8.アルロと真相
「よ! スペンサー!」
学園内の通路を歩いていたアイヴィーに、片手をあげ、軽快に近づいてくる一人の男の姿があった。アルロだ。
「なに」
「いや、この前の夜会でさ……」
先日の夜会に参加していたアルロは、丁度パーティーの終わり際に庭園が見えるバルコニーで休んでいたという。夜会も終わりを告げるという時間に、庭園の奥から現れたグレイソンと、しばらく時間を置いてから現れたアイヴィーを見ていたらしい。
アルロはパッと左右を見渡し、近くに誰もいないことを確認すると、そそくさとアイヴィーの目の前まで駆け寄り、鼻と口に手を当て小声で言った。
「逢引してたのか?」
「……」
目を煌めかせ、さぞ楽しそうに聞いてくるアルロに、アイヴィーは白い目を向ける。
「あーなんだっけ、サンクス? 卿?」
「サーチェス卿! グレイソン・サーチェス卿よ!」
そんなんじゃないし! と反論するアイヴィーは、何がそんなに楽しいのかケラケラ笑いながら話すアルロを適当にあしらい、別れを告げる。
何故だかどっと疲れた。アルロと話していたせいで時間も押してしまった。早く教室へ向かおうと足早に歩き始めたアイヴィーだったが、鋭い視線を感じ、首を傾ける。
ギョッとした。
そこには、腕を組みながら壁にもたれかかりこちらを睨む……
──推、しがいる
「……ついて来い」
低い声でそう言うと、グレイソンは歩き出した。アイヴィーも黙ってその後ろをついていく。
推しにそんなことを言われたのだ。逆らえるはずもない。頭で考えるよりも先に体が勝手に動きだしていた。
先日の夜会で、「君のハニトラバレてるよバレ」をしたアイヴィー。失言直後は青ざめていたアイヴィーだったが、落ち着いてくると、推しの過剰摂取による動悸息切れで苦しくなるほど楽しかった出来事が、これからはもう起こらないのか、と少し寂しさを感じていた。
推しの事は好きだが、推しと付き合いたい! とか、好きになってもらいたい! だとかを考えているわけではないアイヴィー。だが、あんな風に近くで推しを見れて、話せて、誰も知らなかった推しの新たな情報を知っていける日々はとても尊いものだった。しかも、原作では詳しく描かれていなかったハニトラVer.の推しで!
──これが "ロス感"、か……
受け止めきれず、ドバドバと溢れ出るほどの「推しの無限供給」を全身で受ける感覚を知ってしまったが故の、虚しさ。同じ世界に推しが居て、同じ空気を吸って生きているというのに、当初はそれだけで十分だと感じていたのに……贅沢な悩みだ。
しかし、どんな理由があるにせよ、またこうして推しと直接話す機会が巡ってくるなんて。しかも、今のグレイソンは原作感の強い、素の推しの状態…………ん? ちょっと待って。でも、推しが私を呼ぶ理由なんて一つしかないよね。
アイヴィーの予想通り、グレイソンについていった扉の先にいたのは、金髪にターコイズブルーの瞳を細めて不敵な笑みを浮かべている──皇太子殿下だった。
「かけてくれ」
挨拶もそこそこに、用意されたソファーへと案内される。静かに従うアイヴィーに対し、レオナルドは「先日の」と話を切り出す。
「夜会での私の贈り物は、お気に召さなかったようだな」
「……何の事でしょう」
「パーティーの時、君はよく一人で居るようだったからな」
「……」
「気に入らなかったから、突っぱねたのだろう」
──こっ、いつ……ッ!
思わず、グレイソンの事か──ッ! と目の前のこの男に飛びつき、殴りかかりたい衝動が生まれたが、扉の向こう側にはそのグレイソンが控えている。アイヴィーは震えながら感情を押し殺した。
そんなアイヴィーの様子を無言で見つめているレオナルド。
夜会での、いやそれ以前からのグレイソンのハニートラップに気づいていたアイヴィーに、レオナルドはまたしても強い敗北感を味わっていた。
「今まで私には全く興味を示さず、何があろうと表情一つピクリとも動かなかったくせに、グレイソンが相手だとずいぶん違うようだったが」
グレイソンの行動が色仕掛けであると知った上でも、その甘美な誘惑を受け入れていたアイヴィーを卑しめるように、まるで恋に溺れる者を馬鹿にしたかのような、冷たい視線でそう言ったレオナルド。だが、
──お前だってなぁ……! ヒロインと出会ったらそこらに転がっているような、恋愛脳の一人になるんだよ!
