7.護衛騎士と終焉
小さくライトアップされた庭園で、夜に咲く花や木々の葉が風に揺れザワザワと音を奏でる。会場から漏れ聞こえる軽快な音楽とは対照的に、今この場所は酷く重い沈黙が流れていた。
『アルロは! コックス伯爵家の……ッ例の教団とは関係ありません!』
そう発した、目の前に居る対象者──アイヴィー・シャーロット・スペンサー。彼女の手で口元を覆われていたグレイソン・サーチェスは、冷え切った感情を隠すことなく、静かに彼女を見つめていた。
*
「面白いことが分かった」
いつかの社交界の帰路で、レオナルドが珍しく、楽しそうな口調で言っていた。今思えば、あれはアイヴィー・シャーロット・スペンサーの事だったのだろう。
後にレオナルドから『スペンサー公爵家の令嬢を誘惑して、公爵家の内情を探ってくれ』と命じられた時、グレイソンは、ふとあの日のレオナルドの発言を思い出したのだ。
グレイソンはレオナルドの命を実行するにあたって、対象者のアイヴィー・シャーロット・スペンサーとは徐々に接触する回数を増やし、しかし確実に好意を持っていると印象付け、彼女に意識させる手筈でいた。
今までも何度か同様な命を受け、器用にこなしていたグレイソンは、そのたった数回の接触で、対象者がグレイソンに本気で恋に落ちる事も少なくはなく、この手の任務を遂行するのは気乗りはしないが、まぁ楽な方だと感じていた。だが、
「スペンサー嬢は、お前に惚れている」
これは、グレイソンに色仕掛けを命じた時、レオナルドが言った言葉だ。
──レオはそう言っていたが……
グレイソンは、あまりその実感を得られていなかった。
初めの接触。二度目の接触。どちらも確かにいつもとは違う様子を見せたあの女。しかし、もう一歩と踏み込めば、さらりとかわしてその場を離れてしまっていた。その様子はグレイソンに、これは今までのように簡単にはいかない、と予感させていた。
グレイソンの予感は、先日の専門棟での魔法事故で確信に変わる。
その日、レオナルドから爆音が聞こえた専門棟の様子を見てくるよう指示を受けたグレイソンは、中庭を通り足を進めた先で、アイヴィーと出会った。目が合った瞬間、自分を見たアイヴィーの体が強張ったように見えた。
──やはり、この女は……
グレイソンは今までの対象者の女たちとは違う、妙な反応を見せるアイヴィーに、どう取り入ろうか考えていた。これまでは何があっても動じず、完璧な公爵令嬢の姿を見せてきたアイヴィーだ。ひとまず近づいて、もう少し様子を観察しようと思った矢先、専門棟の窓からチカチカと鋭い白い光が走った。
──まさか
手を伸ばし、「危ない!」と口を開いた瞬間、再び専門棟で爆発が起こった。ドォンッという爆発音とともに、アイヴィーの方へ駆け寄り、庇うように抱き込むグレイソン。その勢いで、アイヴィーを地面へと押し倒す形になってしまった。
──専門棟については、後で確認と報告するとして、まずは目の前のこの女をどうするか。
今、自分の手の中にあるこの女に意識を向けると、少し身じろいだ後、胸元から「ふぅ……」と息を漏らす音が聞こえた。思わず強く内に抱きしめてしまったのを自覚し、慌てて離れた男を装いながら、そっと女を見る。
グレイソンとの急な接近と密着により、しばらく呼吸を止めていたアイヴィーの頬は少し赤みを帯びていた。
「……」
近い距離での触れ合いは効果があるのか。それともただ、爆発に驚いただけか。
グレイソンは冷静な思考とは裏腹に、慎み深い態度でしかし大胆にも、まるでアイヴィーを正面から抱きしめるような形で手を後方に伸ばし、汚れた背中を掃う。
先ほど、自分が差し出した手を遠慮がちにとり、大人しくされるがままになっているこの女は、どこか緊張したように固まっている。
この女は公爵家の、箱入りの令嬢だ。今まで異性とこういった距離感で接したことはないのだろう。
──?
