4.皇太子と公爵令嬢
「見たか? あの表情」
レオナルドは、自分の数歩後ろを歩くグレイソンに表情を崩さず、だが、声色だけは愉快さを隠さずに話しかける。
「今まで何をやっても、予期せぬハプニングが起こった時ですら、一度も表情を崩すことがなかったスペンサー嬢が……お前を前にした時」
ふ、と笑い声が漏れる。
──これほど愉快なことはない
レオナルドは気配を隠して、先ほどの2人のやり取りを見ていた。
グレイソンがアイヴィーの頭についた葉を取ろうとした時、必死で唇を結んでいるアイヴィーを。不自然に、全身に力が入っていたように見えたアイヴィーを。それはまるで、高鳴る感情を誰にも悟られまいと、必死で抑え込んでいるようなアイヴィーを。
「どうやら彼女は、本気でお前に惚れ込んでいるらしい」
「……それは」
殿下の立場的にどうなのだ、とでも言いたげに少し眉をひそめるグレイソン。
「な、言った通りだったろう」
「……」
得意げにそう言ったレオナルドの横顔は、グレイソンが久しく見ていなかった、このまま鼻歌でも歌い出してしまいそうなほど楽しそうな、明るい表情をしていた。
*
この国の皇太子であるレオナルドと公爵家の娘であるアイヴィーは、本来であれば12歳の時に婚約する予定であった。皇族側からの希望であるこの婚約は、内々でスムーズに行えるよう準備されていた。しかし、公爵家側からどんな根回しがあったのか、思い通りに進まず、現在は保留という形になってる。
そのため仕方なく、アイヴィーを含めた数人の令嬢を婚約者候補という形で確保してはいるが……
レオナルドは当時から、皇太子妃に相応しい人物は、家柄・人格・技量、何をとってもスペンサー公爵家のアイヴィー以外はいないと考えていた。しかし公爵家はそれを良しとしなかったのか、阻止されてしまったものは仕方ない。
だったら、とレオナルドは14歳のデビュタントのパーティーで、真っ先にアイヴィーに声をかけ、ダンスに誘った。スペンサー公爵──親ではなく、直接本人と親しくなり、アイヴィー自らが自分との婚約を望むように仕向ければいい。そう企んでいたのだが……
「申し訳ありません、殿下。大変光栄なお誘いですが、少し気分がすぐれなくて」
そう答えたアイヴィーは、失礼しますと一礼をし、そそくさと姿をくらましてしまったのだ。
これだけなら、まぁ、一度くらいそんな事もあるだろう、と次の機会を窺うレオナルドだったが、それから何度か行われた社交界や王家のパーティーでも、アイヴィーは軽い挨拶を交わした後、レオナルドが他の貴族と向き合った隙に、会場を離れ、気づいたときには完全に視界から消えていた。
そこまでされれば、さすがに分かる。
──スペンサー家の娘は俺を避けている
彼女はそもそも、社交界やお茶会にそんなに頻繁に出席しているわけでもなく、時折、姿を見ない期間が続く事もあった。もしや病弱なのではないか、と駒を使って探りを入れてみたが、特にそういった訳でもないらしい。それどころか、偶然見かけた彼女は、下町に住む少女が着ているような、彼女の容姿とはまるで不釣り合いな貧相な服を着て、平民たちと元気に走りまわる姿だった。そうかと思えば、別の日には全身を覆い隠すような、深い色の布を身にまとって路地裏へ消えていく姿も見かけた。
レオナルドは、アイヴィー・シャーロット・スペンサーという人間が分からなくなった。
アイヴィーは公爵家の令嬢という身分に加え、容姿、学問、ふるまいについても、誰もが認める完璧な令嬢であった。
──そう、表では。
煌びやかな装飾が施された、広い空間。各所から絶えず聞こえてくる雑音に気だるさを隠しながら、優雅な所作で給仕からグラスを受け取るレオナルド。
