75.完全敗北
ぼんやりとする頭を抱えながら、アイヴィーはゆっくりと上体を起こした。
「…………?」
何やら外が騒がしい。
ベッドに腰を下ろしたまま、アイヴィーは妙に落ち着いた様子であたりを見渡す。
ふと顔を上げれば、小さな窓が見えた。
ガシャガシャ タッタッタ……
この小さな窓からでは、暗い外の様子をはっきりと確認する事はできない。だが、いまだ響き続けている、厭に聞きなれたこの物音。何人もの人が馬車を降り、走っている事がうかがえる。
「…………」
少しずつ、意識がはっきりとしてくる。
「……ッ!」
──あ!!!!?
徐々に大きくなってきている外の音に、ハッと息を吸ったアイヴィーは、慌てて立ち上がった。
「……………」
ガシャガシャ、と何か物が擦れる音と共に、響く複数の足音。
──この足音、人数は……。
再び両手で頭を抱えたアイヴィーは、俯きながら急いで思考を巡らせる。
確か、レイの後をついて行って、行きつけのバーに入って……そこで色々、話しながら……あぁ、そのあたりから記憶が曖昧だ。
──ってことは……!
「………………まずい」
そう呟いたアイヴィーはパッと顔を上げ、慌てて部屋を飛び出した。
その姿を、数歩離れた位置から黙って見ていたグレイソンは「おい」とアイヴィーを呼び止める。しかし、そんな彼の言葉などまるで届いていないかのように、アイヴィーは振り返りながら叫んだ。
「裏口は!?」
「……あっちだが」
かなり切羽詰まっている様子のアイヴィーを前に、多少の躊躇いはあったものの、彼女の後ろを指さしながら答えたグレイソン。彼の言葉と同時に、バッと身を翻したアイヴィーは、裏口へと足を進めていく。
「おい、どこへ行く」
「どこって、逃げるのよ!」
「なぜ」
「……なぜ、って……ッ」
──そんなの、決まってるじゃない。
「スペンサー公爵から逃げるの!」
今度はきちんと聞こえていたらしい彼の問いに、物凄い剣幕で答えたアイヴィーは、わなわなと体を震わせながら言葉を続ける。
「今捕まったら、絶対に小言を数時間は聞かされたのちに、98%の確率で軟禁されるわ」
「…………」
ただならぬ雰囲気を放ちながら、アイヴィーは裏口の扉を勢いよく開いた。そして、サッと後ろを振り返る。
「?」
「だから早く、っていうか、なんでまたそんな格好してるの!?」
いつもの無表情でありながらも、どこか不思議そうに頭を傾けているグレイソンの両頬を掴み、ぐっと引き寄せる。
「……っ」
アイヴィーの突然の行動に、グレイソンは目を見開き驚いている。
そんな彼を睨むように、真正面から見上げるアイヴィー。
「大体、その顔はやめてって言ったじゃない!」
「ふぁあ……よく寝た。オヤジ~~悪いなまた……ん?」
ガチャ、と扉の開く音と共に男の声が、アイヴィーの声に重なった。
グレイソン顔をグッと掴み、自身のすぐ目の前まで引き寄せているアイヴィーは、声がした方へと首を傾ける。
──………………?
二人が立っている場所から、一番離れている遠くの扉が開いている。そして、その中央には一人の男の姿。
「…………」
「……」
──ん?
アレ?
何でレイがあの姿でそこに……。
「──……? ???」
「…………」
あれ?
あっちにあの男がいる……ってことは……。
アイヴィーは、ゆっくりと視線を目の前の人物へと戻す。
こっちは……まさか……。
──本物!?
「…………ッ」
パッ、とグレイソンの頬から手を離したアイヴィー。
相変わらずの無表情で見下ろしてくるグレイソンは、何も発さない。そんな彼の前で、みるみるうちに真っ青な顔色になったアイヴィーは、おろおろと体をふらつかせながら、一歩、また一歩と後ろへ下がっていく。
「な、なんで、サーチェス卿がここに……?」
「……それはこっちのセリフだが」
いや、そんな、まさか……。
何とか振り絞った震え声。
信じられないこの現状に、アイヴィーが頭を抱え叫びだしたくなった、その時。
「アイヴィー」
低く、響く声が聞こえた。
その声にバッと振り返ったアイヴィーは、逃げ出すために開けた裏口を見る。
声は、あの向こう側から聞こえてきた。
ゴクリ、と生唾を飲み込んだアイヴィー。耳を澄ませば、コツ、コツ、と小さな足音が響いているのが分かった。
──おっ……、スペンサー公爵だ!
まさか、裏口を通って出ることも読まれて先回りされた!?
路地裏を通して響き渡る足音が、次第に大きくなる。確実に、こちらに近づいている。
このままここに突っ立っていれば、下から見られてしまう! そう考えたアイヴィーは、咄嗟に裏口の傍に置いてあった荷の陰に身を隠した。
「…………っ」
足音が変わった。
──階段を上り始めたんだ!
