50.今どんな気分?
「ふぁあ……」
口元を手で押さえ、一応控えめにあくびをしたアイヴィーは、重い足取りで公爵邸の通路を進んでいた。
「眠そうですね、お嬢様。結構寝られてたと思いますけど」
「うん……」
アイヴィーのすぐ後ろを歩いていたルイスが、ひょこっと横から顔を出して問いかけた。重い瞼を半分あけながら、覇気のない返事をしたアイヴィー。そんな姿にルイスは口を噤み、そのまま黙って足をすすめた。
誓いの丘で魔物の襲撃を受けた日から、二日が過ぎた。
テオドールたちと共に馬車に乗り、公爵邸まで戻ってきたアイヴィーは、かなりヘロヘロの状態であった。ベルに抱えられながら玄関の扉を開けば、そこには、すでに帰還していたレーラと共にスペンサー公爵の姿があった。
「あ」
「…………」
妙に大きなスリッドが入ったドレスを身にまとい、ベルに抱えられたアイヴィーの姿を見たスペンサー公爵の眉間のしわは、ひと際深く刻まれた。
「違います! これは筋肉痛です!」
決して、戦った相手から受けたダメージではない!
アイヴィーが力強い眼力でそう訴える。スペンサー公爵は何か言いたげな顔をしてはいたものの、またすぐにせわしなく家を出ていった。
──ふぅ。
パタリと閉まった扉を見て、アイヴィーはホッと一息をついた。
その後、魔力切れに加えて体力消耗も激しかったアイヴィーは、ベッドに横たわった途端、プツンと糸が切れたかのように深い眠りについたのだった。
そして、つい先ほど目覚めたばかりのアイヴィーは、重い頭を片手で押さえながら歩いている。
──筋肉痛が治ったのはよかったけど、寝すぎて頭ぼんやりする。
まさか、こんなにも寝るなんて。なんかちょっと頭痛い気もするし。
不調ではないが、絶好調ともいえないこの体を引きずりながら今向かっている先では、きっとまた頭の痛くなるようなことが待ち構えているのだろう。
ガチャ、と扉の開く音が聞こえ、アイヴィーはゆっくりと顔を上げる。
後ろに居たはずのルイスが、いつの間にか前に立ち、部屋の扉を支えていた。
「何をしている。早く入ってこい」
部屋の中から、聞こえてきたスペンサー公爵の声に、未だぼんやりとしていた頭を軽く振る。一度ぎゅっと目を瞑り、気合を入れたアイヴィーは部屋の中へと入っていった。
部屋の中には、一つの大きな机を囲むようにして、スペンサー公爵と公爵騎士たち。ベルやレーラの姿までもがあった。
「捕まえた実行犯達からは、結局……いまだ何も聞き出せていない」
「えっ」
アイヴィーがレーラ達を残し、街を出た後。しばらくしてから、スペンサー公爵が騎士を引き連れて街へ戻ってきていた。アイヴィーの読み通り、あの店で召喚された魔獣以外にも何体か街に魔獣は出現していたようで、スペンサー公爵はレーラ達と合流するまでの間に、複数の魔獣を退治していた。
粗方の経緯を聞いていたスペンサー公爵は、テオドールにアイヴィーの後を追って皇宮へ向かう事を許可し、レーラは引き続き街に留まり、魔獣の対応にあたっていたという。
アイヴィーの捕縛魔法で捕らえられた実行犯達は皆、本来であればあの後すぐに、尋問が行われるはずであった。しかし、解縛から数分後、急に倒れ込むように意識を手放した彼らは、それ以降目覚めていないらしい。
「衰弱していく速度が速い」
実行犯達は、この二日間食事もとらず、ずっと眠っている状態である。そんな状態が長く続けば、体は次第に弱っていくだろう。しかし。
「魔術医師の話では、まるで、生命力を抜かれ続けているような症状らしい」
最初から機嫌はよさそうではなかったが、スペンサー公爵はより一層眉をしかめた。
──衰弱……。生命力を……抜かれる……?
