9.黒猫とピアス
アイヴィーから、アルロに関するかいつまんだ説明を聞いたレオナルドは、特に表情を変えることもなく、そうか、と呟いた。
「例の教団に関しては、この先もこちらで探っていくつもりだが」
ソファーに深く腰を掛け、体勢を整えたレオナルドは指を絡めて手を組んだあと、アイヴィーへ静かな視線を送る。
「スペンサー公爵家は、私が想定していたよりもかなり有能な使いがいるようだ」
「……」
そう言ったレオナルドのかすかに上がった口角を見て、アイヴィーは警戒する。それは、レオナルドの企みに気付けるほどの情報をもつ公爵家を危険視する意味か、それとも……
アイヴィーの警戒に気づいたのか、レオナルドはふっと息を漏らし、「悪い意味ではない」と付け加る。
「コックス伯爵に限ったことではないが、今後もし必要な時があれば、手を貸してくれると助かる」
そう言ったレオナルドに、なんか妙にしおらしいな……先ほどまでの傲慢な態度はどうしたと、不信感を抱くアイヴィー。しかし、目の前の男が気に入らない相手であることには変わりないが、レオナルドは性格こそ問題があるものの、悪を正す正義側の人間である事を原作で知っていたため、アイヴィーはさも当然のように頷いた。
「はい。我が公爵家は元より皇帝陛下と皇族のためにありますので」
いつものような凛とした姿勢でそう答えるアイヴィーの言葉に、レオナルドは、眉間にしわを寄せ自嘲気味に、ハッと息を漏らした後、そうだな、と言った。
情緒不安定なのかな。
先ほどからのレオナルドの態度の変わりように、困惑するアイヴィーだったが、しばらくの沈黙の後、レオナルドは「ところで」と口を開き会話を続ける。
「君は、アルロとかなり親しく話をしているようだな」
「あの方は……少し、変わっておりますので」
先ほどのアルロとのやりとりを知られていたのか、そういえばこの部屋からはアルロと話していた場所が見えるな、と視線を横の窓に向けるアイヴィー。言葉に詰まったかのようにそう答えれば、レオナルドは「それもそうだ」と納得したようだった。
「あぁ、そういえば」
まだ何かあるのか。そろそろ帰りたい。
レオナルドとの会話は、他者よりも気を張る分疲れるため、内心げんなりしているアイヴィーは、表情に出さぬようスッとレオナルドに視線を戻す。
「来月行われる式典で君をパートナーにしたいのだが」
──は?
どの口が言うんだ。
来月、レオナルドの誕生日の式典が行われる。
そんな場でレオナルドのパートナーとして参加するれば、周囲に婚約者に内定したと言っているようなものでないか。そんな事してたまるか!
というか、さっきまでかなり高圧的な態度をとってきていたくせに、本当にどの口が言っているのだ。この変わり身の早さ! だから、私はお前を好かないんだ!
公爵家は皇帝陛下と皇族のためと言っていたな、とでも言いたげな顔でこちらを見ているレオナルドを前に、アイヴィーはふつふつと湧き上がる感情を堪える。
「……当日は、スペンサー公爵家として私も警備に当たります」
「令嬢の君が、か……?」
一体何の役に立つのだ、とでも言いたげな顔。
訝しげな顔をしてアイヴィーを見ていたレオナルドだったが、扉の向こうが騒がしくなり、話は中断された。
結局、皇宮から急な呼び出しのため、レオナルドが退席する形でこの場は解散となった。
一体何があったのか。そもそも学園に来て授業も受けず、何してんだアイツは。
心の中でぶつぶつと文句を言いながら、アイヴィーはその場を後にした。
*
「レイ」
レオナルドに呼び出されたことによって、授業一つさぼってしまった。あと少しで授業も終わるこの時間から教室へ入るのも目立つし、次の授業までどこかで時間を潰そうと考えたアイヴィーは、あまり人が訪れない、校庭の端へと足を向けた。
そこには一匹の大人しい黒猫が居た。
校庭の端の花壇。彼女はよくここで昼寝をしている。入学してすぐ、ここに猫がいることを発見したアイヴィーは、それからは度々、彼女に癒されに来ていた。
黒猫は緑色の首輪をしており、首元には「0」と記されたチャームをつけていたため、アイヴィーは彼女の事をレイと呼んでいた。
名前を呼ばれたレイは、耳をゆっくりと動かしながら、尻尾を二度左右へ振る。そっけない態度はあるが、傍によっても逃げはしない。
アイヴィーはそっと近くにより、彼女の隣に座る。
頭をなでれば気持ちよさそうな顔をし、顎を突き出してくるので、今度は顎の下もわしゃわしゃする。
──癒しだ……レイはこの世界の数少ない私の癒し……
先ほどまで行われていた、苦手なレオナルドとの対話のせいで荒んだ心が癒されていく。願わくば、一度そっと抱かせてもらいたいのだが、と視線を送るが、レイは素知らぬ顔であくびをして再び昼寝に入った。つれない。