アイヴィーは前世で読んでいた原作の展開を、レオナルドが主人公たちと出会い、そのうちの一人の女の子に心惹かれていく未来を知っている。しかもその女の子が、何を隠そうヒロインなのだ。
お高く気取っているこの目の前の男が、もう少し先の未来でヒロインに心奪われ、しかもそれが叶わぬ恋でありながらも、その気持ちに翻弄され振り回される姿を知っているからこそ、アイヴィーは燃え上がった感情を鎮めることができた。
思わず、表情をゆるめてふっと笑うアイヴィーに気を悪くしたのか、顔をしかめたレオナルド。そんな彼に向かって、アイヴィーは穏やかに告げる。
「頭では分かっていても、動き出してしまった心に抗うのは、どうしようもなく大変で苦しいものです。貴方もきっと、そのうち分かることでしょう」
主人公ご一行と出会って、ヒロインを目の前にしたその瞬間にな! と、心の中で原作で見た未来のレオナルドの様子を思い出し、毒づくアイヴィー。
さて、次はどんな切り返しで来るか。何を言ってやろうかと臨戦態勢に入るアイヴィーだったが、レオナルドは目を見開き口をつぐんでいた。
──ん?
内心を悟られぬよう、まっすぐと視線を合わせるアイヴィーに、まるで苦虫を嚙み潰したよう顔をしたレオナルドは、しばしの沈黙の後、アイヴィーを呼び出した本題へと移った。
レオナルドは以前から「例の教団」について調べていたようだった。そこで今回、コックス伯爵家から多額の資金が流れている噂を知り、コックス伯爵家を調べれば例の教団について深く知れると考えたらしい。
「次男のアルロが、最近、頻繁にスペンサー公爵邸へと足を運んでいると知り、そこから手掛かりが得れればと思った」
そう話すレオナルドにアイヴィーは、そこでなぜ駒を伯爵家ではなく、公爵家へおくるんだと思った。そして、それよりも教団へ直接、信者に扮した駒を送ればよかったのに……とも。
「もちろん伯爵家にも探りは入れた。だが教団に関しては何の手掛かりも得られなかった。それどころか、以前よりまして仕事に取り組むコックス伯爵の、堅実な様子が見えた」
……顔に出ていたかな?
アイヴィーは一層引き締めた顔を作る。
「そして教団も、集会が開かれる位置までは特定できたが、集まりがある日もそうでない日も、その中へ入ることはできなかった」
「え……」
場所が特定できているのであれば、その実態を知るのに時間はかからないのではないか。それなのに、
「中に、入れない?」
「あぁ、力技でこじ開けようとも、ドアには特殊な魔法がかかっていてな」
レオナルドは顔を上げ、正面からアイヴィーを見つめる。
それはまるで、スペンサー公爵家の部屋にかけられている、あの特殊な魔法のような、と。口には出されていないが、瞳が、そう言っている。
アイヴィーは息をのんだ。
──そんな、まさか
スペンサー家は、例の教団に関しての情報を把握していなかった。それもそのはず、スペンサー家は悪事を働く貴族を中心に調べていた。例の教団は、もともと平民たちの間で小規模に細々と信仰されていたものらしい。それが最近になり、貴族の間でも話題になり、コックス伯爵家が多額の寄付をしていることを知り、レオナルドが動き出したのだ。
「アルロはなぜ、頻繁にスペンサー公爵家へと通っている?」
「……アルロは」
アイヴィーは、数か月前のことを思い出す。
*
「魔女を蘇らせる……?」
スペンサー公爵邸の応接室。
最近、父と長男の様子がおかしいと感じ、調べていたらしいアルロが、スペンサー公爵へと助けを求めに来たのだ。
どうやら、魔女を蘇らせると謳っているらしい謎の宗教団体にハマったコックス伯爵。伯爵と長男は、その集団の集まりに定期的に参加していたようなのだが、最近になって特に多くの金銭を流しているようだ。初めは個人が扱える範囲の管理費ほどだったものが、今は伯爵家全体の予算や領地の費用も使われ始めていた。
虚偽申告と不審な金の動きに、コックス伯爵家には目をつけていたスペンサー公爵だったが、その魔女を……という話を聞いたのは初めてだ。詳しく調べてみる必要があるかもしれないと、公爵は部下に指示を出した。