「おそらく何らかの術を使い、実行犯の口を封じているのだろう。」
アイヴィーが口元に指を置き、ふむ、と考える。ふと、視線を感じて顔を上げれば、スペンサー公爵と目が合った。
「?」
「実行犯達と同様に、この二日ほど眠り続けていたお前も、もしや何らかの術にかかっているのかと思ったが」
資料に目を落としたスペンサー公爵は、はぁ、と小さくため息をつき、言葉を続けた。
「夜中にこっそり部屋を抜け出し、厨房に忍び込んでいたようだから無駄な心配だった」
「…………」
ベッドに沈んでから、15時間も眠りこけたアイヴィーが目覚めたのは、深夜であった。お腹がすいていたのだ。仕方なかったのだ。そして、また朝方眠りについて、そこで生活リズムは完全に乱れ、昼夜逆転してしまっていたのだ。仕方がなかったのだ。
──それより、誰だ密告したのは! 人の気配は感じなかったのに!
アイヴィーはスッ瞳を閉じ、無言で乗り切る態勢に入った。
少しの沈黙の後、スペンサー公爵は再び口を開いた。
「しかし、捕らえた魔獣はどれも、召喚術的にはレベルの高いものではあったが」
スペンサー公爵と目が合った騎士の一人が、今回召喚された魔獣の資料を机の上に広げる。
「皇宮近辺で召喚された魔獣と、街で召喚された魔獣。攻撃的な面、危険度で見れば、どちらも大差はない魔獣だ」
「…………」
「成獣のラタラビットも、皇宮の外壁を飛び越え、中へ入り込むこができたとは考えにくい、ですね」
資料を広げた騎士が、続けて言った言葉。
それは、アイヴィーも感じていた事だった。
皇宮の傍で、ベルに拘束された魔獣を見上げながら、頭を傾けた時に。
──確かに打撃力も、脚力も他の魔獣よりはある魔獣だけど……
そして、その直後にもう一体の魔獣が召喚された。街の路地裏で、キャスケットの男が召喚したものと同種の魔獣。
──つまり、それって……そもそも
「標的が皇宮という事自体、フェイクだったという事だろう」
「…………」
スペンサー公爵の言葉に、アイヴィーの指先は小さく動いた。
「狙いは分からんが、ここ最近頻発している街での魔獣騒動も、その一人の指導者の差し金だろう」
街を破壊し、混乱を来すことが目的なのか、はたまた何か別の狙いがあるのか、現段階では判断できんが。続けてそう言ったスペンサー公爵は、用意されていたカップに口をつける。
「数分しか尋問はできなかったが、必要最低限の情報しか伝えてられていないにも関わらず、実行犯は操られている様子もなく、自ら従い、行動しているように思えた」
「指示した大元の人物は、それだけ彼らの心を掴んでいたという事ですか?」
「あぁ。しかし、捕わられた奴らの意識を奪い、衰弱させ、簡単に切り捨てる程の非情さも持ち合わせている」
「…………」
「そんな人間が奴らの指導者、ということだ。わざわざ、メインターゲットを末端に教える馬鹿ではあるまい」
そうだ。その通りだ。
初めに路地裏で男から聞き出した情報を鵜吞みにして、皇宮へと向かって行った事を思い返したアイヴィーは、拳をぎゅっと握りしめていた。
「わ~お嬢様、今どんな気分です?」
「……指示した犯人を、ボコボコにしたい気分」
「こわぁ~~」
そんなアイヴィーの様子に目ざとく反応した、腰下まで伸びたふわふわとした髪を持つ騎士──ジゼル。
彼女は、何が楽しいのかニコニコと笑いながら、身を乗り出して甘ったるい口調で、アイヴィーを正面から見下ろして言った。そんなジゼルを、ギッと下から睨み上げるアイヴィー。
「そんな八つ当たりしないでくださいよぉ~。お嬢様が、もうちょぉっと冷静に考えていれば、すぐに分かった事じゃないですかぁ~」
「…………」
ジゼルとアイヴィーが顔を突き合わせ、鋭い眼光が飛び交っている丁度真ん中で、スペンサー公爵が小さく呟いた。
「……結果的に殿下の騎士の命も救えたのだろう」
それは、そうだが。