「アイヴィー」
レイに気を取られていたアイヴィーは、自身を呼ぶ声にはっとして振り向く。そこには、シルバーアッシュの髪に褐色の肌を持つ目鼻立ちのよい男がいた。
「ベル」
ベルが学園まで来るなんてめずらしい。普段は従者として生活している彼は、この時間いつもなら屋敷で仕事をしているはずだ。
驚いた表情を見せたアイヴィーに、ベルは視線を落とした。
「……帰りましょう」
特に命を受けたわけでもなく、突然学園に来たらしいのもそうだが、どこか様子が違うベルを不安に思い、アイヴィーは早退する事を決めた。
公爵家へと帰ったアイヴィーは、ベルを連れたまま自室へと向かった。どこかばつが悪そうな様子のベルに、アイヴィーは振り返り、腕を伸ばす。
ベルの正面に立ち、左耳のピアスにそっと触れる。
アイヴィーの手のひらから、ポゥ……とやわらかく温かい小さな光りが生まれ、ピアスを包み込む。しばらくすると、暗くなっていたピアスについている宝石が、キラキラと輝きを取り戻し始めた。
──結構使われていたのね。
「もしかして、あの情報を盗むの大変だった?」
アイヴィーの質問に、無言で首を振るベル。
知らぬうちに無理をさせてしまったのか、と心配したアイヴィーだったがそうではないらしい。しかし、どうにも腑に落ちない様子のベルを前に、アイヴィーはふむ、と考え込む。
昔、ベルがまだ幼かった頃に、アイヴィーが贈ったこのピアスには、小さな魔法が施されている。
魔力制御は持ち主の感情に大きく左右されるこの世界で、アイヴィーよりも遥かに多くの魔力をその身に宿していたベル。彼は公爵家へ来たばかりの頃、その膨大な魔力を抑えるため、首と腕に数個の魔力封じの魔導具がつけられていた。
ベルは、アイヴィーと共に成長していく中で、徐々に魔力を制御する術を覚えていったのだが、思い通りに魔法を使えるようになっても、魔導具を外す事には不安に感じているようだった。
彼の体には合わず、動くたびにジャラジャラと音を鳴らす重そうなそれを外してあげたいと思っていたアイヴィーが、不安そうなベルを安心させるために、では、と代わりに渡したのがこのピアスだ。
ピアスに込めた魔法は、アイヴィーの想い。
一種の記録再生魔法である。
といっても、ベルよりも強力な魔力を持たないアイヴィーの使える魔法なんて大したものではない。もしも不安定な気持ちになってしまった時に、ピアスに触れれば、まるでアイヴィーがベルに呼び掛けているような、傍にいるよといった思いが感じられるよう魔法を込めた。
それに実質的な魔力を封じるといった効果はない。
ようは気持ちの問題だ。
しかし、早い時期から親元をはなされ、公爵家へ来るまでは汚い大人たちの中で生きてきたベルは、こうして誰かのあたたかさを感じることで落ち着くようで、このピアスを気に入ってくれたようだった。
魔導具を外してすぐの頃、初めてピアスの輝きを無くした時は、絶望したような顔でアイヴィーのもとに訪れたベル。
本来、そこまで強くないアイヴィーの魔法は、ある程度使ってしまえばなくなってしまう。それを伝えた後は、今回のようにまた魔法をかけてあげた。また魔法が切れれば、ベルが来てもう一度魔法をかける。
なんか、携帯の充電みたいだなぁ、と感じていたアイヴィーだったが、その充電があまりに頻繁に行われるため、ベルが魔導具という枷を失って感じる不安はそれほど大きいものなのか、と思ったアイヴィーは、「それに頼らなくても、怖くなったり、寂しくなったりつらかったら、私のところに来ればいいのよ」とベルに告げた。
小さくコクリと頷いたベルに、アイヴィーは微笑んだ。
当時、二人はさほど変わらない年齢であったが、前世では優に20歳を超えていたアイヴィーは、目の前のこの不憫で可愛い子供に対して、じわじわと胸の奥が熱くなるような、表現しがたい感情が生まれていた。
そう、これが……母性。
アイヴィーは、慈愛の籠ったまなざしで、穏やかに眠るベルをみつめ、そっと頭をなでていた。
子供の頃、不安がるベルと一緒にすごしていた夜を思い出したアイヴィーは、あっけからんとした様子でベルに問いかけた。
「久しぶりに一緒に寝る?」
突然のアイヴィーの言葉に、ピタリ、と固まって「お、れは……」と言葉を詰まらせ、困ったように答えるベル。その姿にアイヴィーは思わず、ふふっと笑い声を漏らす。冗談よ、と言いかけたその時、強い視線を感じた。ふと扉の方を見ると、そこにはテオドールが数冊の本を腕に抱えながら、眉間にしわを寄せて立ち止まっていた。「……はしたない」と小声で吐き捨てた後、すっと去っていた姿に、なんだか最近テオの態度が特に厳しい気がする……と、小さく落ち込むアイヴィーだった。