64.グレイソン
暗い。
足元が冷たい。体が、動かない。
──なんだ、この感覚は…………。
辺り一面、何も写さない、黒。
真っ暗な世界で、小さな月明かりが一つ浮かんだ。
ざわめく木々に、漂う嫌な匂い。
重い空気に、響き渡る魔獣の声。
やがて、足元だけに感じていた冷たさが、徐々に全身へと伝い始める。
『……寒い』
どこかで、消え入りそうな声が響いた。
ひどい焦燥感に、胸がざわつく。
体は冷えて寒いのに、まるで灼熱の中に居るかのように、喉が乾く。
冷や汗が伝う感覚が、気持ち悪い。
──ここは、どこだ。
泣き叫ぶ、人々の声。唸る魔獣。
じっとりと湿った、冷たい空気。
ふと足元に視線を向ける。
赤黒く濁った布袋が、床一面に敷き詰められている。
「……ッ」
──これ、は……
布袋がゴソゴソと音を立てる。
中から現れた、ほっそりとした青白い手がこちらへ向かって伸ばされる。
──……ッ
体は先ほどから、ピクリとも動かせない。
「グレイソン!」
誰かが、名前を呼ぶ声が聞こえた。
*
ぼんやりと思い出せる、幼い頃の記憶。
その中では毎日、みんなが笑っていた。
グレイソンが生まれた小さな村は、四方を山に囲まれた奥地にあった。
暮らしは決して裕福とは言えなかったが、両親と姉、他の村人……皆が互いを助け合い、健やかな生活を送っていた。
ところが、ある満月の晩。
魔物に村を襲われた日から、その生活は一変する。
それは、これまで見た事もない程、狂暴で凶悪な魔獣であった。幸い死者は出なかったが、田畑が荒れ、ほとんどの食物がダメになってしまった。加えて、倒した魔獣の血の影響なのか、魔獣たちが荒らした土地では、これまでのようには食物が育たなくなってしまった。
苦しくなっていく生活。やがて、父が働きに村を出ていった。何日かに一度、食料と共に顔を見せに帰ってくるが、次第にその表情は暗くなっていく。
ある日、この地を収めているという貴族の男が一人、村を訪れた。
詳しい事は分からなかったが、“しさつ”にきた、と言っているらしい。
ここに居なさい、と言われた部屋からグレイソンがそっと顔を出せば、その貴族の男に、母がぶたれているのを目撃した。
「母さん!」
「……もう一人いたのか」
貴族の男は醜く顔をゆがめて、こっちを見て言った。
母さんは慌てて俺の手を引いて、ぎゅっと抱きしめてくれた。
いつも抱きしめてもらう時は、優しく温かく感じた母さんの腕の中。だけど、その日は酷く冷たい……母さんの体は、小さく震えていた。
「お父さんとお母さんのこと、よろしくね」
そう言った姉は、いつもみたいに俺の頭を撫でた後、家を出ていった。
姉は貴族の男が乗ってきた馬車に乗せられ、連れて行かれてしまった。
どうやら貴族の男と“とりひき”をしたらしい。
姉が家を出て、あの貴族の男の家に行って働けば、うちにお金を入れてくれる。納める税も少なくなるらしい。
その日から、母さんが笑うことはなくなった。
約束とは違い、家に入るのは微々たる銅貨。
次第にそれはさらに少なくなっていき、やがて、お金が入ることは無くなった。
姉が家に戻ってくることはなかった。
*
森で薪を拾っていた帰り道。
カタカタと音が聞こえた方へ、顔を上げたグレイソン。
見覚えのある馬車が、すぐ近くの舗装されていない道を通っている。
──あの馬車……!
姉を連れて行ってしまった、あの貴族の男が乗ってきた馬車だった。
俺は慌てて、馬車の所まで駆け寄った。
馬車を止め縋りつく子ども相手に、馬車から降りてきた貴族の男は、まるでうじ虫でも見るような目で見降ろしながら言った。
「お前の姉は、仕事を放り出して逃げた」
全く、いい迷惑だ、と悪態をつく男は、続けて黙っているグレイソンに向かって「だから金など、やるわけがないだろう!」と吐き捨てた。
グレイソンは、ギュッとこぶしを握り締める。
「もしや、ここに戻ってきたのではないかと、ついでに立ち寄ってみたが……隠しているんじゃないだろな!」
俯くグレイソンに、男は罵声を浴びせ続ける。
──おねえちゃんは途中で逃げ出すような人じゃない。
でも、もしかしたら……
本当に、逃げ出したいくらい、辛い目にあっていたのだろうか。
グレイソンは叫びだしたくなるような感情を押さえ、自身が代わりに働きに行くと提案する。だから姉を許してほしい。そして、家にもお金きちんと入れてほしい、と。
貴族の男はふむ、と少し考えるそぶりを見せてから、いいだろうと卑しい笑みを浮かべ、グレイソンを馬車に乗せた。
貴族の男の屋敷についてからは、朝早くから、夜遅くまで目が回るほどの、たくさん仕事を与えられた。
雑用が多かったけど、村でだってこれまでも、毎日なにかしらの仕事をさせてもらっていた。
なにより、これで母さんと父さんが楽になるのなら、とそう思えば、不思議と頑張れた。
願わくば、ここから逃げ出したという姉も、今頃は村へ無事ついていて父と母と顔を合わせられていますように。
覚えのない失敗を叱咤され、挫けそうな時も多くあった。
けれどそんな時は、二つ年上の使用人仲間であるエミリーが話を聞いてくれた。庇ってくれることもあった。
