5.爆音と考察
「お嬢様、何かいい事でもありましたか?」
「え?」
紅茶を入れてくれていたロージーが、おっとりとした優しい口調でアイヴィーへ問いかけた。
「最近、とても楽しそうにしていらっしゃったので」
ふふ、と穏やかに笑うロージー。そんな彼女を見ながら、口に運ぼうとしていたお菓子を持つ手を止めたアイヴィーは考える。
常に貴族令嬢らしい振る舞いに気を付けていたアイヴィーだったが、公爵邸内では特定の──遮音魔法が施された部屋を選んであったが、本来の自分を抑えきれず暴れ転がるといった事がこれまでも多々あった。それで幾分かはストレスを発散していたのだが、最近発散しているものはストレスだけではない……という事を、アイヴィーを幼い頃からそばで見ていたロージーには気付かれているようだ。
「そうね、確かに楽しいのかもしれない」
現にアイヴィーは今日、学園の中でレオナルドと出くわした際に、見たこともない推しを見せてくれてありがとう、という感謝の意を込め、満面の笑みを送ってやっていた。
それを受けたレオナルドは、なぜかピクリと動きが止まり、表情を崩していたため、どうやら不審がらせてしまったようだが……。
「しかし、最近お洋服をよく汚されますね」
「……」
それは、私のせいでは、ない。
あの日以降、グレイソンと接触する機会は増えていた。見かければ挨拶を交わしたり、少し会話をする程度であったが、昨日は少し過激な出来事があった。
それは、アイヴィーが専門棟の近くを移動している時だった。ゴォッ、という音と共に、熱風がアイヴィーの顔のすぐ隣を駆け抜けた。立ち止まったアイヴィーが少し後ろに視線を向けると、地面にはボコッと拳サイズの穴が開いていた。
「……ぉわ」
思わず漏れた声は、アイヴィーから完璧な貴族令嬢たらしめる振る舞いを、完全に忘れさせていた。スッと熱風が飛んできた方へ目を向ける。魔術コースの教室がある階の窓ガラスが一つ、無残にも割れていた。
割れた窓ガラスの向こう側から、怒鳴り声が聞こえる。アイヴィーはパラパラと散らばっているガラスの破片を避け、すっとその場から立ち去ろうとする。
立派な魔法事故だ。
しかも、その現場に人が居たとわかれば、大変なことになるだろう。ましてやそれが、公爵令嬢である私であれば……。重大な危険事案ではあったが、実際に怪我をした訳ではないし、それよりもこの後、棟の管理者達に捕まって時間を割かれる方が面倒だと考えたアイヴィーは、なかったことにしよう、と何も言わず立ち去る事を決意した。
「……」
しかし、妙な視線を感じ、ピタリと足を止めたアイヴィー。
振り返ってあたりを確認しても誰もいない。
これは、本当に事故なのか……?
アイヴィーはグレイソンに初めて露骨なハニートラップをされた時を思い出す。
あの時は、グレイソンの斬撃によって壁に穴が開いた。今回は専門棟から飛んできた、おそらく攻撃魔法の類。
専門棟は、魔術や物理耐性を上げる特に強力な保護魔法がかけてあるはずだけど……。その保護魔法がかかっているあの窓を、破壊できるほどの力を持った人間がアレを放ったことになる。
アイヴィーは目を瞑り、先ほどの魔法の爆炎球を思い浮かべた。
──まさか、違うよね。
ハニトラのきっかけ作りの為に、こう何度も、こんな下手したら死んでいたかもしれない攻撃をガンガン打ち込んでくるなんて事……。
前世見た原作での推し行動を思い返し、アイヴィーはタラリと汗をかいた。
「スペンサー様!」
ビクリ、と体が揺れた。そんな事を考えていた矢先、グレイソンがまた現れたのだ。
推しが見れた嬉しさとは別に、思わず身構えるアイヴィー。
「こちらから、すごい音がして」
「あ……」
──デジャヴ!
まさか! 本当にわざとか! これも!
