3.謀略と忍耐
好き放題暴れぐしゃぐしゃになった枕とシーツを、ささっと綺麗に整えたアイヴィーが、テオドールの部屋を後にした頃──日が沈み始め、薄暗くなった部屋の中で、男は首元を緩めながら、扉の近くで静かに立っているグレイソンに向かって問いかける。
「どうだった」
「……確かに、いつもとは少し様子が違うように感じましたが」
グレイソンの報告を聞き、思わずフッと鼻で笑った男。軽く見下すような顔をしてしまった事を、男は特に気にする様子もなく「そうか」と告げる。
それを黙って見つめているグレイソンの視線の先には、ソファーに足を組んで座り込む、この国の皇太子──レオナルド・プライス・リンドバーグ・アルバの姿があった。
「いけそうか?」
「もう少し、時間を頂ければ」
「あぁ、頼んだ」
口元を片手で覆い、ほくそ笑むのを止められないレオナルドは、表情を変えることなく淡々と答えるグレイソンを下がらせ、机の上にまとめられている書類に目を通し始めた。
内容は、数か月前から浮かび上がってきたある貴族の黒い疑惑。その貴族──コックス伯爵家の次男が、ここ最近、スペンサー公爵家へと頻繁に足を運んでいることが分かった。スペンサー公爵は、過去にも何度か不正をしようと持ち込んできた者たちを徹底的に排除していたため、周りからの信頼が厚い。レオナルド自身も、スペンサー公爵を信頼しており、今回の事件に関わっているとは思っていないが……
──少なくともコックス伯爵の息子、アルロは公爵家を利用しようとしているか、頻繁に足を運ばなければならない何かしらの事情があるはずだ。
読み終わった資料を机に置く。
──せめて、アルロがスペンサー公爵家でどういったやり取りをしているのか、少しでも手がかりを得ることが出来ればいいんだが……
スペンサー公爵に直接、コックス伯爵の疑惑を伝えてもいいのだが、できれば、別件でも上がってきている余罪に関してもすべて明らかにし、処理したい。だが、そちらの証拠集めには、もう少し時間が必要だ。だから、今はアルロを泳がせておき、スペンサー公爵には時間稼ぎ──囮となってもらえたら……
そう考えていたレオナルドは、スペンサー公爵家へと駒を数人送り込んだ。アルロとスペンサー公爵とのやり取りの他に、何か物的な証拠があればそれを手に入れるために。しかし、潜入させてからもう1か月経つが、驚くほど何もつかめていない。
──まぁ、予想通りではあるが
レオナルドは、以前にも何度か公爵家の内情を知るために、駒を送り込んだことがある。その時も今回と同様、何の収穫も得られなかった。
公爵家の建物は、どうやら半数近くの部屋に遮音魔法が施されているようで、部屋の外から中の様子を窺うことはできない。他にも資料室や執務室など、重要な部屋には特殊な魔法がかけられており、認識登録されている者以外は、目を盗んで入ることもできないのだ。
公爵家内の機密を維持するために、こういった対策をとっているのは、賞賛されることだ。事実、実際に何度潜入しても何も重要な情報を得ることができない事を、レオナルドは身をもって知っている。
ただ、それが問題なのだ。スペンサー公爵家は王家の人間が育てた駒を使っても、その内情については一切知ることができない。反乱や悪事を働いているという気配は感じないし、スペンサー公爵は信頼できる人間だ。だが、何をしてもその内を見せない、まるで何か見えないベールに覆われているかのような公爵邸は……なんとも不気味なものだ。そして、何度潜入しても何も情報は得られないという事実は、自分が公爵家に負けていると、劣っているのだと、レオナルドに屈辱を与えていた。
だが、それも今日、この日からは違う。
スペンサー公爵家の娘──アイヴィーの弱みが、俺の護衛騎士であるグレイソン・サーチェスだと知ることができたのだ。
これを利用しない手はない。
『スペンサー公爵家の令嬢を誘惑して、公爵家の内情を探ってくれ』
なんとしても公爵家の堅い鎧を剥ぎとり、内情を知り、積年の屈辱を晴らしたいレオナルドはグレイソンにそう命じていた。
「アイヴィー・シャーロット・スペンサー……」
レオナルドは椅子の背にもたれかかり、左手を上げぐっと空をつかむ。
──ようやくお前の……