定期的に行われている、いつもの社交場。ひとしきり挨拶を終えたレオナルドは、少し休みたいと部屋の端へと向かっている所だった。
「殿下、今よろしいでしょうか?」
髪をまとめ上げ、綺麗に着飾った一人の令嬢がレオナルドに近づき、声をかけた。その頬はほんのりと赤く染まっており、レオナルドに好意があるのは一目瞭然だ。
「あぁ、大丈夫だよ」
声のする方へ振り向いたレオナルドは、にこやかに微笑みそう答えた。
その心とは裏腹に。
レオナルドは皇太子という地位に加え、輝く金髪に吸い込まれそうなターコイズブルーの瞳を持ち、端正な顔立ちをしている。さらに、誰の耳にもはっきりと聞こえよく通る声は、どこか威厳と落ち着いた雰囲気がある。
それ故、今まで何人もの令嬢に言い寄られてきた。自分の立場からすれば、その中から好きな令嬢を選び放題であるにも拘わらず、レオナルドがアイヴィーを自分の婚約者にしたがる一番の理由は、彼女が自分の事を全く意識していないところであった。
レオナルドの対応にさらに顔を赤らめた令嬢は、嬉しそうに他愛のない話をはじめる。令嬢は、口元を手で隠し上品に笑う。その外見と仕草は、はたから見れば好印象を与えるものでしかないが……。
────浅ましい
レオナルドの胸の内では、正反対の感情が膨れ上がっていく。
婚約者を選ぶ上で、ある程度であれば目をつむれるだろうと考えていたレオナルドだったが、自分本位な令嬢の数は、それはそれはとても多い。言い寄ってきた者たちの中で、まぁ……これくらいなら、と妥協し婚約者候補に出した令嬢達を陰で調べると、自分に向けられる可愛らしい笑顔の裏では、まさに横暴で非道な実態が出るわ出るわ……。報告書を読むたびに顔をしかめ、皇太子妃を選ぶことに対するやる気がゴリゴリ削がれていた。
そんな中、アイヴィーだけは他の令嬢たちとは明らかに違った。
あの機密保持能力が極めて高い公爵邸が相手では、駒を使ってもすべてを知ることはできなかったが、少なくとも、公爵邸内で見かけるアイヴィーの言動や立ち振る舞いは、こうした社交場でのアイヴィーの姿と何ら変わりがないようだった。時折、妙な報告を受けることもあったが……。
頃合いをみて、令嬢から離れたレオナルドは、新しく用意されたグラスに口をつけ、辺りを見渡す。
──あ
レオナルドは自身が今立っている位置から、ちょうど反対側の壁際で談笑している令嬢達を見た。その中に、アイヴィーがいる。
──珍しいな、今日はまだ会場にいたのか。
いつもは挨拶が終わるとすぐに姿をくらましてしまう彼女を見て、レオナルドはため息をつく。
何故、こんなにも徹底的に自分を避けるのか。
考えられるのは皇太子妃になりたくない、という事だろうが、皇族になるのは不便と感じるのだろうか?
以前、あのような恰好で、下町へ遊びに行っていたくらいだ。
もしかしてすでに、誰か心に決めた相手がいるのか。
相手は平民か、商人か。身分の違う相手だろうか。
もしもアイヴィーに、特定の相手が存在するのであれば、それを利用して婚約まで持ち込んでやろう……とも考えたが、特にそういった相手がいるわけでもないらしい。
誰よりも完璧に、隙なく可憐に振舞っているアイヴィーは、周囲から大きな感激と期待を受けながらも、その地位も名誉も興味がないように見える。
しかし、公爵家に生まれた以上、いずれは政略結婚という形でどこかへ嫁ぐことになるだろう。だったら皇太子妃にしない手はない。
何かいい方法はないか……と手をこまねいていた矢先、レオナルドは本当に小さな、些細な違いに気付いた。
おそらく令嬢たちの会話に、自分の話でも出たのだろう。壁際に立つ令嬢達がこちらを見ていた。優しく笑うと、顔を赤らめた令嬢たちは互いを見あって騒ぎはじめる。だがその中でも、やはりアイヴィーだけはいつもと変わらぬ姿勢に見えた。
──ん?