この世界のハニトラは死と隣り合わせなのか? いや、実際ハニトラはバレたら死ぬ可能性はあるんだけど、そうじゃなくて……
──吊り橋効果でも狙ってるんじゃないよね。
共に危険を目の前にした時に感じる、胸の高鳴りを相手への恋心と勘違いさせるらしいあれの事。普通なら、危険と隣り合わせで、一緒にいる彼にドキドキする……かもしれないが、グレイソンの本来の姿を知っていたアイヴィーは逆に冷静になることができた。
思わず身構えたまま、グレイソンを見つめてしまったアイヴィー。ゆっくりと距離を詰めてくるグレイソン。
手を伸ばした彼が、何を言うつもりだったのか、口を開けた──その時。
ドォンッ
地響きのような低い爆音が2回続いた。
音は専門棟の方から聞こえた。おそらくまた魔術教室のある階からだろうと、見上げたアイヴィーはグレイソンの肩越しに、窓ガラスがさらに2枚割れている校舎を確認した。
「……?」
グレイソンは爆音と同時に、アイヴィーの元へ駆けていた。アイヴィーを庇うように覆いかぶさっているグレイソン。アイヴィーの背はペタリと地面へとついてしまっているが、後頭部だけは咄嗟に回されたグレイソンの手で守られていた。
見上げれば、目の前にはグレイソンの首。
──ンッ
息を止める。
……よし、
──今度は生唾を飲み込まなかった!
グレイソンは右手をアイヴィーの後頭部へと回し、そのまま胸元へ引き寄せ、左手で地面を押さえる形で体勢を保っていた。
アイヴィーは気づく。
これは以前、見ることが叶わなかったローアングルの推しが拝めるのでは。
そろり、と視線を上にあげてみる。
──近すぎて、見えない。
ローアングルというか、首と、あごしか見えない。
ガッカリしたような、ホッとしたような。
息を止めたままだったアイヴィーは、不自然にならないよう、ふぅ……と小さく息をもらして、呼吸を再開する。そこでハッとしたように、グレイソンはアイヴィーから体を離した。
「申し訳、ありません」
「……いえ」
グレイソンは視線を逸らしたまま、気まずそうに口元をきゅっと噤んでいた。
照れた振り、だ。
──か、か~~わ~~~い~~~~ッッ
先ほどは耐えることができていた欲望が、いとも簡単にあふれ出す。アイヴィーは咳払いで誤魔化しつつ、体を起こしてお礼を言った。
度重なる推しからのハニトラに、アイヴィーは少しずつ耐性が付いていた。初めこそ、飛び跳ねそうな心臓を抑えるのに、叫びたい衝動をこらえるのに、顔面崩壊させてしまうほど緩む顔を引き締めるのに、必死だった。しかし、人は誰しも経験を積んでいけば、慣れていくものなのだ。
よって今は、自分がされているという感覚より、している推しの表情や行動を見る方に集中してしまっている。
悲きかな、こじらせたオタクは干からびていた。リアルな色恋よりも、目の前の推しへの欲望が勝っていた。
「汚れてしまいましたね。お手を」
はにかみながら差し出された手を、素直にとるアイヴィー。
グレイソンは正面から、「失礼します」と言うとスッと背中に反対の手をまわし、アイヴィーの服に着いた砂を掃う。
──近い
アイヴィーの目線上には、グレイソンの鼻と口。
動けない。今度は見上げられない。
必死で目の前にある推しの唇を意識しないように視線と意識を逸らす。
──あれ?
その時、少し違和感を感じる。
なんだろ……あ、
──今日は香水つけてる?
以前、接近した時とは違う推しの匂いに思わず、スン、と匂いを嗅ぐ。
ハッとするアイヴィー。
──これは設定じゃなくて、本当に推しがつけてる香水!
