58.使い魔
手の平から流れ落ちた水滴が、ぽちゃんと小さな音を立てて水面へ落ちる。
ぷかぷかと浮いている白と黄色の花を目で追いながら、アイヴィーはずるずると身を沈めていき、口元まで湯船につかる体勢になった。
『お前、魔物臭いな』
別れ際、守護龍様に言われた言葉が頭の中に浮かんでは離れない。
「…………魔物」
一言で魔物と言っても、この世界の魔物は様々な形をしている。街や皇宮付近で召喚されたような獣型の魔物もいれば、ゴースト系や伝承の中でしか確認されていない魔物。未だその種類、存在全てが解明されているわけではない。
「匂いが付くほど、傍に居る誰か。何か……」
もしも、守護龍様の言うその魔物が、
──ゴースト系だったら……
「……っ」
温かい湯船につかっているはずなのに、ぶるりと身を震わせたアイヴィー。もっと温まりたい気もするが、体の外から身を凍らすように広がる恐怖心にバッと立ち上がったアイヴィーは、そそくさと着替えを済ませ、脱衣場の扉に手をかける。
ガチャ
「うわあああああ!」
「えっ!? お嬢様!?」
開けようとした瞬間、勝手に開いた扉に過剰に反応して声を上げたアイヴィー。ぎゅっと瞑ってしまっていた瞳をゆっくりと開けると、目の前には見慣れたロージーの姿があった。
「もう出られたのですか?」
いつもはもっとゆっくり浸かってらっしゃるのに、と続けるロージーに、アイヴィーは挙動不審になりながら問いかける。
「う、うん。なんで?」
「今夜は少し冷えるので、こちらをお渡ししようかと」
「あ、ありがと」
未だ心臓がバクバクと脈打っている。
ロージーからふわふわの上着を受け取ったアイヴィーは、それを羽織り、小走りで自室へと向かって行った。
「……はぁ……はぁ」
ガチャン、と少し乱暴な音を立て自室の扉を閉めたアイヴィー。ゆっくりと呼吸を整えていく。
室内の光をすべて付けたアイヴィーは、ゆっくりと部屋の奥へと足を踏み入れる。その途端、視界の端でモゾッと動く何かを感じた。
「おわあぁああ!」
アイヴィーが再び悲鳴を上げ、動きがあった方から遠ざかるように体を仰け反らせる。
「べ、べる……れーら……だれか」
ギュッと瞳を閉じたアイヴィーは、もぞもぞと動いた場所から、何かが近づいてくるのを感じながら、恐怖で体を震わせていた。
やがて、自分の目の前まで来たそれは、ピタリと動きを止めた。
「い…………」
ダメだ!
目を閉じていても、脳内に怖い映像が流れ込んでくる!
アイヴィーの脳裏には、前世観ていた様々なホラー映像が次々とよぎっている。
目を開けてから攻撃するか。
目を閉じたまま攻撃するか。
その時、混乱の中でそう考えながらかざしたアイヴィーの腕が、何かにガシッと掴まれた。
「ひっ……」
「おい」
「……お、あ……え?」
思わず攻撃を放ちそうになる直前、聞き覚えのある声に、ゆっくりとアイヴィーは目を開けた。
目の前には、グレイソンの顔。
「お前、なんでこんなに冷たいんだ?」
「……ッ」
目の前へとスッと伸ばされた指先が、頬に触れる。その感覚に思わずビクッと反応するアイヴィー。
どうして彼がここに? 強化されている公爵家の魔術で、もう来てはいけないと伝えたはずなのに。
思考を巡らせるアイヴィーであったが、その直後、彼の行動によって頭の中で考えていたものは全てかき消されてしまった。
「温めてやろうか」
「!?」
「……赤くなった」
頬に触れていた指先が、スッと首元へと落ちる。
「!?!? ……──?」
驚き、動揺しながら後ずさるアイヴィーは、じわじわと距離を詰められる。鼻先がくっつきそうなほど近づけられた端正な顔が、じっとアイヴィーを正面から捕らえる。いつもは一文字に結ばれている彼の口が、小さく弧を描いている。
「かわいいな。今すぐどうにかしたくなる」
「……ぐッ」
ピタリ、と背中が壁に触れる。体を覆うように、顔に触れていない方の手がサイドに置かれ、逃げ道を塞がれたアイヴィーは、小さく震えながら声を漏らした。
「ん?」
──ぐ、
「グレイソンはそんなこと言わない!!」
叫び声と共に、アイヴィーは握りしめた拳を目の前の人物に突き出す。しかし、パッと上体を横へ傾けた目の前の人物により、その拳は空を泳いだ。
「っぶねぇな」
「……ッ」
直後、バタンッとノックもなく勢い良く開かれた扉。
扉の向こうに居たベルが、驚いているアイヴィーの目の前まで、ものすごいスピードで駆け寄ってくる。そして、片手でガッと目の前の人物の首根っこを掴み、アイヴィーから引きはがした。
「なんだよ、お前のご主人サマはこういうのが好きなんだろ?」
「…………お前……」
ベルに捕らえられた目の前の人物は、外見も声もグレイソンそのものである。だが、ニヤリとベルを見つめるこの表情に、フランクな態度と口調……やはり目の前のこの男は、グレイソンではなかったのだと確信する。
ベルは珍しく眉間にしわを寄せ、目の前の男へ視線を向けている。
普段から怒った表情をあまり見せないベル。それだけ、この目の前の男が危険、という事だろうか。
アイヴィーはゴク、と喉を鳴らした。
しかし、この目の前の男はそんなベルの態度など気にならないのか、愉快そうに笑みを浮かべ続けている。
なんなんだ、一体。
「……アイヴィー、ごめん」
アイヴィーが双方を交互に見ながら、混乱に頭を抱えて数秒。瞳を閉じて申し訳なさそうな表情を浮かべたベルが、ボソリと呟いた。
「コレは、俺の……元、使い魔」
「元ってなんだよ!」
──え!?