しかし、何か違和感を感じる。
アイヴィーが見ているのは自分ではない。彼女の視線の先を追うと……そこには、すぐ隣に控えているレオナルドの護衛騎士──グレイソンがいた。
「……」
それからは、グレイソンがそばに控えている状態でアイヴィーと接触した際、相手には気づかれぬよう注意深く観察してみた。学園の校舎ですれ違う時、あの日以降の、たまに出る社交界の場でも……
──見ている。
他の令嬢達のような、露骨に見てわかるものではないため、こうして気を張ってみていなければ気づかないだろう。だが、挨拶をする時、すれ違う時、話の中で彼の話題が出た時……ほんの一瞬、いや、表情は依然として凛としたままであるが、瞳の奥に輝きが見える。
もしかして──と、自分の中で生まれた期待を確認するため、今回のパーティーでは、他の令嬢を押しのけ、いつも強引に迫ってくる肉食系令嬢の近くで、わざとアイヴィーに声をかけた。ダンスを申し込もうとした瞬間、案の定その令嬢はアイヴィーを押しやり、自分とダンスを踊ってくれと誘ってくる。
令嬢のタックルで足がもつれ、倒れそうになったアイヴィーの手を、サッと前へ出て取り、支えるようにして受け止めるグレイソン。見上げるアイヴィー。
──やはり
疑惑は確信にかわる。面白い。
にやり、と口角を上げてしまいそうになる顔を引き締めたレオナルドは、目の前の令嬢に微笑み、ダンスを申し込んだ。
『──スペンサー嬢に接触して、できるだけ強く印象に残してこい』
それは、今日のパーティーが始まる直前、レオナルドがグレイソンに言った言葉だ。
いつもより幾分か穏やかな雰囲気をつくり、アイヴィーの手を握って受け止めているグレイソン。彼をじっと見つめるアイヴィー。その瞳はやはり、いつもの取り繕ったものではなかった。
ターンの時にもう一度、二人を見る。グレイソンに腰を触れられているアイヴィーの、あの表情……
──間違いない。この女は、俺の護衛騎士に惚れている。
長年、どれだけ必死に探っても、どれだけ考えを巡らせてみても出てこなかった、あの公爵家令嬢の決定的な弱みを握れた今、レオナルドは最高の気分だった。
「あっ」
やたら強い香水の匂いを放つ目の前にいるこの肉食系の令嬢が、ミスを装い、レオナルドの胸元に倒れこんできた。いつもなら、今すぐにその手を放して捨ておきたい気持ちを紛らわせている事だっただろう。
だが、今日は気分がいい。
見下している令嬢に、にこりと微笑み「もう少し練習が必要ですね」と告げる。顔を赤らめ照れている様子の令嬢。柔らかな表情の裏で、汚く蔑んでいるレオナルドに気付きもしない令嬢は、嬉しそうに、はい、と返事をしていた。
*
「そういえばあの頃からだったかも」
レオナルドが執拗に接触してこなくなったのは。
アイヴィーは自室のソファーに寝転がりながら、人には見せられないだらしのない格好で、記憶を辿って呟いた。
半年ほど前の社交界。
レオナルドにダンスに誘われそうになった時、とある令嬢に勢いよく弾き飛ばされ、転びそうになったアイヴィーはグレイソンに支えられた。思わず口から飛び出しそうな心臓を必死に飲み込んで、平然を装った凛とした姿でお礼を言うことができたはずだった。
突き飛ばされたことに多少イラつきを覚えたが、せっかく自ら殿下の相手を買って出てくれた令嬢だ。この隙に……と、いつものように会場を抜け出し身を隠すため、アイヴィーは自身の体を後方へと引こうとした。しかし、グレイソンに掴まれたままだった手を、さらにぎゅっと強い力で握られたことにより、それを阻止されてしまう。
──え
驚いて、グレイソンを見上げる。
そこには、じっとこちらを黙って見下ろす推しの顔がある。
──推し、の、顔……が、近い
先ほどは、急なことに驚いたのとすぐに視線を他へ移したこともあり、カバーできたが、推しの顔を間近で正面から拝んでいるこの状況は、非常にまずい。
アイヴィーは脳内にはびこる雑念を、分厚く武装した仮面で抑え込む。
「失礼します」
そう言うとグレイソンは、アイヴィーの腰へと手を触れた。
──!?????
