47.何やってんだ
「ヴァネッサ!!」
声を荒げたレオナルドが、地面に打ち捨てられたヴァネッサの元へと走る。肩から腰に掛け、成獣によって大きく切り裂かれたヴァネッサの服は、溢れ出る血で真っ赤に染まっていた。
「おい! しっかりしろ!」
「……ぅ」
何かを発しようと口を開いたヴァネッサが、ゴホッと咳込む。同時に血も吐き、呼吸もままならない様子で苦しそうに肩で息をしている彼女を前に、レオナルドは表情を曇らせる。
「ヴァネッサ……!」
「……、……て」
背後で成獣の唸り声が響く。
うまく言葉を発することが出来ないヴァネッサが、震えながら口を動かす。その口元を見つめていたレオナルドは彼女の手を握り、小さく首を振った。
ギィイイィイッ
成獣の雄たけびと共に、二人に大きな影が差した。
(だめ……レオ、逃げて)
ぼんやりとし始めた思考の中で、レオナルドの肩越しに成獣の姿を確認したヴァネッサは、弱々しく彼の袖を握り、押し返す。しかし、レオナルドはその場から一歩も動こうとはしなかった。
成獣が高く上げた腕を、風を切りながら振り下ろす。
鋭利な爪が二人に襲い掛かろうとしたその時、真っ黒の杭の様な形をしたものが複数、成獣の側面に突き刺さった。
成獣が現れた方向とは逆の木々の隙間から、アイヴィーを背に乗せたベルが走ってきた。
「……ぁ」
「!」
ベルの背からスッと降りたアイヴィーは、地面に力なく横たわるヴァネッサと目が合った。
──すごい出血量。
でも、意識はある。
ヴァネッサの前に座り込んでいるレオナルドは、彼女を支え俯いたまま動かないが、怪我はなさそうだ。
グァアアアッッ
先ほど放たれたベルの魔法で、軽く飛ばされた成獣が大口を開けて叫んだ。空気がビリビリと震えているかのような感覚に、ハッとしたアイヴィーは顔を上げた。
「ベル!魔獣は私がやるから、治癒魔法お願い!」
そう言ったアイヴィーは、成獣へと向かって行こうとしたベルと入れ替わるように、彼らの前から離れた。
ぽかぽかと、体の奥から温められているかのような感覚に、ゆっくりと瞼を開けヴァネッサは、自身の体にかざされているベルの手を見て、うっすらと表情を柔らげた。
「貴方に……助けられるのは、二度目です、ね」
「……」
ヴァネッサの声に、ベルは一度反応したものの何も答えず、治癒魔法に集中している。
先ほどから一言も発していないレオナルドは、いつものような余裕の表情はどこにもなく、どこか力の抜けた様子でヴァネッサを見ている。そんなレオナルドの顔へ向け、ゆるゆると手を伸ばしたヴァネッサ。レオナルドはその手をぎゅっと握り、薄く開かれた彼女の口元をじっと見る。
「で、んか……」
「……ッ」
「ずっ、と……言いたかったこ、とが、あるん……です」
力なくレオナルドの手を握ったヴァネッサの口元は血で汚れ、いつも能面のような表情を作っている顔は、今は弱々しい笑みを浮かべている。
その様子に息を飲んだレオナルドは、彼女の手をさらに強く握り返した。
「……ッ」
「あ、の時……」
口内に溢れる血に咽ながらも、ヴァネッサは懸命にレオナルドを見上げ、言葉を紡ぎだす。
「街で……みんな、で……た時……ぐッ」
「ヴァネッサ!」
ゴホッ、と先ほどよりも多くの血を吐いたヴァネッサ。彼女の手を握る、レオナルドの力が強まる。
「レオの分の茶菓子を食べたのは私です……」
「…………」
そう言い切った彼女は、スッと穏やか表情になり、レオナルドに握られている手を握り返す力も緩めた。
「なぜ今それを言った?」
「……今なら、許されると思って」
「許さん」
「………………」
「おい、気絶したふりをするな」
幼い頃、レオナルドは何度も城を抜け出し、ヴァネッサたちと共に街で遊んで過ごしていた。そこでよくお世話になった、ルーティアさんが作るお菓子はとても美味しく、レオナルドの大のお気に入りであった。
しかし、ある日、そのルーティアさんは遠い国へと嫁ぎに行くことが決まった。街の仲間たちを集め開かれた、彼女のお別れ会。ルーティアのお菓子が食べられるのは最後であったその日、レオナルドが席を外した瞬間に、ヴァネッサはその最後のお菓子を全て食べきってしまっていたのだ。
席に戻ってきたレオナルドは、静かに震え始め、やがて、涙を流しながら激怒した。
まさか、そんなに?と、内心少し焦っていたヴァネッサであったが、持って生まれた淡白面で、その場はなんとか誤魔化して乗り切ることができていた。ほんの少しだけ、心の奥に罪悪感を残して。
「ベル!」
「大丈夫、もう終わる」
成獣の封じ込めに苦戦しているアイヴィーに、声だけ返したベルは、小競り合いを始めた二人を無視し、かざしていた手の力を緩める。
──この魔獣、全然目が合わない。術がかけれない。
成獣の攻撃を避けながら、接近を繰り返すアイヴィー。対象者と一定の距離を保った状態で、まっすぐと目があった時でなければ、捕縛魔法は使えない。しかし、怒り狂った目の前のこの成獣は、気配や匂いで嗅ぎ分けているのか、何度も攻撃を繰り出しながらも、アイヴィーと視線が合うことはなかった。
