挿話7.社交界の控室Ⅲ -因果応報-
「挿話6.社交界の控室Ⅱ -その後-」の続き。大体トム視点。
パーティーも後半戦。
会場に戻ったトムワズは、先ほどの休憩室では一人辱められた気分でいたが、これについてアイヴィーにからかわれずに済みそうでよかった、とグラスを片手にホッと一息をついていた。
その時、ゾクッと背筋が伸びるような悪寒が、トムワズに急に襲いかかった。ハッとして振り返り、辺りを見回す。視界の端にアイヴィーの姿を確認する。
「…………ッ」
──気付いている。
凛とした様子でグラスを手に持ちながらも、こちらを見て、ニコリと笑っている彼女……だが、うっすらと目が開いている。
彼女は確実に気づいている。
ゴクリ、と音を立てて唾液を飲み込むトムワズ。
気を付けなければいけない。
これからの一言や、何気ない行動や反応一つで……彼女は豹変するだろう。
トムワズはゆっくりと視線を外しながら、自然な動作で彼女の視界から外れるよう、人が集まる方向へと移動していった。
*
──甘いわね、トム。
さっきの控室では、ミアが露骨に話題を反らしたから深くは触れなかったけど……。
──一線を越えた人間がまとう雰囲気は、なんか違うのよ。
何が、とを明確に説明するのは難しいが、なんというかこう、向かい合って話している時に、今までにない妙な落ち着きを感じる……あの時に漂っているあの空気。そしてなにより、あのトムの露骨な態度。
アイヴィーは自分と目が合ったトムワズが、サッと逃げるように消えていくのを確認して、手元のグラスに視線を移した。
……でもまぁ、なにより、最近出会うたびに突っかかってきていたミアが、前みたいに落ち着きを取り戻してくれてよかった。
アイヴィーは持っていたグラスに口を付け、ふっと微笑んでいた。
*
後日、ミアが主催のお茶会に参加したトムワズとアイヴィー。
その日は、ルイスという新しくスペンサー公爵家の騎士となったらしい者と共にアイヴィーは現れた。いつもの従者はどうしたのかと尋ねれば、「ベルはちょっと用事を頼んでて」と返ってきた。来なくていいって言ったんだけど……、とぼやくアイヴィーの後ろで、ルイスはニコニコと笑っていた。
本来護衛騎士というものは、もっとキリっとした寡黙で堅いイメージを持っていたのだが、この少年の雰囲気はやわらかくて、共にいても圧は感じない。トムワズは好意的な感情を彼に抱いたのだが、一方のアイヴィーは、そんな彼を時々睨むように見ているし、いつもとは違い、どこか挙動不審だ。「どうしたの?」と尋ねれば、なんでもないとそれ以上は語らなかった。
お茶会も終わり、久しぶりにあの湖でも行こうか、と三人で話していた時に事件は起こった。
「きゃあ!」
ミアが突然、悲鳴を上げた。
トムワズは驚いて、ミアが震えながら指をさしているアイヴィーの方を見る。すると、きょとん、とした顔のアイヴィーの後ろにナイフを持った男が立っていた。
「アイヴィー、後ろ!」
「え……?」
ゆっくりと振り返るアイヴィー、しかし、その動きと同時に男がナイフを振り下ろす。
キンッ
金属がぶつかり合う音が響き、男が持っていたナイフが空を舞った。カサッ、と音を立てて芝生の上に落ちる。ミアを正面から抱えるように背を向けていたトムワズは、振り向いて確認する。そこには、先ほどまでの穏やかな雰囲気は消え、ピリッとした空気を漂わせアイヴィーを庇うように立つ、抜刀したルイスの姿があった。
「トムはミアを連れて、誰か呼んできて」
おそらく彼に庇われた時に、背中を押されたのだろう。前方に倒れ膝をついているアイヴィーが、よじよじとそのままの姿勢で二人の方へ寄って来て、小声でそう言った。
トムワズは少しためらった後、コクリと頷き、ミアの手を引きその場を走り去った。玄関口で、執事と使用人を見つけたトムワズは、慌てて事態を説明した。騎士が数人駆けつけるまで、どれくらいの時間があるのだろう。アイヴィーにあぁ言われたとはいえ、男である自分がアイヴィーを置いてあの場から逃げてしまったという後悔の念が浮かび上がり、トムワズはミアを使用人に預け、さっきの男が現れた場所まで走った。
「ア…………ッ」
「…………?」
トムワズは息を切らして走ってきた。しかし、その現場を見た瞬間、思わず息をするのを忘れた。
「え、なんで」
アイヴィーがこちらを振り返り、呆然としている。なんで戻ってきた、という顔をして。そんな彼女の向こうでは、護衛騎士であるルイスが、先ほどの男に胸ぐらをつかまれ、罵詈雑言を浴びせられながらも、どこか嬉しそうな表情をしている。
サァァ、と顔が青くなっていくアイヴィー。その視線の先には、恍惚の表情で喜んでいる様子のルイス。まさに混沌なこの現状で、トムワズはどこか冷静に頭を働かせていた。
しばらくして、数人の駆けてくる足音が聞こえた。フレイヤ公爵家の騎士たちだ。はっと意識を戻したトムワズが前を向けば、いつの間にか剣を持ったルイスが、先ほどまで彼の胸ぐらを掴んでいた男を組み伏せていた。男はフレイヤ公爵家の騎士たちに引き渡されていき、アイヴィーとルイスは、状況を説明している。
トムワズは先ほど思考していた事を思い返す。
日ごろから外では完璧令嬢を装ってはいるが、公爵邸の中では貴族令嬢にあるまじき言動をするアイヴィーに、頭を抱えているらしいスペンサー公爵。
ルイスという護衛騎士と共にいる時は、いつもとは違いどこか意識を彼に集中させ、そのために悪事を働かないアイヴィー。
そして、今この目の前にいる、他人に嬲られ恍惚の表情を浮かべていたルイスという護衛騎士。
トムワズはスペンサー公爵に「アイヴィーはルイスが居ると、いつもと違ってとても大人しくていい」と告げ口をした。
それからだ。
これまではスペンサー公爵についてまわっていたルイスが、ベルが居ない時など、アイヴィーと共に現れる事が増えてきた。彼が来てからはアイヴィーの暴走も大分減ってきて落ちついている。いや、彼の暴走を食い止めようと彼女が必死になっている。
出会ってから徐々に素を見せ始めた彼女に、ミアの見ていないところで事あるごとに弄られることが多かったトムワズ。初めて彼女を見た時に抱いたキラキラとした印象などとうに消え去り、まるで悪魔のような黒い気配を感じるたび、今回は何をされるのかと内心怯えていた。しかし、今、目の前には、一人の護衛騎士に振り回されて必死になっている彼女の姿がある。
そんなアイヴィーの姿を見て、トムワズの心は自然と晴れていったのであった。