ささっと腰元を掃ったグレイソンは、また視線をアイヴィーへと戻し、「虫がついていたので」と告げた。
「……虫」
──なんだろ、カメムシじゃないよね
掃われた腰と、床を確認するがそれらしいものは見えない。
グレイソンは、なおも無言でこちらを見つめている。
──かっっおが……良
これ以上そばにいては、この分厚く作られた仮面が剥がれてしまうと感じたアイヴィーは「ありがとう」と告げ、その場を去った。
アイヴィーは知らなかった。貴族のご令嬢たちは大概、虫が苦手だ。どんなに小さな羽虫でも目に入れば、耳を防ぎたくなるほど騒ぎ立てる令嬢もいるほど。教養ある人でも、虫と聞くだけでその表情を歪める者がほとんどであった。
だが、アイヴィーが前世住んでいた場所は、春には小さい虫が飛び交い、夏はけたたましいほどのセミの鳴き声、秋には……と、たかが虫、騒ぐほどのものではなかった。
グレイソンは、虫に取り乱すアイヴィーを支え会話をつなぐか、もしくは多少なりとも表情を崩すかと思っていたので、そこで「貴方にも、苦手なものもあるんですね」と言葉をつなげるつもりでいた。
そんな思惑には気づくはずもなく、大したことではないといった様子で、先ほどよりも完璧な令嬢を演じて去っていくアイヴィーを、グレイソンは見送るしかなかった。
──今思うとあれも変だったな。
よく考えたら、推しは他人が虫をつけてようが、鳥の糞をつけてようが、かまわずに無視するタイプだ。
推しとの距離感に興奮してすっかり忘れていた。
おそらくレオナルドはあの頃から、私が推しに並々ならぬ感情を抱いている、ということを見抜いてしまっていたんだろう。あれ以降、学園ですれ違った際や、社交界で会った時に、推しからの視線を感じることがあった。ほんの少しだけ話す機会もあった。
──っく。
推しとの接触があるたび、叫びだしたい感情を抑え、緩む表情を引き締め、アイヴィー・シャーロット・スペンサーとして振る舞うのにどれだけ苦労していたことか。
アイヴィーは体を起こし、本来のソファーの使い方である正しい姿勢で座りなおす。そばにあったクッションを手に取り、ぐっと握りしめる。
あの皇太子殿下、原作ではギャグ回が初登場だった上、出てくるたび最後のオチ、(笑)扱いをされる事が多かったため忘れていたが、そういえば、
──頭は切れるタイプだったな。
いざという時は活躍して、主人公たちを救うシーンも何度かあった。
しかし、正直なめていた自分が悪いが、こんなふうに推しを利用してくるとは思わなかった。
アイヴィーは持っていたクッションを上下に激しく揺らした後、それに顔を埋め、ふ…うふふ、と気味の悪い声を漏らした。
気にくわない皇太子の差し金とはいえ、推しのハニトラが間近で見られる今の現状は、あまりにも……あまりにも、
──最高オブ最高
アイヴィーは前世、とても守備範囲が広いオタクであった。原作も好きだが二次創作も好き、学生時代は夢小説だって読んでいたこともある。若いころは推しとの「キャラ×自分」の夢小説を読んで楽しんでいた。
だが、大人になるにつれて、オタクとしても成長していく過程で、描かれているキャラクターの性格や背景、環境を知ることによって、このキャラクターは例えば、こんな事が起こった場合は何を考えるんだろう、どんな表情をしてどんな行動をするんだろう……と、"考察" することの楽しみを知ってしまった。
ゆえに、二次創作ではキャラクターにスポットを当て、深く切り込まれた作品を特に楽しむようになっていった。だが、夢小説においては……
──このキャラクターは自分という人間を好きにならない。
自分という人間に惚れて、ましてや愛をささやくなど、解釈違いが過ぎるのだ。
こじらせていた。
自身が推しというキャラクターを好きでいるのは当然の事なのだが、そのキャラクターについて掘り下げて考え、考察をしてしまった後では、推しから自分へと向けられる愛情表現が、どうしてもその "推しのイメージ" とはかけ離れてしまい、読めなくなったのだ。
それならばいっそ、偶然推しを目撃する通行人Aのモブとして登場したり、部下や後輩などあまり深くかかわらないポジションで、推しと話せる夢小説が読みたい! 敵対する組織の人間でもいい! 推しが自分を「愛する」人として見ない、"その他大勢の一人" として接してくれる夢小説が読みたい! と訴えた言葉を、友人は「それはもう夢小説ではない」とバッサリと切り捨てた。
解釈違いに愛されるのは嫌なんだけど、ただ原作通りの推しとは絡みたい欲はある。
こじらせた女が、そこにはいた。
だが、今のこの状況はどうだろう。グレイソンは私にハニトラをしている。本当は何とも思っていないくせに、想っているふりをしている。
──…………アリだ。
これはアリなのだ! グレイソンは自分を愛してはいない。ただの群衆の一部にすぎない自分を、情報を得るために利用しているだけ! 原作の推しの行動の通りに!
震える。
前世でずっと、読みたい! こういうのが読みたい! と思っていた夢物語が……今、アイヴィーの目の前に現実として起こっているのだ。
あまりにも幸せすぎた。
「やっぱり殿下には、ちょっと感謝するしかないな」
顔を埋めていたクッションは、両手で持ったまま膝の上にそっと置き、落ち着きを取り戻したアイヴィーはそう呟いた。