそりロージーから聞いた話によると、この軟禁が成功した暁には、協力した使用人や騎士達に報酬が約束されていたらしい。
「…………」
そこまでするか。
今回はさすがに、本当に大人しくして過ごそうと思っていたアイヴィー。だが、ここまで露骨な事をされてしまえば……逆にちょっと抜け出してみたくなる。
アイヴィーの悪い癖であった。
かろうじて許されている、数時間の庭の散歩。
その時を狙い、護衛という名の監視騎士の目を盗み、過去に作った別の抜け穴へ向かったアイヴィー。地を這うように低い姿勢を保ちながら、塀の外へと顔を出す。外の空気に触れ、「よっしゃ!」と思わず勝ちを確信した、次の瞬間。目の前にヌッ、と現れた見慣れたドMの笑顔。
「だめですよ~、お嬢様」
「…………」
当然そこも塞がれ、アイヴィーは今回こそ本当の本当に、完全な敗北を味わう事となった。
アイヴィーの脱走を阻止したルイスは、スペンサー公爵に褒められ、ー満足そうにニコニコと笑みを浮かべている。そんな彼を横目に、アイヴィーが口を開く。
「あの、いつまで……こんな……」
「……月末の皇宮で行われる夜会までだ」
夜会!?
まだひと月近くあるじゃない!?
背を向け去って行くスペンサー公爵とルイスを見つめながら、アイヴィーはわなわなと震えた後、拳の力を解いた。
ふらふらと力なく自室へ向かう途中、本を抱えたテオドールを見つけた。いつもであれば、鬱陶しい程にこやかに駆けていき、抱きしめる勢いで絡むアイヴィーであったが、今回ばかりはそんな気も起きない。
「いいなぁテオは。学園もいけるし、好きな事できて」
「姉さんは好きな事し過ぎたから、今こうなってるんでしょ」
ぐうの音も出ない。
うじうじと不貞腐れるアイヴィーを見たテオドールは、はぁ、とこれ見よがしにため息をついた。
「大体、学園だって……姉さんの学年は今休みじゃないか。少しは落ち着いたらどうなの」
このまま問題起こさないようにさ、と付け加えたテオドールは、スタスタと歩いて行ってしまった。
「…………」
そうして、時は過ぎてゆき。
アイヴィーの謹慎が開ける、夜会前日の夜。
「いい訓練だったな」
邸内には、久しく見ることの無かった、眉間にしわのないスッキリとした表情を浮かべた、スペンサー公爵の姿があった。
*
──別の抜け道、作っておかないとなぁ……
給仕からグラスを受け取ったアイヴィーは、綺麗な所作でそれを口に運びながらも、頭の中ではまたよからぬ事を考えていた。
──今は邸内外の結界魔法が強くなってるから、昔より難しくなってるのがネックだ……
はぁ、と小さくため息をついたアイヴィーが、ゆっくりと顔を上げる。視線の先には、見知った深い赤色の髪。
「あ、せんせ──」
グラスを置き、そこへ向かおうとしたアイヴィーが発した声は、途中で途切れた。
視線の先にいるライアンの目が、あまりにも冷たい。
「それで、あの件についてですが」
「…………はぁ」
すぐ目の前で、貼り付けたような笑みを浮かべているどこかの貴族相手に、ライアンは目も合わせず、酷く素っ気ない態度を取っている。
いつも、心底楽しそうに、魔道具作りやアイドルをプロデュースしていたり、反応に困る昔のオタク用語を交えながら話す、そんな彼の陽気な姿ばかり見てきたアイヴィー。初めて見る、彼の露骨な拒絶を示す態度に、アイヴィーは思わず足を止めた。
一体、どうしたんだろう。
「…………」
とりあえず、今はそっとしておこう。
その場から離れようとアイヴィーが身を翻し、見渡した先──柱の向こう、中庭へと繋がる通路に、見覚えのある明るい髪色の頭を見つけた。
外に出ていた人たちも、徐々に場内に集まってきている。そのため、今は人気が少なくなっているだろう庭園の方へ歩いていくその男に、アイヴィーは後ろからソソソッと近づくいていく。
「やっほ。アドルじゃん」
「!? げっ、アイ……スペンサー、公女サマ……」
肩をガシッと掴み、わざと驚かすような形で声をかけたアイヴィー。ビクッ、と体を揺らしたアドルは、振り返ってアイヴィーの姿を確認すると、思い切り顔をひくつかせた。
「……今日は、あの執事はいないのかよ?」
きょろきょろ、とあたりを見渡しながら小声で確認するアルロに、アイヴィーはニヤリと一瞬、悪い顔をした。
「ベル? いないよ、呼ぼうか?」
「やっ、めろばか!」
握りしめた手を小さく降り、大袈裟なまでに拒絶をあらわにするアドル。その反応が面白くて、ついつい悪戯心を働かせてしまうアイヴィーは、いけない、いけない、と自制心を働かせるのだった。
先程よりも格段に賑やかになった場内。どうやら恒例の観劇が始まったらしい。
騒がしいところは苦手だから、と休憩に出たところだったアドルに続き、会場から漏れ聞こえてくる演奏に耳を傾けながら、アイヴィーは通路を進んでいく。
やがて、中央の一番眺めのいい場所からは離れた、庭園の隅に出てきたアドルとアイヴィー。手前の花壇へ近づき、この庭園をライトアップしている魔法石をじっと眺めていたアドルに、アイヴィーは話しかけた。