それでもなお、ジゼルは片手を口に当て、ぷぷぷーっと露骨に煽り続ける。
「そうですよぉ、お嬢様。お嬢様はお嬢様なりに頑張りましたよねぇ~」
「……アンタもボコボコにする」
「やだ怖ぁい。公爵様ぁ~」
アイヴィーの目の前から、たたっと大袈裟にスペンサー公爵の傍まで駆け寄ったジゼル。甘ったるい声を出しながらスペンサー公爵に腕を絡めた彼女は、露骨にその豊満な胸を押し付けている。しかし、スペンサー公爵はそちらへ視線を向けることはなく、反対側の手でジゼルの襟首を掴むと、ベリッとその身を引きはがした。
「お前はその煽り癖をどうにかしろ」
口頭で軽く叱られたジゼルは、唇を尖らせ、不貞腐れているのを隠す気もない様子だ。そんな彼女を一瞥したスペンサー公爵は、……はぁ、と小さく息を漏らした。
「持て余してるのなら、鍛錬でもしてこい。ルイス、相手をしてやれ」
「はぁい」
「えっ! 嫌ですよぉ、コイツはなんでか私のスキル効かないしぃ」
名を呼ばれたルイスは、ご機嫌な様子で返事をした。だが、直前まで可愛らしく拗ねた表情を作り、スペンサー公爵を見上げていたジゼルは、ルイスの名を聞いた途端、露骨に顔を歪めた。
「まーまー。貴方のスキルは元々、上位の者にはきかないじゃないですか。レベルの差ですよ、レベルの差。仕方ないです」
「……はぁ?」
アイヴィーは目を細めて目の前の二人のやりとりを眺める。
何のレベルの差? 変態レベルの差?
やがて、ジゼルとルイスは互いに腕を掴み合うにして、扉の前にまで移動していった。
「では、ちょっと鍛錬室行ってきますね」
「アンタ! 公爵様のお気に入りだからって、最近調子に乗りすぎなのよ!!」
「えー、照れるなぁ」
──ジゼル、人の事すぐ煽るくせに煽られるのに弱すぎないか。
まぁ、出てって静かになったからいいけど。
ルイスのペースに飲まれながら、ジゼルが消えていった扉へ一同が視線を向けている中、シン……とした室内にレーラの声がぼそりと響いた。
「……これ、古代魔術と現代魔術の術式、ごっちゃになってますね」
アイヴィーがこの部屋に入ってきてからずっと、じっと静かに机に広げられている資料を見ていたレーラ。彼女はその中から、街で捕まえた実行犯の一人から回収した、魔法陣が描かれている紙切れを手に取った。
「文字です。ここには古代魔術の術式。で、この部分は現代魔術の術式が書かれています」
「そうなんですか……?」
幼い子供の様な背丈をした、スペンサー公爵家の中で一番小さな騎士──コタが首を傾けながら尋ねる。それに、「最近、古代魔術の研究をしていたので」と答えたレーラは、ふと懐からもう一枚、別の紙切れを取り出した。
「もしかしてと思ったら、やっぱり」
「なに?」
二枚の紙切れを見つめ、一人納得した様子のレーラに、アイヴィーが説明を求める。
「魔法陣の術式に書かれている魔術文字は、一定の規則があるのはご存じですよね」
「えぇ」
「使用する属性、魔素。それをどれだけ使って、何をするか。魔法陣の術式には、それらがまるで暗号化されたかのように、複雑な文字列となって記されているのですが」
レーラは淡々と説明をしながら、手に持っていた二つの紙切れを並べて机に置く。その二枚は、それぞれがすでに魔物召喚時に使用された物であり、魔法陣の一部が血で汚れていたり、破れていた。
「本来、魔物召喚を行う際には、供物が必要になるんです。生贄であったり、何か等価の物を準備してから行うのが昔からの習わしなのですが、この術式は、それが記されていません」
「え……」
「この魔法陣の、ここを見てください」
それぞれが一部欠けている状態の魔法陣。それが描かれている紙切れをある一点で重ねたレーラ。彼女の指先を見れば、双方に同じ魔術文字が並んでいるのが分かった。
「お嬢様の話によれば、魔物召喚時に必要となるのは、契約者になる人間のたった一滴の血のみ」