グレイソンが背中の砂を掃っている途中、首を正面から少し横に向けていたアイヴィーが、スンと鼻で息をする音が聞こえた。
なんだ?
グレイソンは体勢を元に戻しながら、アイヴィーには気づかれぬよう注意深く観察する。
「サーチェス卿は、どちらのお店の香水を使ってらっしゃるのですか?」
砂を掃ってくれたことのお礼を言った後、躊躇いがちに質問してきたアイヴィーにグレイソンは困惑した。
謎の爆発があった直後、近距離で異性と接しているこの状況で、口にした話の内容が香水……?
グレイソンをまっすぐと見つめるアイヴィーの瞳は、恐怖でも混乱でもなく、どこか期待をはらんでいる。
「……」
どこの、と言われても。これは俺のではない。
グレイソンは、アイヴィーが気に入ったらしい自分に残っていた移り香を、笑って適当に誤魔化した。
グレイソンにとって、アイヴィーの行動は読めないものだった。
それでも、あの女が自分以外の他人に、このような接触を許しているところは見たことがない。自分は咎められていない現状をみると、この女は確かに自分に好意があるようにも思うのだが。
しかし、これはあまりにも進展がない。
近距離で見つめたり触れたりすれば、多少動揺を見せるアイヴィーだったが、今までの対象者たちとは違うその反応は、まるで、グレイソンとのその先を望んでいないように感じられる。香水の話をした時、確かにアイヴィーの瞳は期待に満ちていた。だがそれは、今までグレイソンが向けられたことのある、誘惑するような情欲を含む熱ではない。
なにか、もっと……
思考を巡らせるグレイソンは、やがて一つの結論へと導かれる。
あの女はきっと、公爵令嬢という立場の元、自らの感情を優先させることはないのだろう。例えそれが、互いが想いあっている場合だとしても。相手を受け入れず、自分の想いも告げることはなく、閉じ込める……閉じ込めておける人間だ。
やはり一筋縄ではいかない。
ひとまず、レオナルドに現状を説明したグレイソン。
しかし、その報告を聞いている時の彼の様子は、どう見ても事件の解決を優先させる事よりも、アイヴィー・シャーロット・スペンサーの状態を面白がっているようだったが……。
元々、こんな色仕掛けを好んでするタイプではないグレイソン。いまいち手ごたえを感じない、と言うより、何か変な感覚をおぼえるアイヴィーに対して、次はもう少し強引に迫ってみるよう──今回の夜会で、アイヴィーに仕掛ける事を決めていた。
*
「アルロは! コックス伯爵家の……ッ例の教団とは関係ありません!」
アイヴィーの手に口を覆われたグレイソンは、目を見開いて固まっていた。
グレイソンは、会場を抜け出したアイヴィーの後を追い、二人以外誰もいない夜の庭園で、迫った。まるで、自分の気持ちをみないふりをするアイヴィーに、他の男の影を知り、焦り、抑えきれなくなった男を演じて。
グレイソンの行動に驚き、表情を崩し始めたアイヴィー。これまでのように逃げられないよう、アイヴィーの左手をしっかりと掴み、捕まえる。あわあわと取り乱し、小さく震えるアイヴィーの唇に向かって、首を傾け目を細め、顔を近づける。
しかし、触れた瞬間、自身の唇に感じたそれは、想定していた柔らかさではなかった。そして、塞いだはずのアイヴィーの口から出たあの言葉。
──……?
グレイソンは、コックス伯爵家がスペンサー公爵家とどのような関わりがあるかを探る過程で、コックス伯爵家の次男、アルロが公爵邸を訪れている理由を話題にした。だが、それはあくまでも「アイヴィーとの密会相手」ではないかという意味を持たせて、だ。
『例の教団』確かにそう言ったアイヴィー。
それは、グレイソンが最終的に欲しかった、いわば 答え である。
──なん、だ?
