62.アドル
「大丈夫! アレ、壊してくるから、お願い」
そう言ったアイヴィーは、黒い靄の奥へと踏み込んで行ってしまった。
視線を下げたベルは、瞳は開いているものの、どこか遠くを見ているようで意識がハッキリしていないグレイソンに向け、手をかざす。
──冷たい……。体温上昇、と、それから……
「……?」
グレイソンの額に当てていたベルの手が、小さく震えた。
ピク、と微かに顔をしかめたベル。その直後、背後からメイドの悲鳴が響いた。
「あ、あれ!」
「……!」
顔を上げたベルが目の前を確認すると、先ほどまで黒い靄だったものが、真っ黒の球体へと形を変えていた。
──あれは、アイヴィーが使ってた……
「……う、」
先ほどまで凍えるほど冷たく、ピクリとも動かなかったグレイソンが顔をしかめながら、苦しげな声を出した。
体温も戻ってきてるし、意識も戻りそうだし……。
──とりあえず……もういいか。
ベルは小さく呻くグレイソンを横に放り、立ち上がった。そして、アイヴィーが飲み込まれた黒い球体へと近づいていく。慌てて声を上げる騎士たちを無視し、魔術を発動させながら球体へと触れる。
しかし、ベルの手はバチッと音を立て弾かれてしまった。
「…………」
──この魔力量。
以前、アイヴィーが使っていた魔術と似ているが……今、目の前にあるこの球体の魔力量は、それとは桁違いだ。
──魔力量で押せば、この程度、消せるだろうけど
でも、それだと周りと、なにより中にいるアイヴィーも傷つけてしまうかもしれない。
「……──」
ベルが球体の前で立ち止まり、考え始めたその時、トンッと何かが肩に触れた。
「ごめん。ちょっと、どいてて」
振り向くと、そこには白く光る大剣を持った、一人の少年がいた。
その少年は、ベルが一度瞬きをした間に目の前の黒い球体へ向け、剣を振り下ろした。
彼の剣が黒い球体へと触れた瞬間、辺り一面まばゆい白い輝きが溢れ、直後、黒い球体であったそれは、まるで砕かれたガラスのように粉々に砕け散った。
──あの、剣……。
ベルは少年が豪快に振り下ろした、彼の体には合わない体きな剣を見つめながら、片手に宿していた魔力を解いた。
*
「うお、やべ、間に合ったか?」
「あ、あなた……」
「大丈夫か? 今助け……ウワ?!?!」
膝をつき、顔を上げているアイヴィーへと手を差し出した少年。しかし、その少年はアイヴィーと正面から顔を合わせた直後、目を大きく見開き、大袈裟なほど驚いて声を上げた。一歩、二歩、と後ろへ下がって行った少年は、ハッとした後、パッパッとあたりを見渡し、今度は青ざめていく。
「?」
「と、とりあえず、アレ。壊してもいいか? ……いい、ですか?」
「え……」
おどおどと少年が指さした先にあるアーティファクトは、最初よりも力が弱まっているように思えるが、いまだ赤く光る魔法陣は消えておらず、あたりに再び黒い靄をまとわせ始めている。
──私に許可する権利はないんだけど
アイヴィーはひとまず、コクリと頷いた。すると、少年は再び持っていた剣を振り上げ、そのアーティファクト目掛け叩き落とした。
地響きのような、重々しい音が辺りに響く。
その音が消える頃には、赤い魔法陣も黒い靄も完全に消え去っていた。
アーティファクトは、真っ二つに綺麗に切り裂かれた。
次第にぼんやりとしていた頭が、はっきりとしてくる。
アイヴィーは周りへと視線を向ける。庭園の緑と、建造物の白と灰色。金。
これは幻覚じゃない……現実の世界。
「アイヴィー」
ホッと胸をなでおろしたものの、その場に座り込んだまま動かないアイヴィーの元へ、ベルが駆け寄る。自身のポケットからハンカチを取り出したベルは、それでアイヴィーの顔を覆った。
「!?」
「……これ、使って」
ハンカチが顔に張り付いている。
「あ……」
涙を流していたのだと気づいた。
張り付いたハンカチを掴んだアイヴィーは、それをゆっくりと外す。瞬間、両側の頬をガシッと掴まれたアイヴィー。ぐっとベルが顔を覗き込んでくる。
「……? ベル?」
アイヴィーの顔に手を添え、至近距離でじっと見降ろしている彼からは、どこからか苛立ちのようなものを感じる。
「……神官を」
ベルはそう呟くと立ち上がり、傍に居た皇宮の使用人に指示を出していく。
その様子を、アイヴィーはポカンとした表情で眺める。
「あ」
ベルが立ち上がった後、チラッと一瞬、遠くの方にグレイソンが見えた。その場に座り込んでいるものの、その目はしっかりとこちらを見ていた……ように思う。
──よかった、無事だったんだ。
アイヴィーがふぅっ、と小さく息を吐いたその横で、モゾモゾと動く少年が視界に入った。
「あの」
「えっ!」
アイヴィーが声をかければ、少年はビクリと体を揺らし、こちらを振り向いた。
「な、なん……だ?」
やや挙動不審な様子であるが、この少年……アイヴィーを見て露骨な作り笑いをしている。
……やっぱり。
その少年の顔を再び見たアイヴィーは、確信する。
──この少年…… 主人公だ!!!