「お前の、その張り付いた仮面を剥がしてやれる!」
その顔は、先ほどまでの大人びた男の表情ではなく、悪だくみをする年相応……よりも、少し幼い少年のような、最高のいたずらを思いついた子供のような、それは楽しそうな顔だった。
*
学園は、大きく5つの校舎に分けられている。一般的な学問を学ぶために用意された教室が並んでいる、毎日多くの生徒が利用する南棟。体を動かしたり、魔術の実験を行ったりなど、特別な授業内容に合わせて作られた教室が集められている、東の専門棟。その二つをつなぐ通路には、専属の庭師が端正に手入れしている、季節ごとに見て楽しめる色鮮やかな花々が並ぶ、小さな庭がある。
その庭を眺めながら休むことができるよう、設置されているベンチの一つに腰を下ろしたアイヴィーは、昨日の推しの行動を反芻していた。
あの行動は、レオナルドの命令であることに間違いはない。公爵家の何かを知りたがっていることも分かっている。でも、
「一体、何が知りたいんだろう」
原作であれば、スペンサー公爵家は父の不正により、没落しかけているはずだった。だが、記憶を取り戻したアイヴィーは、父に悪事を持ち掛けてくる人物に先手を打ち、見事に勝利していた。
SNS-拡散炎上-作戦。
適当に名付けたそれを言葉にすると、なんとも悪質感が否めないが、アイヴィーは前世──不祥事や犯罪を起こした人がSNS上でリークされ、瞬く間に不特定多数の人間に広まり、囲まれ叩かれている様子──を思い出した。
記憶を取り戻したところで、5歳の子供であるアイヴィーができることは少ない。とりあえず、他者に気付かれないように陰でコソコソ上手くやっている外道を、民衆の前にさらけ出し、精神的に追い込めないかと考えたのだった。
アイヴィーは、出入りしている噂好きの商人や使用人、または来客達に、何もわからぬ幼子を装い、悪党の情報をおしゃべりした。
商人は、仲間や客に、使用人は別邸で働く使用人仲間に、来客は社交界で……アイヴィーが楽しそうに、時には不思議そうに、事細かく伝えていた "父にすり寄ってくる悪党の情報" は、あっという間に尾ひれをつけて広まっていった。
少しして、周囲の異変を感じ取った父は、ある時からまるで人が変わったかのように、悪意を持って近づく人間を徹底的に潰していった。
悪党を周りから追い込ませて、公爵家から遠ざけてくれればいい、くらいの考えでいたアイヴィーだったが、温厚で優しい父の人格を変えてしまった事に多少の罪悪感を感じつつ、流されやすかった父がNOと言えるようになった事だし、結果オーライだと自分を納得させた。
とにかく、そのため公爵家では今そういった悪事を働いてはいないはずなのだが……
──隣国の王子と繋がってるキャンベル夫人のこと? それとも、ワグナー侯爵が毒が取れる新種の植物を購入して育ててる事? 愛妻家で有名なトーマスが実は男色家、っていうのは違うよね? あとは……
「う~ん、わかんない」
頭を抱えるアイヴィー。
スペンサー公爵家は悪事には関わっていない。だが、悪事を行っていたり、怪しい疑いのある貴族たちを独自に調査している。
アイヴィーは、原作の最初の接触さえ回避すれば、公爵家は安泰だと思っていた。だが、最初に父をそそのかした人間を排除した後も、来るわ来るわ、次から次へとまるでスペンサー公爵家は悪をなすために存在するかのように、あちこちから甘い言葉で破滅への扉を開かせようとする輩たちが現れた。そのたびに、そのすべて排除してきたが、「奴らが来てからの対応では、後手に回ることがあるかもしれない」と、いつの間にか、悪行を持ち掛けようと接近するような貴族や商人の事情は、常に調べ上げるようになっていたのだ。
結局、レオナルドが何の情報を欲しがっているのか分からないが、それを手に入れるまでは、また推しからの接触があるかもしれない……いいや、あるだろう。
昨日の事を思い出し、鼓動が早くなる。
──肌、綺麗だったなぁ
昨日は動揺と混乱で、バカみたいに推しの顔を見ているだけだったけど。
はぁ、とため息をこぼしたアイヴィーは、両手で顔を覆った。
──どうせならもっと色々、しっかり見ればよかった! とんでもなく至近距離だったのに!
