29.あ
「はぁ……」
カタカタと揺れる馬車の中で、アイヴィーがため息をつく。目の前にはニコニコとしたルイスの姿。そして、その隣にはベルが同席している。
公爵邸からの無断脱出は難しいと判断したアイヴィーは、本日、街へ出ることをスペンサー公爵へ告げ、当然のようについてきたルイスとベルと共に馬車に揺られていた。
もともと外出は禁止されていなかったアイヴィー。それでもなぜ、ベルを連れて毎回無断外出をしていたのかと言うと……。
──だるい
重いのだ。外出用の貴族衣装はかなり重装備なのだ。その点、いつもの外出時に着ている、どこかの商人の娘のような平民のラフな格好はいい。軽いし、動きやすいし……。
記憶を取り戻す前も、取り戻してからもずっと「貴族令嬢」として生きてきたアイヴィー。しかし、やはりどこか前世のあのラフな格好が忘れられないアイヴィーは、これまでも街に出かける際は、出来る限りの軽装をしていた。
馬車が止まった。アイヴィーはベルの手を取り、馬車を降りる。歩き始めて数分。共に歩いているルイスの様子が少しおかしい。チラと後方や路地裏を確認しているようだ。
──……?
誰かにつけられているような感覚はないけど。何か気になることがあるのかな。
あ、と思ったアイヴィーは、スッと路地裏に視線を向けながら言った。
「もしここに“男娼のフリをして潜入調査をしてこい”ってあなたを放り込んだら、喜んで数日間は帰ってこなさそうね」
「な、なんてことを言うんですか!」
アイヴィーを見て目を見開き、わなわなと震えながらそう答えたルイス。
「お嬢様にそんなこと言われるなんて……ッ。ちょっと想像しちゃいました……あの、少し席を外してよろしいでしょうか?」
「少しじゃなくていいわ。そのまま今日は戻ってこなくていいから。お疲れ様」
嬉しそうな表情を浮かべたルイスは、「ちょっとお手洗いに行ってくるだけですからね、この場所を動かないでくださいね!」と言って走り去っていった。「わかったから、早く行ってらっしゃい」と答えたアイヴィーは、ルイスの姿見えなくなったのを確認して、ベルと共に目的地へ移動を開始した。
ベルの案内の元、例の教団の集会が行われているという場所へたどり着いたアイヴィーは、さっそく件の扉へと向かう。
「…………これは」
扉に手を付け、そこに刻まれている術式を見たアイヴィーは、息をのんだ。瞬間。
ドォンッ
凄まじい爆音が響き渡った。少し離れた所から人々の悲鳴が聞こえる。アイヴィーはパッと振り返り、辺りを確認する。通りには何人もの人たちが、音がした方から走って逃げてきている。
「ベル」
アイヴィーの呼びかけに、コクリと頷いたベルは、音がした方へ向かう。
声を上げ逃げ出す人々で騒がしかった通りが静かになり、建物の影やカーテンの隙間から、何人かの人が騒ぎがあった方を覗き始めた頃、ベルが戻ってきた。
「爆弾。犯人達は捕まってた。ただ一人逃したって」
アイヴィーがベルからそう報告を受けている途中、道の反対側から若い女の悲鳴が聞こえた。
「やめて……ッその子は!」
女性の視線の先をアイヴィーも目で追う。そこには、小さな男の子を脇から首へと手を回して持ち上げ、その子の顔にナイフを突きつけている、おそらく例の逃げだした犯人であろう男の姿があった。何かを喚き散らしているその男は、目は血走っており、どこか様子がおかしい。
「…………」
アイヴィーは顔をしかめて、冷えた瞳でその男を睨む。
「ベル」
「どっち?」
「男の方」
わかった、と頷いたベルはサッと回り込む形で男の元へ向かう。同時に、アイヴィーはあの捕らわれている男の子の母親であろう女性の元へと向かった。
「グアアァッ」
アイヴィーが女性を支えるように手を差し伸べた瞬間、男が呻き声をあげた。男は目と首、そして体のあちこちが黒い煙のようなもので覆われていた。ベルが背後から男を制圧したのを確認したアイヴィーは、目の前の女性に「あの子は私が連れてくるから、ここに居て」と告げ、男の前で腰を抜かしている男の子の元へ走る。
「う……っ、……っ」
「もう大丈夫だよ」
震えて足が立たない男の子を、そっと両手で抱き上げるアイヴィー。女性の元へ向かおうとした瞬間。
「クソォ!」
道の反対側、先ほどアイヴィー達が居たあたりから、別の男が声を荒げ手をかざした。
──もう一人いたのか
いや、それよりも。アレは……!