*
──アドル・ハールメン
年齢の平均を考えるとやや小さな身長に、人懐っこさを感じる笑顔が特徴の──
本来であれば、12年前にスペンサー公爵家を訪れ、一家を破滅へと導くはずであった──
レオナルドではなく彼がヴァネッサを助け、結ばれるはずであった──
──『Heads or tails』の主人公だ。
「でも、どうして、今……」
あの後、ベルの進言は陛下まで届けられ、神官の派遣依頼が下された。
そのため、神官の到着まで皇宮の一室での待機を命じられたアイヴィーは、案内された部屋のソファーへと腰を下ろし、先ほど目の前に現れた主人公について考えている。
──主人公は何をしているのか、気になってはいたけど……。
なぜ、これまで一度も関わってこなかった主人公が今日、皇宮に現れたのか。
いや、それよりも。
気になるのは、さっきのアドルのあの反応──……。
──私を見て、驚いて声を上げてた。
それも、その直後に顔を青くして。
話しかけたら、露骨にビクビクしてたし……。
「……」
──この世界で、アイヴィーと主人公は初対面のはず……。
それにも関わらず、あんなまるで、怯えるような驚き方をするなんて。
「……もしかして」
アイヴィーは口元に手を当て、声に出しかけた脳裏に浮かんだ一つの可能性を飲み込む。
──もしかして、主人公も……
「アイヴィー様」
考え込んでいたせいで、自身を呼ぶ声にすぐに反応できなかったアイヴィー。慌てて、声がした方を向けば、こちらを不安げな表情で窺う、一人の帝国騎士の顔があった。
「あ、えっと……」
「……申し訳ございません。ヴァネッサ様と守護龍様がいれば、こんな事には」
ヴァネッサと守護龍は現在、皇宮にはいない。日照りが激しく、作物が育たなくなってしまったという東北の地へ向け、昨日の朝から城を出ていたらしい。
どこまで伝承通りなのかは分からないが、皇宮で働く人たちの多くは、守護龍様がいればあのような魔術の攻撃を受けることはなかったのだ、と考えているのだろう。
「いえ。私が勝手に飛び出していったので」
「……ですが」
気を落としている騎士へ、穏やかに微笑みかけるアイヴィー。
彼女に落ち度はない。だが……
──禁術が使われた。それも皇宮内で。
これは相当、大きな問題だろう。
「神官様の到着まで時間がかかるとのことで、もうしばらくこちらの部屋でお待ちいただけますか」
「はい」
「申し訳ありませんが、その間、この部屋から出ることはお控えいただきますよう」
騎士は頭を下げると、部屋を出て行った。
「………」
扉が閉まるのを確認したアイヴィーは、共に部屋に控えているベルに視線を向ける。
──それにしても、神官なんて……急にどうして
なんか様子が、いつもと違うし。
あの黒い中に捕らわれた時は、確かに精神を蝕まれているのを全身で感じていたけど、今はこんなにピンピンしてるのに。
アイヴィーは、先ほどは震えて思い通りに動かせなくなってしまっていた手のひらを、閉じたり開いたりしながら口を開いた。
「神官様まで呼んで、診てもらう必要はないと思うけど……」
「ダメ、受けないと」
珍しく、はっきりと言い切ったベルにアイヴィーは、首を傾ける。
「なんで? ベルが診てくれたじゃない」
「俺は、みた、だけ」
「? ベルじゃ治せないの?」
部屋の中に用意してもらったティーセットを移動させていたベルは、ピタリと立ち止まり言った。
「治せない。魔術と、神聖術は違う、から」
「神聖術……」
神官様なんて、本当に小さい頃に一度見かけたくらいで、これまで目にする機会なんてほとんどなかった。だから、神聖術なんて言われても、いまいちピンとこないんだけど……。
それよりも、はっきりと「出来ない」と告げたベルに、アイヴィーは驚いていた。
──いつも大体、何でもできるのに……。
「ベル……」
アイヴィーがベルの名前を口にしたその時、コンコン、と扉を叩く音が響いた。
「ちょっといいか」
「……あ」
ノックの後、返事を待たずして扉を開け顔を出した、声の主────アドルは、部屋の中にアイヴィーを見つけると、真剣な表情で続けた。
「アイヴィー・シャーロット・スペンサー。お前と話がしたい」