グレイソンは、密会相手を否定したアイヴィーに、それでもと食い下がり、彼の訪問の目的を探るつもりだった。アイヴィーに好意を持った男を演じ、色仕掛けで、コックス伯爵家の疑惑につながる手がかりを得るために。しかし、アイヴィーの口から発せられた言葉に、その必要は無くなった。
情報を得るためには、対象者を口説き落とし、色事に持ち込んで最中に引き出すやり方は、珍しくない。
アイヴィー・シャーロット・スペンサーは、明らかに自身のアプローチに気づきながらも、まんざらでもない態度をとるくせに、さらりと逃げていた女だ。
公爵家令嬢という体面を保つため、気持ちがあっても決してそれを実らせる気はないのであろうこの女に、ならば体から、とグレイソンは確かに少し、強引に迫った。拒絶される可能性も考えてはいた。だが、これは……。
「……」
この女、初めから俺がそれを得るために、「自分に好意を寄せている男を演じている」ことに気づいていたというのか。
その事実に、後頸部からサァァ……と音がし、一気に頭が冷えていくグレイソン。警戒が強まる。
グレイソンは掴んでいた手を離し、ゆっくり後ろに下がる。己の口を塞いでいたアイヴィーの手は、そのまま力なく握られ、胸元まで下げられた。
体勢を整え、目の前の女に見下すような視線をおくる。
アイヴィーは自分の発言にハッとした後、オロオロと視線を泳がせていた。
──こいつ、一体……何者だ
グレイソンは、無表情に冷めた目でアイヴィーを見下ろしながら、自分が相手の実力を見誤っていたのだと理解する。予想をしていなかった気味の悪い展開に、胸の奥がざわめく。この現状をどうするか、グレイソンは探るように鋭い視線をアイヴィーへ向ける。完全に演じることをやめ、素の状態である自分と目が合った女は頬を赤らめ、顔を背けた。
「……?」
なんだ?
この女は、俺に色仕掛けをされていると気づきながらも、上手くあしらっていた。だとすれば、それにも関わらずどうして今、こんなにあっさり情報を漏らした……?
思い返したのは、グレイソンの行動に見たこともないような動揺をみせ、乙女らしく恥じらっていたアイヴィーの姿。グレイソンは一瞬、自分の企みを分かっている上で、アイヴィーは騙されたふりをして、あえてあの態度を見せていたのかとも考えたが……
好意は本物なのか? だが、それならば何故もっと……。
グレイソンの過去の対象者の中には、自分が持つ情報が欲しければ一晩共にするよう求めてくる者もいた。本気で好意を持たれるパターンが多かったが、ああした割り切ったやり方の方が幾分か楽に感じる事もあったが。
しかし、この女は。
──初心なのか、それとも……
「……気付いていたのか」
グレイソンは、アイヴィーを冷めた目で見ながら問い詰める。
顔を青くし、動揺を隠せなかったらしい女は、ピタリと動きを止め、目を伏せながらコクリ、と頷く。
「……アルロは関係ないと言ったが、伯爵は関わっているんだな」
「……はい」
「あとは」
「長男、です」
「ヒューイか」
頷いたアイヴィーを見て、グレイソンは少しだけ眉をひそめた。
本性を晒し、先ほどまでとは比べ物にならないほど雑な言い方をしたにも関わらず、素直に答えるアイヴィーを不審に思いながらも、グレイソンは立ち上がる。
ひとまず、レオの元へ戻って伝えるしかない。
グレイソンは、力なくベンチに座っているアイヴィーをそのままに、その場を立ち去っていく。
いつの間にか会場から流れてくる音楽は終わっており、去っていくグレイソンの足音だけが冷たく響く。夜会の終わりを告げていた。
皇宮に着いたグレイソンは、レオナルドに手に入れた情報を報告する際、色仕掛けがアイヴィーに気づかれていた事も最後に告げた。
レオナルドはグレイソンの報告を顔色を変えずに聞き終わると、落ち着いた様子で「そうか」と答えた。
「先日、スペンサー嬢と学園で顔を合わせた時、彼女は俺を見て、今まで見たこともない……美しい笑みを浮かべていた」
