43.悪夢
いやだ。いやだ。
こんな────じゃ……ッ
「……ッ」
ビクッと体を揺らし目覚めたアイヴィーは、ゆっくりと呼吸を整える。窓の外から差し込む光で、室内はほんのりと明るい。
「……また、……の夢」
握りしめていたシーツからゆっくりと手を離し、小鳥の囀りが聞こえる窓へと顔を上げながら、ぼそりと呟く。
以前、街で爆弾騒ぎがあったあの日から頻繁に見るようになっていた……悪夢。夢と言うのは目覚めてすぐは覚えていても、時間が経てば次第に忘れていってしまう。瞳からこぼれ落ちかけていた雫を手の甲で拭ったアイヴィーは、忘れないように、頭の中に残っている映像を反芻する。
苦しくて、情けない、この記憶を。
*
「あれ? 公爵様はいないのか?」
スペンサー公爵邸の一階、エントランスホール。
アイヴィーはそこで、手土産を持って公爵邸を訪れていたアルロと顔を合わせた。
「もう戻ってきたと聞いて、伺ったんだが」
「お父様は……」
つい先日、ようやく長旅から帰ってきたスペンサー公爵。
だが、帰って来て早々、各所を飛び回っており、忙しい日々が続いている。かろうじて朝食は一緒に取ることが出来ているが、今朝は早くから皇宮へ呼ばれ、既に家を出て行った後であった。
「あ──……もしかして、魔獣関連か」
「魔獣?」
傍にいた執事から、スペンサー公爵の不在の説明を受けたアルロは、少し難しい顔をしながら言った。どうやら最近、街の中に魔獣が頻繁に出現し始めたらしい。これまでも魔獣の被害が全くなかったわけではないが、人間が多く生活している場に、今回のように立て続けに何回も魔獣が現れることは珍しい。
「ま、いいや!」
「……なんか、生き生きしてるわね」
「やっぱ、分かるか!」
手土産を執事へと渡したアルロに、アイヴィーは首を傾けながら問い掛ける。するとアルロは、振り返りながらパッと明るい笑顔を作った。
話を聞けば、学園祭で披露されたライアンの新作魔導具を買い取ったアルロは、その魔導具に、父と兄の推しであるアイドル──カノンちゃんのパートのライブ映像を入れてもらい、二人に取引を持ち掛けたらしい。
『今後、二度と不正はしないこと。今までの不正分は必ず戻すこと』
二人は、様々な意味で震えながらアルロを見ていたという。
その光景は……すごく、脳裏に浮かぶな……。
「サンダーズ先生には、自分の作った組織が原因だったんだろ、って今回特別に協力してもらえたし」
アルロは、胸の前で指を数えながら言葉を続ける。
「殿下に目をつけられてたらしい、なんか知らん間に始めてた他国との取引も、結局はあのアイドルってやつに金を使いたくてやってたらしいし」
他国との取引……?
コックス伯爵が、アイドルに課金するために不正な金銭の移動をしていたのは聞いていたけど、それは知らなかった。
本来であれば貴族の不正が明るみに出れば、それ相応の報いを受ける。それも不正に金銭のやり取りをし、自国に多大な損失を与えるものであれば、爵位のはく奪もあり得る話であった。しかし、今回はアルロが二人に突き付けた、もう二度と不正をしないという宣言と、一時的にスペンサー公爵の監視下に置くことで、レオナルドからはお目こぼしを頂けたそうだ。
はぁ、とため息をついた後、アルロは顔を上げてニカッと笑った。
「公爵様からも、不正した分をきちんと取り戻すという条件で、やり直す機会をもらえたのがデカいな」
スペンサー公爵は、これまでは罪を犯した者達をみな平等に裁き、その場で全て切り捨てていた。しかし、不正をした者を排除してしまうだけでは、また新たな悲劇を生む引き金になってしまう可能性もあると、レーラの事件で考えたらしい。
そのため最近では、正義だ、悪だ、とひとくくりにまとめて考えるのではなく、その場その場の状況に応じて、一度はやりなおす機会を与えるようにしているようだ。罪を犯した当人や、その家族の未来を考えて。
言葉だけで聞いてしまうと、今のスペンサー公爵になる以前──流されやすく、NOが言えなかった頃──の、原作通りのスペンサー公爵に戻ってしまったように思えなくもないが……。
──あの顔圧で、“一度だけやり直す機会をやろう”って言われたら、普通に怖くて、震えながら従うしかないよなぁ……。
アルロの話を聞きながら、スペンサー公爵が他者に情けをかけている場面を想像したアイヴィーは、フッと目を細めた。
「ホント、コネの力は偉大だなぁ」
「……はは」
腕を組みながらしみじみとそう言ったアルロに、アイヴィーは乾いた笑い声を漏らす。
「ま、でもこれで前みたいに、まともになってくれんならいいや」
「……アルロ」
「そんで俺も、これまで通り好きにできる!」
「…………」
柔らかく微笑んだアルロに、しんみりとした感情を引っ張られてしまったが、最終的にアルロが爵位を継ぎたくないがため、好きに生きるために行った行動である、という事に気付いたアイヴィーは、スッと表情を元に戻した。