ほ、欲しい! この世界で本当に推しがつけてる香水が買える!!! 手に入る?! はーーーーーっ
幸せ、そう思いながら心の中で手を合わせるアイヴィー。
「あの、伺ってもよろしいでしょうか?」
「はい?」
砂を掃い終わったグレイソンは、体勢を整えながら流し目にアイヴィーを見る。
「サーチェス卿は、どちらのお店の香水を使ってらっしゃるのですか?」
「……え?」
「あ、いえ、突然申し訳ありません。……実は、家族に香水をプレゼントしたいと思っているのですが、今、サーチェス卿からとてもいい香りがしたので……よろしければ教えてくださいませんか?」
息をするように混ざる嘘。
アイヴィーは特に香水をプレゼントする予定はない。この言い訳はちょっと苦しいか? と思いながらも、知りたいのだ。推しが使っている香水を。どうしても。
グレイソンは目線をそらし、少し考え込んだ後に「秘密です」と微笑んだ。
──かっっっ、わ……
その顔はまたもや原作で見たことがない推しの顔だった。少しだけ挑戦的にも見える、妖艶な微笑みだった。
アイヴィーは心の中で手を合わせ、天を仰いでいた。
失態、であった。
今思えばあれは、爆音の事など忘れ、目の前の推しの情報を得たいという欲が前面に出てしまった、アイヴィーの完全なる失態だ。
ロージーの入れてくれたお茶を飲みながら、昨日の出来事を思い返していたアイヴィーは、頭を抱えた。
アイヴィーのグレイソンへの推し愛は、日を追うごとに加速していた。それもそのはず、グレイソンは原作を読んで好きになった推し。時間があれば推しについて考えていた日々。人の妄想を聞いて共感して震えた日々。そんな前世を送っていたアイヴィーは今、原作で描かれていない新しいグレイソンを目の当たりにしている。
ハニトラをしているグレイソンの表情や仕草を……
──んふふ
アイヴィーは前世、長い時間オタクとして生きてきた。仕事も人付き合いも、煩わしいと感じるものすべてを、推しのために、好きなものを買うために、好きなことをするために、一人の社会人として当たり障りないよう努めてきた。その精神力は人一倍だ。
そのおかげで、例えその推しが現実で自分に迫ってきたとしても、内なる興奮を静かに抑え、平然を取り繕うようになるまでに、そこまで時間はかからなかった。
グレイソンからのハニトラに耐性ができ始めていた今、アイヴィーは心に余裕ができ、現状を楽しんでいた。
──でもよく考えたら
気のせいか、接触の仕方が次第に大胆になってきてるような……。
1度目は手に、2度目は頭に触れて、そして昨日は、正面からの事故ハグと押し倒し。
──気のせいじゃないな
まずい、このままだとこの先の接触で一体何をされるんだろう!
それはまるで、期待の中に不安が混じる複雑な感情だった。
推しならどうするだろう。アイヴィーは目をつぶって顎に手をやり考える。考察タイムだ。
しばらく無言で考えていたアイヴィーの額から、一筋の冷や汗がたれる。
今、グレイソンは紳士でありながらもどこか可愛らしい一面がある男を演じているが……2回目は人の目が多かったから、あの程度だったのかもしれない。しかし、人気が全くない1回目の接触では、大胆にも手の甲にキスまでしてきていたのだ。そして今日の3度目の接触。
──なんか、そのうち普通に体使ってきそう……
いや、あったけど! 確かに原作の誰かのセリフで、騎士のくせして色で情報収集~って! でも……!
アイヴィーは自らの考察の結果に振り回され、ロージーが部屋を退室した直後、ベッドへと身をダイブさせ暴れ転がりまわっていた。
*
「んん~~~~」
いよいよ明日に控えた夜会を前にして、アイヴィーは自室で一人、招待状を眺めながら唸っていた。
──分からない。
グレイソンが使用している香水の種類……。それもあるが、あの日のレオナルドの言葉にも引っかかりを覚えていた。
『君に、受け取ってもらいたいものがある』
どうせ、きっと碌なものじゃない。
グレイソンの香水はお店に行って、直接嗅いでみて探すとして……
──結局、ハニトラまでして知りたい情報ってなんなの。
あれからもずっと、アイヴィーは考えていた。だが考える過程で、推しの行動を思い出し悶絶することで、その考えを深めることは出来ていなかった。
「う~ん……」
公爵家が持っている貴族の情報であることは推測できたが、候補として残されたそれは、まだ一つに絞り切れていない。今のところグレイソンとの会話の中で、これと言った踏み込んだ話題は出されていないが……レオナルド側が欲している情報は、この先もハニトラをされていく中で、アイヴィーがうっかり口走ってもいい情報かどうなのか知っておく必要はある。
「ベル」
アイヴィーは従者が控えている部屋の前まで向かい、彼の名を呼んだ。
レオナルドが駒を使って、公爵邸に探りを入れていたのは知っている。
それならば、
──仕方ない。
こちらも同じ手を使わせてもらおう。