ハッ、としたアイヴィーはゆっくりと向きを変え、表からの脱出を試みる。
「表はフェシリアとルイスがいるぞ」
「……!」
まるで、アイヴィーの行動なんてお見通しだ、とでも言わんばかりに声を上げたスペンサー公爵。カンカン、と靴底で階段を鳴らしながら、じわじわと距離をつめてくる。
「くっ……」
ここまでか……。
アイヴィーがぎゅっと目を瞑り、覚悟を決めた、その時。
断罪までのカウントダウンのような足音が、ピタリと止まった。
「…………?」
シン、と静まり返った路地裏。
身を隠している荷の端からそろりと顔を出し、下を確認するアイヴィー。スペンサー公爵の頭が見えた。
「お前は……まだ幼かったある日、突然、魔法と剣の勉強をしたいと言い、取り組み始めた」
──…………?
「なにを急にと思ったが……その数ヶ月後、お前は私が追い出した貴族の一人に毒を盛られた」
突然話し始めたスペンサー公爵の言葉に、アイヴィーは困惑しながらもゆっくりとしゃがみ込む。
「何日も熱と嘔吐に苦しんでいるお前の姿を見て、何度、私のせいで……私が変わってやれればと思ったか」
──……お父さん。
スペンサー公爵の言葉に、当時の彼の表情が頭によぎったアイヴィーは、ぐっと拳を握った。……盛られた毒で倒れ、ベッドに横たわる私の手を握るお父さんの手が、小さく震えていたのを覚えている。
「しかし、体調が改善したお前はケロッとした様子で屋敷を抜け出し、どうやって知ったのか、裏通りの限られた者しか知らないはずの密売所で、手に入れられるだけの毒液と解毒知識を仕入れてきた」
「…………」
「……」
──……お……?
「そして、それを私の知らない所で毎日少量ずつ飲んでいたそうだな。それだけに飽き足らず──」
一度開いてしまったスペンサー公爵の口からは、アイヴィーの幼き日の痴態が次々と露見されていく。
──どうして……今、そんな話を。
というかバレてたのか。
これまでも、過去の行動は何かにつけて散々言われていたけど……。
──それはバレてないと思ってたのに……!!
「気づいた時には、お前は誰よりも強い毒耐性を身に着けていた。そうとも知らず、また同じ手を使ってきた輩を、今度は目の前で跪かせ、屈服させていた」
「…………」
「……」
……横からの視線が痛い。
おそらく、この場には私しかいないと思っているのだろう。
スペンサー公爵が語るアイヴィーの破天荒な過去の暴露は止まらない。
すぐ真横に、推しがいるというのに。ああぁあ……。
「それから、誘拐されたこともあったな」
──まだ続くの!?
そう、あれは私に毒をもった貴族を完全屈服させてから、一年後くらいの事だっただろうか。例の如く、スペンサー公爵に叩き出された悪貴族の一人に、誘拐されてしまった事があった。
「しかし、お前は……私たちが助けに向かう前に自力で脱出し、逆に犯人の情報を奪い取り帰ってきた」
「…………」
「……」
「部下を集め、いざ犯人たちのアジトへと向かわんと扉を開けたら、すぐ目の前にお前が立っていた時は、どれほど驚いたと思う」
──…………。
その頃は、ベルと出会って、しばらくしての事だったから……。
あれほどの魔力を持つベルですら、制御魔導具で魔力を封じられてしまえば、簡単に自由を奪われ、抵抗することが難しかったのだ。
それに気づいたアイヴィーは、魔法だけに頼らないで素手や身近にあるものを武器として使い、大人に立ち向かえる程の、身体能力の向上を目的とした訓練を始めていた。
「一体どこで、そんなものを習ったのか」
「…………」
「……」
ありがたいことに、先ほどから一言も発さず黙っていてくれている……横からの視線が、かなり痛い。
両手で顔を覆いかくし、そのまま項垂れるアイヴィー。そのすぐ隣には、いつものような無表情でありながら、しかし、どこか呆れた表情を浮かべているようにも見えるグレイソンがいる。
「お前は努力の方向が、どこか普通の人と違いナナメに曲がっている」
「…………」
「それでいて、その熱量が凄まじいものだから質が悪い」
少しの沈黙の後、小さく息を吸ったスペンサー公爵。
「私の目が届く範囲に、閉じ込めておこうと思ったこともあったが……そうすれば、お前は大騒ぎをして家出すると屋敷を出て、本当に二日帰ってこなかったな」
ルイスと出会ったあたりの頃かな……。
アイヴィーが少し遠くを眺めながら、過去の記憶を振り返り始めた時、これまで饒舌に話し続けていたスペンサー公爵の声が止んだ。
おそるおそる、荷の影から顔を出すアイヴィー。下の階には、先ほど見た位置から変わっていないスペンサー公爵の姿が見える。