「そういえば、学園祭の夜、ルフィーナさんと一緒に踊ってたわね」
「え、あぁ」
ふと思い出して、アルロにルフィーナさんの話題を振ったアイヴィー。しかし、これまでであれば、先ほどのようにパッと顔を明るくしたアルロから、しつこい程、聞いてもいない説明を受ける流れであったのだが、今の彼はどこか落ち着いている。
「あぁいうのは……俺には正直、何がいいのか分からんが、あんな風に、楽しそうに話してくれる姿を見たら……応援したくなる気持ちは分からなくはないな、と思ったよ」
どうやらルフィーナは、学園祭でライアンの魔導具の映像を見て以降、アイドルに強く興味を持っているらしい。
アイヴィーは、街の地下で行われていたアイドルライブを見ていた時の、アルロの反応を思い出した。彼女たちのパフォーマンスが、全く心に響かないタイプだったアルロ。しかし、自分が思いを寄せる彼女の心には深く響いたことで、ほんの少し、自分以外の他人には刺さる気持ちを理解することができたらしい。
「よかったわね」
「……まぁ、うん」
ふっと穏やかに微笑んだアルロからは、今までのような熱狂的とも言えるルフィーナへの感情は感じられなかった。しかし、それは彼女への愛情が無くなっているというよりは、少し形を変えているかのように感じられた。
「色々助かったよ。今度、スペンサー公爵が戻ってきた時、また礼に来る」
そう言って去って行ったアルロの後姿を見て、アイヴィーは口元へ手を持っていき、ふと考える。
──なんかアルロ、大人になったな……。
成長した、というか。
公爵邸で初めて会った時のアルロは、父と兄の不正を知り、自分の力ではどうすることもできない!と、スペンサー公爵へ助けを求めてきた姿であった。ならば、お前が伯爵家を継ぐしかないと言われた時は、泣きべそをかいて廊下を通るアイヴィーに何度も縋りついてきた。
それが今や、あの背中。
自由奔放なところは変わらないけれど、これまでとはどこか違って大きく見えたアルロの姿を見て、彼にとってルフィーナさんと今回の事件は大きな成長の要になったようだ。
それから、数時間後。
「あ、お戻りになっていたのですか?」
「あぁ」
用事を済ませ、公爵邸に帰ってきたアイヴィーは、再びエントランスホールで、今度はスペンサー公爵と顔を合わせた。
もう少し早く戻ってきていたなら、アルロと会えたのに。
──って……ン?
アイヴィーは、スペンサー公爵の後ろからチラリと見えた、ふわりと揺れた桃色の髪に意識を持っていかれた。
「あぁ、彼女だが、しばらく公爵邸で働くことになった」
「え」
スペンサー公爵の言葉の後、サッと前に出て綺麗に礼をした一人の少女。
「ヴァネッサ・ディアスと申します。よろしくお願いいたします。アイヴィー様」
「えぇ……⁉」
ヴァネッサさん……⁉
驚愕の表情を浮かべているアイヴィーの前で、スペンサー公爵はスラスラと仕事の説明をしている。そして彼女も、あの能面のような表情でありながらも、ハッキリとした声で受け答えをしている。
ヴァネッサさんって、レオナルドの直属の部下なんじゃなかったっけ……?そもそも、皇室所属の騎士をそんな簡単に受け入れるなんて……一体なにを考えているんだ。
アイヴィーは、訝しげな表情でスペンサー公爵を見上げた。
「そういえば学園祭」
「いきましょうヴァネッサさん!屋敷を案内しますね!」
「え……、はい」
視線を感じたスペンサー公爵が、アイヴィーを見て口を開いた。しかし、アイヴィーはその声を遮り、ヴァネッサの手を掴んで屋敷の案内へと向かった。
ほんの一瞬、驚いたような表情を浮かべたスペンサー公爵。廊下を歩きながら、その顔を思い返したアイヴィーは頭を抱える。
──しまった。もしかして、学園祭の私の愚行を知っていて口を開いたわけではなかったのか。
しかし、すでに後の祭り。アイヴィーは、眉間にしわを寄せながら、ヴァネッサに各部屋の案内をするため、足を進めるのであった。
「ここが休憩室です。勤務時間外は皆、各々好きなことをしているけれど、この場所にいると、たまに料理人たちが厨房で作った新作料理の賄……と言う名の試食会が行われます」
「!」
アイヴィーの説明を聞き、目を輝かせたヴァネッサ。
……この子。グレイソンにも負けないほど、表情が変わらないと思っていたけれど、食べ物……特にお菓子の話題にはわかりやすく食いつくわね。
「ところで、どうして公爵邸へ? ヴァネッサさん、皇室所属……殿下直属の騎士でしょう? その……うちに居て大丈夫なの?」
次の部屋の説明をするため、廊下を移動していたアイヴィーは、その途中でさり気なく、今回の彼女の突然の行動について質問する。
「大丈夫です。表向きは長期休暇という事で、届は出してあります」
「……そう」
──休暇中に公爵邸で働くんかい。
普通にどこか旅行とか、美味しいもの食べに行けばいいのに。
アイヴィーは能面な表情のヴァネッサを横目に見ながら、部屋の扉を開けた。