アイヴィーは男がかざした手の先に浮かび上がった、魔法陣の文字に目をやる。男の叫び声と共に、勢いのある炎の渦がアイヴィー達を目掛けて放たれた。アイヴィーは、両手で抱えていた男の子から片手を離し、その炎の渦へ向けてまっすぐと手を伸ばす。
キィイィィン、という複数の高音が響き渡ると共に、まばゆい光が辺り一面に広がる。光りが収まると、そこには、男が放った魔術は跡形もなかった。
「え……っ?」
男は自分が放った魔術が、突然消えた事に動揺して声を出した。
「クソッ」
「こら、いかんぞ」
──えっ。
炎の渦を放った男の傍に、どこからか現れた深いフードを被った人間が近づいていく。
「ンだテメェ……」
魔術を消されイラついた様子の男が、フードの人間に噛みつく。
「魔法をそんな風に使ってはいけない」
「うるせぇ!なんなんだテメェ」
男が再び、今度はフードの人間目掛けて手をかざした。しかし、そんな事には動じず、変わらない速度でフードの人間は足を進める。
──あっ、危ない!
男の手から魔法陣が光り、魔法が放たれる寸前、アイヴィーが抱えていた男の子を女性の元へ届け、思わず駆けようとした、その瞬間。
キィイィィン
複雑に絡み合う高音と共に、辺りにまばゆい光が飛び散る。
フードの人間は男に向けていた手をスッと下ろすと、再び発動されなかった魔術に動揺している男の目の前まで行き、その男の頭を目掛けて、思い切り足を振り上げた。強烈な蹴りを受け、まるで一瞬、体が浮いたかのように見えた男は、そのまま横にバタリと倒れた。
「すごいな、君は」
フードの人間は、振り返ってアイヴィーを見てそう言った。その途中、ふわりと揺れたフードがその人間の頭から外れ、隠されていたキラキラと光る髪が見えた。
──あの人は……!!
後ろ髪が背中まで続く長いみつあみに、とがった八重歯を見せニカッと笑う人当たりのよさそうな笑顔。
──東の国の大錬金術師、リー・ハオシェン!
アイヴィーは、原作で見たその青年を食い入るように見た。
ハオシェンはその長い脚でスタスタと歩き、アイヴィーのすぐ目の前まできて、ピタリと止まった。
「驚いた!我が国の人間以外にも、術式分解を扱う者がいるとは!」
「…………」
──原作で読んだあなたの技を、見様見真似でパクっただけです。
と、内心で思いつつも、驚いた表情で何も言わないアイヴィーに、ハオシェンはそっと紳士的な動作でアイヴィーの片手をとり、手の甲にキスをした。
「私は、リー・ハオシェン」
下からアイヴィーを見上げるハオシェンの瞳は、自信に満ちている。
アイヴィーは少しの沈黙の後、ニコリと微笑んだ。すると、ハオシェンは握っていた手を離し、パッと手のひらに一輪の花を出した。そしてそれを、そっとアイヴィーの髪につけた。
「これは我が国に咲く、キキョウという花。貴方の瞳と同じ色をしたこの花は、貴方にとてもよく似合う」
頭につけた花を撫でるハオシェンが、アイヴィーの瞳をじっと見つめながら、「貴方とお近づきになりたい」と囁く。知らぬものが見聞きすれば、思わずとろけてしまいそうな行動である。だが、この男には下心がない。なぜならば、このハオシェンという男。
──正真正銘、本物の錬金術バカなのだ。
今、パッと出したこの花も、彼の術である。そしてなにより、アイヴィーを見つめるこの瞳が言っている。『なんで術式分解を知ってるんだ?詳しく聞かせて?』と。
錬金術の研究にのめり込んでしまえば、食事も睡眠も、何もかも疎かにしてしまうハオシェン。そのため、何度も倒れたことがあるというエピソードは、原作でよく見ていた。
現に、今目の前にあるこの男の顔。整った顔立ちをしてはいるが、よく見ると目の下に隈があるし、少しやつれている。おそらく、この国に来ていろんな魔導具店を回ってばかりで、ろくに食事をとっていなかったのだろう。
「そうですね、まずはお食事でも」
あそこに、卵料理のおいしいお店があるんですよ、とアイヴィーが笑いかければ、ハオシェンはハッとした顔をして、自身の腹に手を当てた。
「そういえば、もう2日は何も食べていなかった……」
「…………」
やっぱり。
「アイヴィー」