あれはきっと、お前の企みなんてとっくに気づいているぞ、という意思表示だったんだろう。そう言ったレオナルドを、グレイソンは無言で見つめる。
完全なる誤解である。
ただ、アイヴィーは純粋に、推しの新たな一面を知るきっかけをくれたレオナルドに感謝の念を送っただけなのだが、レオナルドは都合よく深読みをしていた。
「逆に、何か彼女にされなかったか?」
自嘲気味に問い掛けるレオナルドに、グレイソンは特に問題はなかったが、これ以上の色仕掛けは無意味だと判断し、素を晒して帰ってきた事を伝える。
「そうか」
「……」
手元の報告書に視線を移したレオナルドの傍らで、グレイソンは思い返す。
アイヴィー・シャーロット・スペンサーが、こちらの思惑に気付いていた事には驚いたが、あの女は知っていながらも……。
夜会から数日が経過した、昼下がりの学園内。
グレイソンはいつも通り、側近としてレオナルドの傍らに控えながら校舎内を移動していた時、あの女──アイヴィー・シャーロット・スペンサーと出くわした。
曲がり角での出会い頭、ぶつかりそうだったレオナルドとアイヴィーはお互い、公の目があるこの場所での接触であったため、今まで通りの体面を保ち、落ち着いた対応をしていた。
謝罪の後、互いが向かっていた方向へと歩き出した時、グレイソンは、ふと気まぐれに去っていくアイヴィーの方を振りかえって見た。すると、アイヴィーもこちらを見ており、ばちりと目が合った。一瞬、驚いたように目を開いてから、背を向けたアイヴィーの表情は、先ほどレオナルドと話していた時とは違い、ほんのりと頬が赤くなっていた。それはまるで、思いを馳せているかのように。
「……」
好意なんてものは微塵もない、ただ情報を得るためだけに色仕掛けをしてきた俺に。
──馬鹿な女だ
グレイソンはいつも通り無表情であったが、利用されたと知っていながらも、まだそんな視線を送るのか、とアイヴィーを内心でかなり汚く罵っていた。
*
──とか思ってんだろうなぁ……
はぁ、と恍惚の吐息を漏らすアイヴィーに、テオドールは呆れた表情でため息交じりに「またかよ」と言った。
「そんな奴のどこがいいの?」
「そこがいいんじゃん」
確かに前世で現実にいたら、ちょっと本気で嫌いな分類だけど。「ここは現実じゃないのか?」と問われれば、まぁ、そうなんだけど。感覚としては夢だもんなぁ……と考えているアイヴィーは、グレイソンとの間に起っていたハニトラ劇がおそらく終焉を迎えた事の顛末を、テオドールに一通り説明していた。
「というか、どうせならもっと色々すればよかったんじゃない?」
「そんなの出来るわけないでしょ!」
アイヴィーはグレイソンに好意を抱いているが、グレイソンはそんな姉の事を利用するためだけに近づいてきた。姉は自分が利用される事に気付いていながらも、その想いがあるからこそ、グレイソンを拒絶することも、またその行動を受け入れることもできなかったのだ、と考えているテオドールは、それでも現状を楽しんでいたように見えるアイヴィーに向かって「だったらいっそ、流れで既成事実までもっていけばよかったのに」と告げたのだ。それに対してアイヴィーは、「グレイソンは、たとえ相手が本気で自分に好意を持っていようが、目的のためだったら簡単に利用して捨てるし、その対象者が顔見知りの恋人だったとしても、落としていく過程で相手を本気にさせてしまい、結果2人が破滅しようが、知らぬ顔で! むしろ蔑んだ目で! 最後には無慈悲に切り捨てるような人間なんだよ!」とまくし立てた。
泣き崩れる女は捨て置き、それでもしつこく言い寄ってくる女は切り捨てる! それが、推し!
「……話を聞く限り、どう考えても好意を抱ける人間じゃないんだけど…………好きなんだよね?」
「大好き!!」
間髪入れずそう答えたアイヴィーに、テオドールはもう一度、はぁ、と大きなため息をついた。