「俺が不甲斐ないばかりに、お前には無理をさせていた」
「…………」
──……。
ある日を境に、スペンサー公爵が突然、まるで人が変わったかのような変貌を遂げたのは…………全部、アイヴィーのせいだった。
だが、それは、スペンサー公爵家を陥れようとする者と必死で戦っている、アイヴィーの姿を見ていたから。
私も、このままではいけない、と。
剣の事ばかりで、領地に関しては人任せな面が多々あったスペンサー公爵。そこを突かれ、利用されようとしているのだと気づいた彼は、自分自身の力で戦えるように、大切なものを守れるようにと、領地経営を始め、これまで目を背けていた様々な事と向き合い、励んできたのだ。
そして、その結果が、現在の彼である。
「…………」
そんなスペンサー公爵の声を聞いたアイヴィーは、ゆっくりと立ち上がり、階段を下りていく。
顔を上げたスペンサー公爵と目が合った。
「…………っ」
いつもは眉間に皺を寄せ、仏頂面を晒しているスペンサー公爵。しかし、今の彼の表情からは、原作で見た通りの優しさと穏やかさと、弱々しさを感じさせる。
「お父さんのせいじゃないよ」
そっと伸ばされた右手。
その手を取ったアイヴィーは、ふわりと最後の段を降り、スペンサー公爵の目の前で立ち止まる。
「私がやりたくて、やっただけ」
握った手にぎゅっと力を込め、アイヴィーがそう言えば、小さく息の漏れる音が聞こえた。フッと口元を緩め、瞳を閉じたスペンサー公爵は、アイヴィーをそっと抱きとめた。
「あぁ、そうだな」
「…………」
──ン?
ピタリ、と固まったアイヴィーの体。
彼から放たれた声のトーンが、心なしか下がった気がする。
「初めの方は確かにそう思っていた。私が不甲斐ないばかりに、娘に苦労を掛けているのだと」
聞き間違いではない。
確実に低くなっているスペンサー公爵の声は、路地裏に重く響く。
アイヴィーは直感的に感じた。
──なんか、流れが変わったな。
「だが、いつからか気づいた。これはお前の性質なのだと」
ゆっくりと顔を上げるアイヴィー。
そこには、先ほどまでの弱った表情を浮かべる父親の姿など、どこにもなかった。
「だから、今回こそ、自身の軽率な行動の反省がうかがえるまで、屋敷からの外出を一切禁止する」
「……ッそんな!!」
──今さっきまで、そんな流れじゃなかったのに!!
「あっ、うわぁ!」
「…………」
そう言い放ったスペンサー公爵は、アイヴィーをまるで米俵のように担ぐと、そのまま肩に乗せ歩き始めた。
カツ、カツ、と足音が響く。
「あ、あのっ……ちょっと」
「対象は確保した。これより馬車に戻る。……あぁ、撤退してくれ」
「……!?」
胸元のブローチに手を当て、魔導具で通信を終えたスペンサー公爵は、黙々と馬車へ向かって足を進めた。ガチャッと馬車の扉が開けば、その中にサッと放り込まれるアイヴィー。
「…………あだっ」
座席に手をつき、座り込んだアイヴィーの前に、ドカッ、と腰を下ろしたスペンサー公爵。
「フン」
「…………」
ゆっくりと車輪が回り出す振動が伝わる。
カタカタと穏やかな音を立てながら、馬車は公爵邸へと向かって行く。
道中、重い沈黙を打ち消すように、アイヴィーが口を開いた。
「あの」
「お前が邸を抜け出す事など予測していた」
「えっ」
「ただ以前から一箇所、どうしても見つけられなかった鼠の穴があったが」
パッと顔を上げたアイヴィーに、薄く瞼を開いたスペンサー公爵が鋭く告げる。
「今回ようやく、それを見つけ、塞ぐことができた」
「…………」
──っく。
少しだけ上げた口角をスッと戻したスペンサー公爵の前で、アイヴィーはぐっと拳を握る。
この日、アイヴィーの完全敗北という形で、何度目かになる大きな親子喧嘩は幕を閉じた。
*
表に道を塞ぐ形で停めてあった見慣れない馬車も、訓練された人の気配も消え去った路地裏は、いつもの暗い質素な雰囲気を取り戻していた。
「……」
先ほどまでアイヴィーが身を隠していた、荷の陰からスッと立ち上がったグレイソンは、屋内へ入り、裏口の戸を閉める。
──いない。
アイツと共に来たと言っていた、店内の床で転がって寝ていた男。
おそらく、アイヴィーが自分とその男を間違えていたであろう場面に、ふてぶてしい態度で現れ鉢合わせた、件の男が姿を消していた。
──…………。
数分後、何事もなかったかのように静まり返った店内に、カランと鈴の音が響いた。オーバンが帰ってきた。
「あれ? あの子は?」
「……捕獲されていった」
「捕獲?」
どこか遠い目をしながらそう語ったグレイソンに、オーバンは、んん?と首を傾けながらたずねるのだった。