ハオシェンの蹴りで倒れた男と共に、先ほど魔術で制圧した男を、駆け付けてきた街の騎士団に引き渡したベルが戻ってきた。
自覚をしたせいか、ぐぅぅうう、と腹の虫を鳴らし始めたハオシェンと共に、アイヴィーとベルは、この街で特に美味しくてオススメの食堂へ向かうことにした。
──せっかくだから、仲良くなっておいて損はないだろう。
アイヴィーはこれまでも、原作で彼が使う術式を思い出しながら、いくつかの魔術を使っていた。しかし、今のところ、うまく使えるのはあの術式分解を含めた数個しかない。
ハオシェンには下心はない。だが、せっかくだから、自分の記憶だけでは再現できなかった彼の技を見せてもらい、あわよくば盗もうという下心が、アイヴィーにはあった。
店に入りとんでもない量の料理が机の上いっぱいに並べられ、それを綺麗に平らげていくハオシェンを目の前にしたときには、さすがのアイヴィーも胸やけを覚えた。ベルは隣でいつもの量を黙々と食べていた。ひとしきり料理を堪能した後、ハオシェンにアイヴィーはいくつかの話を振ってみた。
どうやら、1週間ほど前には、この帝国に来ていたらしいハオシェン。そういえばこの後、陛下に食客として呼ばれていたのだった、と言った彼は、店を出た後、アイヴィーたちと別れを告げ、皇宮へ向かって去っていた。
──相変わらず、自由人だ……。
あれ、でも待って。陛下に食客として呼ばれているのなら、今頃皇宮では沢山の料理が準備されてて、ご馳走が振る舞われる予定だったんじゃ……。
街の食堂で、とんでもない量の料理を食べたハオシェンを思い出したアイヴィーは、皇宮の料理人たちにすまない、と心の中で謝った。
「ベル、馬車呼んできてくれる?」
「わかった」
そういえばルイスをあれから見てなかったけど、大丈夫だったかな。ベルの姿が小さくなっていくのを見ながら、アイヴィーがそう考えていた、その時。
「!」
路地裏から伸びてきた手に、アイヴィーは腕を掴まれた。その力に引かれるまま、とっと、と足を縺れさせながら、路地裏へと引き込まれた。
……この手。
「あの男は大丈夫なのか?」
声のした方へ振り向いたアイヴィー。もしかして、と思った通りの人物がそこにいた。
──推しだ!
アイヴィーの腕を掴んだまま、そう問いかけたグレイソン。
あの男って……。
「ハオシェンさんのことですか?」
「あぁ……」
ジッとこちらを見るグレイソンの顔は、いつもと変わらない無表情であるが、ふと視線の先が自分の目より上にあることに気づく。
──あ。
ハオシェンの術で出された花を、頭につけたままだったのを思い出したアイヴィーは、それを片手でとりながら口を開いた。
「……あの方は、一に錬金術、二に錬金術、三四もずっと錬金術、の錬金術マニアです。手懐けるのは難しいと思いますが、興味の引かれる魔術や魔導具を見せれば釣れるかと」
「…………」
グレイソンはアイヴィーの話を聞きながら、少しだけ目を細めた。
「ただ、こちらへ向かう途中、この国の魔法にも数日触れていたみたいで、その間、食事と睡眠を疎かにしていたようです。だから今食事をとってもらったのですが……」
あのキャラのことだ。お腹がいっぱいになったら眠りそうだなぁ、と考えながら、じっとこちらを黙って見ていたグレイソンに目を向ける。
──あ、グレイソンも隈ができてる……。
どうしたんだろう。大丈夫かな……。
話の途中で、黙り込んでジッとグレイソンを見上げるアイヴィー。グレイソンも、そんなアイヴィーを黙ったまま見下ろしている。
よく見たら、また全身真っ黒な服を着ている。こんな所に引き込んだのもそうだし、暗躍任務中だったのかな。
「ちゃんと、寝ていますか?」
「……は?」
ハッ、何を言っているんだ。
アイヴィーの言葉に、グレイソンの顔は怪訝な表情へと変わった。凄む推しの顔が、隈の影響で人一倍怖い。
い、いえ。と顔を逸らしたアイヴィーは、すぐ近くでポチャッ、と何か柔らかいものが地面に落ちた音をきく。
「あ」
声のした通りの方を振り返る。そこには、こちらに目をやり、口を開けたことで、おそらく歩きながら食べていたであろう、アイスをポトリと落としているアルロがいた。