「……ッ」
寝たふりをしているヴァネッサを起こそうと、レオナルドは彼女の体を軽く揺らした。すると突然、ヴァネッサは顔をしかめ、息が詰まったような声を出した。その反応に、レオナルドは息を飲む。
「ヴァネッサ……?」
「……この魔法、は、自己再生能力をちょっと無理して、かなり速度を上げてる、から、傷は塞がってても多分、まだ血が足りてない……だから、あんまり負担かけると、つらい」
「……!」
「しばらくは、安静にしてて」
治癒魔法を終えたベルが、立ち上がりながら口にした言葉に、レオナルドは驚き、表情を歪めた。そんなレオナルドの目の前で、スッと目を開いたヴァネッサはいつもの口調で話し始める。
「殿下が、不用意に前に出るからこうなったんです。あと、魔導具に頼り切って慢心しすぎでしたね。これに懲りたら、これからはちゃんと後ろの方の邪魔にならない所で、小さくなっていてください」
「……お前、茶菓子の件は許してないからな」
「…………失礼しました。すでに小さい男でした」
たったっ、とアイヴィーの傍まで駆けてきたベル。それを横目に確認したアイヴィーは、ふと視界に入ったレオナルドとヴァネッサの姿に、片眉を下げる。
──何やってんだ……。
無事ならよかったけど。
アイヴィーが少し呆れた様子で二人を見つめていると、ベルが拘束魔法を使い、成獣の動きを封じた。黒い靄に絡めとられ、身動きが取れなくなった成獣。そこへゆっくりと近づいて行ったアイヴィーは、じっと成獣を見上げる。
う──ん……。
何かを考える様子で首を傾けたアイヴィー。
すると、小さく唸る魔獣の声はするものの、静かになったこの空間で、カタカタと一台の馬車が近づいてくる音に気づいた。やがて、少し離れた所で停車した馬車。そこから下りてきた人物に、アイヴィーは目を丸くする。
「テオ! どうして」
「どうしてって、姉さん。言いたいことだけ言って、勝手に行っちゃったから」
追いかけてきたんだよ!と珍しく大きな声を出したテオドール。馬車を降りたテオドールに続き、彼の護衛騎士もアイヴィー達の元まで駆けてきた。
──ここが今、外でなければ! 人前でなければ!
ギュッとハグをして頭を撫でていたのに!
湧き上がる煩悩を、必死で抑え込むアイヴィーは小さく震えた。そんなアイヴィーの傍まで駆けてきたテオドールは、やや不審な挙動以外、ぱっと見て怪我はしていない事を確認し、ホッと息を漏らす。しかし、顔を上げアイヴィーの背後へと視線を向けたテオドールは、ハッとして声を上げる。
「姉さん! 後ろ!!」
直後、金切り声の様な高音が響き渡り、辺り一面が赤い光に包まれた。同時に生まれた熱風を腕で遮りながら振り返ったアイヴィーは、顔をしかめつつ片目を開ける。
──なんで
アイヴィー達の目の前には、先ほどここへ来る前に路地裏で男が召喚したものと同種の魔獣が姿を現していた。魔獣は耳を防ぎたくなるほどの鳴き声を上げ、こちらへ向け攻撃を放とうと大きく口を開いた。
「……ッ」
──距離が遠くて捕縛が出来ない!
アイヴィーがぐっと奥歯をかみしめた瞬間、ベルが指先を動かした。浮かび上がった黒い靄が魔獣の口元を覆い隠す。開かれた口から放つことができなかった炎が、魔獣の口の中で消沈する。
「ナイス、ベル! そのままね」
「うん」
「ちょっと、姉さん!」
アイヴィーが捕縛魔法をかけるため、魔獣へ近づいていく。
それをとっさに引き止めようと声を出したテオドールに、アイヴィーは穏やかに「大丈夫よ」と返す。
──召喚術者が近くにいるはず
このレベルの大型魔獣を、こんなにポンポン出せるのは信じられないけど、街で捕らえたキャスケットの男も、召喚した魔獣は一体だけではなかった。目の前の魔獣を倒したところで、また新たな魔獣を召喚されては……。
黒い靄に巻かれながら苦しそうに蠢き続けている魔獣のすぐ前まで来たアイヴィーが、そっと手をかざした。その時、
「!」
魔獣の右後方。遠くの木々の隙間が、ギラッと光った。瞬間、十数本の光の針がアイヴィー達目掛けて飛んできた。
──あそこか
おそらく術者が直接攻撃に出たのだろう。ということは、召喚できる魔物は今のこれが最後の可能性が高い。
木々の奥から飛んできた光の針を避けるため、魔獣の陰に隠れたアイヴィー。後方に流れたものは、ベルと護衛騎士が剣で防いでいる。しかし、弾かれた光の針の一つがテオドールの顔をかすめた。
「い……っ」
「……!」
「あ」
テオドールの頬からツゥ、と一筋の血が垂れる。それを見た彼の護衛騎士とベルは一瞬、息を止めた。
「……………………は?」
魔獣へ向かい手をかざした状態のまま、後ろを振り返ったアイヴィー。その顔は、すでに本人も半分以上忘れているであろう、公爵邸外であるにも関わらず、感情を隠しきれていないドスのきいた黒い表情を浮かべていた。