公爵家へと助けを求めにきたアルロは、そこで、「伯爵と長男を切り捨てるのであれば、お前が継がなければならない」と言われ、「そんな面倒くさいことは嫌だ!」と他に何か手はないかと、何度も足を運び提案をしていたが、却下されていた。却下されるたびに特務室に連れていかれ、そこで家を継ぐためのあれこれを叩き込まされていた。
「なんで公爵家がわざわざ俺の事なんかを……面倒見るんだよぉ……」
泣きながら訴えるアルロ。その涙は感激ではなく、嫌々やらされていることに対する嘆きの涙だ。そんなアルロにアイヴィーは優しく告げる。
「それはね、お父様はきっとコックス伯爵家を継ぐのは貴方がふさわしいと考えているからよ」
「だからどぼじで…っ」
「伯爵家の異常をいち早く察し、自らの手ではどうにもできないと判断し、我が公爵家を訪ねて助けを求めて来たことを評価してるみたいよ」
「だから本当に、どうにかしてほしくて来ただけなんだって……!」
自分のため! 他人任せに他力本願だったんだって! と言うアルロは、貴族には珍しく伯爵家の次男であることを喜んで生きているタイプだった。家にも地位にも興味はなかったし、その野心のない性格は父親と兄とは正反対のため、関係も良好ではなかった。単にアルロが変わり者であることも理由にあるだろうが……。
ある程度、自由に行動できていたアルロは、国内では知ることができない様々な珍しいものに興味を持ち、学園卒業後は家を出て、国の外を飛び回りたいという野望ができていた。だが、伯爵家が今回の問題でこのまま落ちぶれてしまえば、それも叶わない。
本人の主張通り、アルロは自分のために公爵家へ来たのだった。
「でもあなたに素質があるのは本当よ」
「ぜっんぜん嬉しくない」
事実、泣きながらも出された課題にきちんとこたえていくアルロは、教えられれば一度で覚える上、応用までできる。いわゆる天才型の人間であった。
「そんなに言うなら、家を継いでから好きに生きればいいじゃない」
「そんな簡単に言うけどなぁ」
「それか、領地経営に興味があって貴方が苦手とする貴族としてのあれこれが大好きな、素敵な嫁でも捕まえて任せればいいじゃない」
「……結婚は恋愛結婚がいい」
「……」
夢見がちな男だ。
アイヴィーはアルロが思いを寄せている相手がいることを知っていた。
「アルロ」
小声でぶつくさと言い続けるアルロにアイヴィーは少しトーンを下げた声で告げる。
「貴方は確かに魅力的な人よ。その才能も前向きなところも」
「……スペンサー」
「ただ、性格に難アリなのよね。それを伯爵家という身分がカバーしているの」
「……」
「つまりその身分がなくなってしまえば、才能があるため他人から睨まれる厄介な妙にポジティブな変な男なの」
「……」
「そんな男がそばにいては、ルフィーナさんはさぞかし周りから奇異の目で見られ、心苦しく生きる事になるでしょう」
「そ、んな」
アイヴィーは知っていた。ルフィーナは別にアルロの事なんて好きではないと。男爵である彼女は、身分の関係上強く拒否することもできず、アルロの話を聞いてあげている事実を。
「だから、ね。せめて貴方はその知識と地位をもって、ルフィーナさんが幸せを感じることができるような場所を作ればいいんじゃない? 伯爵家に」
こじつけでしかない、適当に並べた言葉だが、ルフィーナという名前を出してから、アルロの目の色は変わっていた。キラキラ輝いている。
恋は盲目。
その日からアルロは真剣にお父様──スペンサー公爵のしごきを受けていた。
アイヴィーは考えた。
もしかしたら、いつかはルフィーナさんにアルロの想いが伝わって二人分かり合うことができるかもしれない。
──知らんけど。
アイヴィーは邸内で見かけるたびに泣いてすがってくるアルロを鬱陶しく感じ、やんわりと諭しただけだったが、思ったより効果があったことに驚いた。
それ以降、一応人目を気にしてはいるが、気軽すぎる態度で話しかけてくるようになったアルロに、また頭を抱えることになるアイヴィーだったが。
これが、レオナルドが知りたがっていたコックス伯爵家の次男、アルロがスペンサー公爵家を頻繁に訪れている真相だ。