「いたった……」
「……ごめん、おれのせいで」
「気にしない、気にしない」
頬の傷をさすりながら、そう言って笑いかけてくれるエミリーをみて、どこか懐かしい気持ちになった。苦しくなった時は、いつも彼女が声をかけ、支えてくれた。
この屋敷で独りぼっちだったら、耐えられなかったかもしれない。
エミリーの雰囲気は、少し、おねえちゃんに似ていた。
もう少し体がしっかりしてきたら、今まで助けてくれた分、今度は俺がエミリーを助けられるように頑張ろう。
いつしか、そんな前向きな気持ちが生まれていた。
しかし、そんな思いは、ある日の深夜────ふと目が覚め、寝付けなくなったグレイソンが外に出たあの日の夜に、全てかき消された。
その日は綺麗な満月だった。
足音を立てないように、ひっそりと裏庭まで出たグレイソン。すると、近くの木々の影からなにやらゴソゴソと、人が来る気配を感じた。まるで人目を避けるように、二人掛かりで布袋を運ぶ大人の男。どちらも、この屋敷の使用人の服をきている。彼らの進む先には、普段使われていない古い焼却炉があった。
「……っ」
ゾゾゾッと、グレイソンは背筋が凍るのを感じた。
大人たちが運んでいる、布袋の端から見えた中身。暗くてはっきりとは見えなかったが、月明りに照らされたそれは、人間の髪と手に見えた。
──人……⁉
グレイソンは口を手で覆い、その場に立ちすくんだ。
「まったく……、旦那様の趣味には反吐が出るな」
「しっ、誰かに聞かれたら面倒だ」
「こんな時間だ。誰もいないだろ」
大人たちは乱雑に、普段は使われていない焼却炉へとその布袋を放り入れた。
「ちょっと帰りたい、家族に会いたいって言っただけで、折檻して毎回これはないぜ」
「旦那様の虫の居所が悪かったんだろう」
「地下室に変な奴も飼ってるらしいしよ」
「あっちは奥様の趣味だろう」
まさか、ここに俺がいるとは思っていない大人たちは、旦那様と奥様の悪口を言いながら焼却炉に火をつけ、去っていった。
固まった足がようやく動き始めたのは、うっすらとあたりが明るくなり始めた頃だった。
翌朝、同じ使用人仲間であるメアリーが屋敷を抜け出しいなくなってしまった、と告げられた。
ここで働く使用人の中で、一番小さかった俺を何度も気遣ってくれたメアリー。彼女は、同じ使用人として働く中で、一番優しくしてくれていた。どうしてそんなに優しいのかと尋ねたことがある。すると、メアリーは笑いながら、私にも貴方くらいの弟がいるのよ、と言ってくれた。「だから一緒に頑張ろうね」と話していたのは、記憶に新しい。
それなのに、なんで。
「……………うそ」
本当は分かっている。
誰よりも優しくて、責任感も強くて、思いやりがあるメアリーが、仕事を放り出して屋敷を抜け出すなんて、そんなことするはずがない。
昨日見た布袋の中身は、メアリーだった。
*
半月が経った。
ここへ来てからは一度も、屋敷の敷地外へは出たことはない。
家族が心配だ。一度でいいから、顔がみたい。元気にしているだろうか。
帰りたい、執事長に相談してみようか。だけど、
『ちょっと帰りたい、家族に会いたいって言っただけで、折檻して毎回これはないぜ』
グレイソンはあの日見た光景が頭によぎり、拳をぎゅっと握りしめた。
その時、初めて気づいた。
俺は、とんでもない所にきてしまっていたんだ。
「そういえば、また東の村が襲われたらしいぞ」
「あぁ、今度はすべて焼き払われたとか」
「ありゃあ村は全滅だろうな」
東の、村…………。
それは、グレイソンが生まれ育った、あの村の事だろうか。
目の前が真っ暗になった。
俺は一体、何をしているんだろう。
静かな夜。
布団に入ったグレイソンは、ふと天井を見つめながら、今までの事を思い返し始めた。
あの日、あの貴族の男はなんと言った?
『お前の姉は逃げたんだよ、もういない』
本当に逃げていたのならいい。だけど……
でも、もし、おねえちゃんがメアリーみたいに……
「……ッ」
嫌だ、考えたくない。
グレイソンは薄い掛け布を頭まで覆いかぶせ、目を閉じた。
眠れないまま、ただ呆然と横になる。
それでも朝はやってきて、いつも通り仕事を始めた。
ただ、覚えてる通りに動いているだけの、自分の体。
「…………」
てっぺんに上った太陽の光は、辺りを明々と照らしている。
それなのに、体中が冷え切っているような感覚に耐え切れず、グレイソンは腕を抱え、その場にうずくまった。
「寒い……」
「全くお前は! 旦那様が起きる前に終わらせておけと言っただろう!」
──……。
「何度言ったら分かるんだ!」
──…………。
「××××! ××××××」
──……?
いつの日からか、きいてもいない仕事が終わっていない!と、理不尽に叱られ、叩かれても、以前のような不安や恐怖心がなくなっていた。
そんな状態のまま、一年がたった。
グレイソンの口数は減り、質問された事に答える以外、自ら口を開くことはほぼ無くなっていた。自然と表情も固まっていく。
気付けばグレイソンは、泣くことも、笑うことも、なくなっていた。