ベルの言葉が気に入らなかったのか、男は先ほどまでの愉快そうな態度を一変させた。そして、不貞腐れたように、不服そうに頬を膨らませていた。
*
「アイヴィー……昔、言ってた。」
ひとまず落ち着きを取り戻したアイヴィーは、二人をソファーへと勧め、座って話をすることにした。そこで小さく口を開いたベルが、一言ずつゆっくりと話し始める。
「俺の前世……もしかしたら大、魔法使いかも、って」
「そ。んで、俺がその大魔法使いサマの使い魔な」
俺と会った時に、大魔法使いサマは大魔法使いだった頃の記憶を思い出したんだとよ、とどこか誇らしげに語る、ベルの隣に座るグレイソン顔の男。アイヴィーはその目の前で記憶をたどっていた。
大魔法使い……大魔法使い……って、あぁ!
子供の頃、外で剣術と魔術の訓練をしてる時に話したアレか!
「えっ、ベルの前世って本当に、大魔法使いだったの?」
思いだし、ハッとした後アイヴィーは、ぽかんとした様子でベルに問い掛けた。それにベルは控えめにコクッ、と頷く。
「へ──……そうなんだ」
「反応薄いな、大魔法使いだぞ」
何故かグレイソンの顔をした男が、偉そうに口を出す。
驚いた。驚いてはいる。
しかし、何と言ったって、私自身が世界を超え、この世界へと転生している。故に、この世界の中でだけでも、転生────生まれ変わりがあっても、おかしくはないだろう。現に、ヴァネッサも伝承のロッソの生まれ変わりだ。
だが、大魔法使いと言われても、いまいちピンと来ていないアイヴィーは、とりあえず疑問に思った事を口にする。
「二人が会った時って?」
「殿下の部屋に、資料を見に行った、時の、帰り……」
あ、あぁ……。
あのやたらピアスの魔法消費が激しかった時か。
つい先日、グレイソンの目の前で前世の記憶を取り戻したばかりのアイヴィーは、その時の感覚がまだ鮮明に残っている。
あの時は、五歳の時に思い出した分の続きからだったし、見ていた悪夢のおかげで、ある程度は覚悟が出来ていた。でもベルは……。この話し方とあの時の彼の状況を思い返すと、きっと前世の記憶が流れ込んでくる感覚は初めてで、酷く混乱していたのだろう。
──あれはメンタル削られるよね
明確な理由もわからず、急にベルのピアスの魔法消費が激しくなった時期は、時間がたつにつれ和らいでいった。そのため、あえて今日までそれに触れることは無かった訳だが……。
「もしかして、学園で回収した爆弾、渡したのはこの人?」
「あ……う、ん。……そう」
「?」
歯切れの悪いベルの返答に、アイヴィーは首を傾ける。
しかし、その横で、男が「あぁ、アレか」と呟いているのが聞こえた。
それと……
「その時期からだよね、よそよそしくなったの。それはなんで?」
「……あの時に、記憶をほとんど、全部、思い出したから」
前世の記憶が、ほぼ全て戻ったから……?
どうしてそれで、よそよそしくなるの?
露骨に顔に不満を出しているアイヴィーに、ゆっくりと視線をそらしたベル。
「…………恥ずかしくて」
「? ベルの恥ずかしがる要素が分からない」
首を傾けるアイヴィーに、ベルは何も答えずそっと目を瞑った。
「そりゃ、昔のコイツは今とは似ても似つか」
「うるさい」
何も言わないベルの代わりとばかりに、陽気な様子で得意げに口を挟んできたグレイソンの顔をした男。だが、その言葉は最後まで発せられることはなく、伸ばしたベルの手で口を掴まれ、男は黙った。
「というか、その恰好いい加減やめてくれない?」
「なんでだよ、お前コイツが好きなんだろう?」
「……好きだけど外見と声以外何も似てなくて、解釈違いで頭が混乱してくる」
「カイシャクチガイ……」
小声で呟かれたアイヴィーの言葉を繰り返した男は、わかった、と言って立ち上がった。
そして、次の瞬間、今までグレイソンの外見だったその男の姿は、小さな愛らしい一匹の黒猫へと姿を変えた。
「え……、えっ!?」
「こっちの方が、お前もなじみがあるだろう」
首元にキラッと光る銀色のタグ。
その黒猫の姿は、何度も見つけては撫で、時には抱っこして安らぎをもらっていた、アイヴィーの学園での唯一の癒し────黒猫のレイであった。
「この姿で生活してるよ、最近は」
──レイちゃん!?
「レ……っでも、あの猫は女の子じゃ……」
「俺に性別はない。魔物は珍しくないだろ」
強いて言うなら両性類かな、と楽し気に話す黒猫の前で、アイヴィーは口を開けたまま固まっている。
そんな……っ。
いつも思い出しては癒され、撫でては癒され……本当に、私の癒しだったあの黒猫が……この目の前の魔物、だったなんて。
うなだれたアイヴィーは、再びハッとして顔を上げる。
『お前、魔物臭いな』
守護龍様が言っていた、あの言葉。
それはコイツの事だったのか……!
ついさっきまで、姿が分からないその正体に怯えていたアイヴィーは、また新たな問題を抱えることになりつつも、ひとまず今心の中を占めていた最大の不安を解決でき、ほっと息を漏らすのだった。