「そういえば、アドルがヴァネッサをレオナルドに押し付けたのは分かったけど」
「押し付けたって……お前な」
「もう一人は?」
アイヴィーの問いに、アドルはパチリと瞬きをした。
この世界の原作『Heads or tails』は、主人公が仲間たち共に冒険をする物語である。その仲間と言うのは、ヒロインであるヴァネッサの他に、もう一人……。
「あぁ、ヒロトか? ヒロトなら今頃、家で飯作ってるぞ」
「は?」
サラリと答えたアドルに、アイヴィーはポカン、と開けてしまった口元を慌てて隠す。
ヒロト。
天真爛漫なアドルとは対照的な、いわゆる頭脳派クール系として、前世で人気があったキャラクターだ。ヴァネッサと同様、家を出たアドルが冒険をする道すがら出会った少年である。
「ん──……これまで助けた奴らって、その後は大体、適当にその辺の誰かに投げることが出来たんだけど」
「押し付けてんじゃん」
「ヒロトと妹ちゃんだけは、他に誰も頼る当てがなくてな……」
口元に手を当て、一応、表情を隠しながらツッコむアイヴィーに、魔法石から手を離したアドルは、フランクな口調で返す。
「ま! 独り立ちできるようになるまでは俺が面倒見てやるか! ってな感じで拾って帰ったんだが、そういやぁもう十数年か……」
「ヤバスギィ……」
ヒロトの妹。
作中で彼女は、ヒロトとアドルが出会う前に人攫いにあい、長い間、兄妹離ればなれになってしまっていた。おそらくアドルは、そうなる前に二人に会いに行ったのだろう。
「……妹も助けたんだね」
「おう、おかげでめちゃくちゃ懐かれてる」
そう言って微笑んだアドルに、アイヴィーもつられて穏やかな気持ちになる。
「んで、今日は牛肉のシチューだから、もう帰ろうかと思ってんだけど」
「え?」
「陛下から、顔を出すようにって言われてたんだよ。だから、仕方なく出席したんだよ、今日は」
元々、俺はこういう場は好きじゃないし。堅苦しいから、と言ったアドルに、アイヴィーは目を丸くする。
あれだけ豪勢な御馳走が並んでいるこの夜会の食べ物よりも、ヒロトの作った牛肉のシチューが食べたくて帰りたい、なんて。完全に……
「……胃袋掴まれとる」
「いやマジでうまい。原作で主人公がうめぇうめぇ!って言いながら食ってたのが、すっげぇわかるよ」
ヒロトの料理を思い出しているのか、幸せそうに瞼を閉じながら熱く語るアドル。アイヴィーはゴクリ、と喉を鳴らした。
そこまで言われると食べてみたい……。
ものすごく。
原作では確か、ヒロインが壊滅的な料理を披露したのち、ヒロトが作った飯を旨い!と泣きながら食べるアドルの姿があった。
「というか、帰ろうって……領地までは何日もかかるでしょう」
「ん? あぁ……」
アイヴィーの問いに、アドルはスッと空を見上げた。
──……?
アドルに倣い、顔を上げたアイヴィーは目を凝らす。わずかに照らされている月明かりで、宮殿の上にうっすらと黒い塊が動いたのが見えた。
「あ……あれはもしかして……ま、魔王の……」
「そ、魔王の使い魔」
魔王から奪って再契約を結んでやったんだぜ、と得意げに語るアドルに、アイヴィーは顔を引きつらせている。
──なんちゅうもんをこんな所に連れてきてんだ!?
確かにあの鳥がいれば……。
「背に乗せてもらえば、家まで数時間でつく」
「…………」
「ただし、体温保護の魔法かけないと、全身凍り付くけどな!」
ははっ、と笑いながら言ったアドルに、アイヴィーは冷めた目を向けた。
「やっぱチートじゃん」
「チートじゃねぇわ! 背に乗せてくれるまですっげぇ格闘したんだよ!」
振り返ったアドルは、勢いよくアイヴィーに食って掛かる。それをはいはい、と聞き流すアイヴィー。
「ったく、」
不貞腐れたようにため息をついたアドルは、半目でアイヴィーを見上げながら口を開く。
「てか、そっちこそどうなってんだよ?」
「え?」
「お前、殺される予定だったアイツとなんかいい雰囲気だし」
私を殺す予定っていうと、それはもうグレイソンしかないんだけど。
いい雰囲気とは……。
ジトっとした目を向けるアドルに、アイヴィーは口角を上げる。
「フッ」
「あ?」
突然、不敵な笑みを浮かべたアイヴィーに、アドルは怪訝そうな顔を向ける。
数々の苦戦を超えた先の、今の私と推しの最高に良き距離感に、気づいてしまったか。
アイヴィーは、推しであるグレイソンとたまに顔を合わせ、普通に会話をできる今のこの関係性に、とてつもない幸福を感じていた。
なんせ、前世、夢にまでみたポジションである。
訝しげな顔をしているアドルに、アイヴィーは嬉々として今に至るまでの推しとのエピソードを語り始めた。彼女の話が進むにつれ、虚ろな目をし、気だるげな返事しかしなくなっていくアドル。そんな彼にお構いなしに、今の自分がどれだけ最高の状況あるか、熱く語り続けるアイヴィー。
その末、ひと月前に己が犯した失態を思い出し、羞恥と後悔に頭を抱えたアイヴィー目の前には、いそいそと帰り支度を整えるアドルがいた。