紙切れに視線を落としたまま、レーラは少し表情を歪めながら話す。
「それだけでは本来、あれほどの魔獣は、召喚できるはずがないんです」
──そもそも、その召喚術って……。
召喚術は、こんな風に、誰でも簡単に行って良いものではない。
古来より、何人もの魔術師が集められ儀式として行うものとされていたはず。召喚過程で互いに認め合ったり、利害の一致の元、術者達が召喚した魔物と契約をして、初めて成功したとされる儀式なのだ。
「おそらく、この召喚は一方的。召喚にかかる負担のほとんどを、召喚させる魔物自身に背負わせているのだと思います。だから、ここ最近発生していた人為的に召喚された魔獣たちはみな、荒れていたのではないでしょうか」
「……」
しばらくの間、沈黙が続いた。
おそらく、皆の頭の中に一つの事件が浮かんだのだろう。
何世代か前。とある個人が行った召喚術がうまくいかず、召喚された魔物が暴れ、街二つ半が滅ぶとんでもない被害を出した記録があった。それにより、法が改正された現在では、定められた立ち合い人のいない魔物召喚術は禁じられた。
──だから今、魔物召喚術の術式を知る者は、ほとんどいないはずだ
それでも、召喚に必要な魔法陣等が記載された本や資料をすべて回収することなど当然できるはずもなく、今もなお、裏社会ではひっそりと受け継がれ、取引されているとは予想されていたが。
──今回の事件は、早い段階で制圧できたからよかったものの……一足遅ければ、もしかしたら数世代前と同じ悲劇が起こっていたのかもしれない。
アイヴィーがギリッと歯をかみしめたのと同時に、再びレーラが口を開いた。
「あと……これは、一応魔法と言う形になっていますが、どちらかと言うと……」
「呪いに近い、ね」
「呪い……」
レーラのすぐ隣でベルが呟いた言葉を、アイヴィーが繰り返す。
確かに、魔獣に一方的に無茶な召喚をし、その上さらに負担もすべて背負わせるなんて、魔術と呼んでいいものではない。
──誰だ。
こんな魔法陣を作って、ばら撒いているのは。
「この魔法陣の描かれた紙切れは、以前、学園に忍び込んだ奴らも同様のものを持っていたな」
全くと言っていい程絞り込めない、犯人像について考え込んでいたアイヴィーは、スペンサー公爵の言葉にハッとして小さく口を開いた。
「魔物召喚の魔法陣、だけじゃない……」
学園爆破未遂の時に使われていた、爆弾。
あれに刻まれていた魔法陣も、古代魔法文字が使われていたんだ。だから、いまいち術式が理解出来なくて、発動条件が分からなかった。
*
晴れやかな昼下がり。
その日、公爵邸には、珍しく貴族の外出用のドレスを身にまとっているアイヴィーの姿があった。普段あまり選ぶことはない、シックなタイプのドレスを着ているアイヴィーが廊下を進んでいると、向かいから現れたロージーに声をかけられた。
「お嬢様、出かけられるのですか?」
「えぇ」
どうりで、今日は朝食の時から楽しそうでしたもんね。と笑いながら言ったロージーに、アイヴィーは少し驚く。
「そんなに顔に出てた?」
「はい」
にこやかに、朗らかに微笑んでそう言ったロージーに、どこかばつが悪そうな表情を浮かべたアイヴィー。彼女と少しの時間、他愛のない立ち話をしたアイヴィーは、階段を上ってきた執事と目が合い、あっ!と声を出した。
「馬車が来たみたい。行ってくるね!」
「どちらへ?」
「皇宮!」
今まで散々、皇族との関りを好んでいなかったアイヴィーの姿を知っていたロージーは、え?っと戸惑いを隠せない様子だ。
皇宮にそんなに喜んでいくなんて、一体何があったのだろう。そんな考えが窺える彼女の表情を見て、アイヴィーは無邪気に微笑んだ。
「ちょっと一つ、やることがあるから」
そう言うと、スキップでもしそうなほど軽い足取りで、アイヴィーはベルを引き連れて出かけて行った。