確認できたのは、顔の良さと肌のきめ細やかさと、あと……推しの匂い。最後のは若干変態臭いのだが、前世、原作で知ることのできなかった推しの情報を知れたという事実は、アイヴィーにとっては何ものにも代えがたかった。
なんなら推しの手で最期を迎えられる原作通りの展開になったとしても、それはそれでご褒美なのでは?と思えるほど、アイヴィーは推しの事は好きだった。
好き、なのだが、思い出すのは昨日の、あの背後にあった壁の穴。
──やっぱり痛いのは嫌だなぁ……できればもっと生きて推しを堪能したいし……
そう思い、考えを改めたアイヴィーは、またああいった危険な接触があってはたまらないと、極力、人気が少ないところは避けるようになった。
今、アイヴィーが座っているベンチは、渡り通路からはよく見える位置にある。ちょうど昼食を終えた生徒が移動する時間帯だったため、通路には、生徒達が絶えず現れては消えている。
アイヴィーはその様子を遠目に眺めた後、頭を落とし考え始める。しばらくすると、ふとゆっくりこちらへ近づいてくる気配を感じ、顔を上げた。
「……あれから大丈夫でしたか?」
見上げた先には、原作で何度も見ていたスタンダードな表情よりも、瞳を大きく開けているグレイソンが、心配そうにアイヴィーを見下ろしていた。
「突然お声がけして申し訳ありません。昨日の事……が、気になって」
──き、来た。
おそらく確実に再度接触があるだろうと踏んでいたが、まさか昨日の今日で……こんなにすぐ現れるとは思っていなかった。しかもここは、昼休みの渡り通路の前。人の目がそこそこある。
まだいつもの "外面だけは完璧令嬢" へと切り替えられないアイヴィーは、グレイソンを見上げたまま、震えあがる感情を押し込めつつ、固まっていた。
それを見たグレイソンは、ハッとした様子でアイヴィーの目の前まで近づいてくる。
「もしかして、見えないところを痛められたりはしていませんか?」
「……っ」
──見えないイタイところって、どこかな。頭のことかな?
それとも、心臓か?
普通に答えなきゃ、と頭では理解していても、心はとてもクールではいられないアイヴィー。それでも大丈夫だと伝えるため、口を開きかけた、その瞬間。
「!」
グレイソンの右手がそっと頭にのせられた。
≪ドッ≫
アイヴィーの心臓が轟く。
目の前にはグレイソンの胸元。着崩されず、ピシッとしたシャツに学園規定のタイ。
自分でわかる。今の私の顔は、絶対に人に見せられたものではない。見苦しく動揺しているこの顔を、目の前の推しに曝すわけにはいかない。
幸いにも、その推しが目の前に立ってくれているおかげで、遠くの方からチラチラとこちらの様子をうかがっている数人の学生達には見えていないはずだ。
グレイソンの視線は、彼の手元、アイヴィーの頭上にある。
見上げてはいけない。見上げてしまうと、ローアングルの推しの顔が見えるはずだ。
──ローアングルの推しの顔…………
なかなか見れない角度の推しをぜひとも拝みたいという欲望と、これ以上推しを過剰摂取してしまっては、本能を抑えることはできないと警鐘を鳴らす理性とが、脳内で殴りあう。
指先の感覚が頭皮から伝わってくる。ゆっくりと、するりとアイヴィーの髪に這わせながら、生え際から毛先へと向かう途中でグレイソンの手は離れていった。
「葉っぱがついてました」
──葉っぱ
かっわ……え、グレイソンは葉っぱとか言わなくない? いや、わかってる。これはハニトラだから……本来のグレイソンの姿ではなく、私に好意のある男を演じているだけ。わかってるけど……
──君はいつもハニトラする時、こんなかわいいことを言うのかい……!?
それに
──触り方……ッ!
なんで、葉っぱを掴んでひょいっ、じゃないの⁉︎あんな指先で髪を梳かすように、優しく触れるなんて……
表情は固まったまま、脳内では激しい感情が飛び交っているアイヴィーに、そう言って手に持っている緑の葉っぱを見せるグレイソンは、目元を緩め、原作でも見たこともない優しい表情で微笑んでいた。
えっ、誰……?
──推しだわ。
初めて見た穏やかな表情のグレイソン。
正直、昨日の困った表情シリーズもレアだったけど、この表情は何? え、待って……
「……っ」
こらえきれず、口元を手で覆い視線をおとし震えるアイヴィー。
──推しのハニトラがマジですごい
効果は抜群だ。普通なら、クリティカルヒットで一撃で倒れているだろう。しかし、今ここでそんな姿を晒すわけにはいかないと、足の指先にぐっと力を入れ、踏みとどまったアイヴィーが「ありがとう」と、どこにも怪我はなく、問題ないことを伝える。
「……本当ですか? でもなんだか少し」
「スペンサー嬢」
グレイソンが、それでも引き下がらずにもう一歩攻め入ろうとした時、落ち着いた雰囲気のはっきりとよく通る声が聞こえた。
グレイソンの肩越しに見える、太陽の光を浴び、キラキラと光る綺麗な金髪。
「……殿下」
「私の護衛騎士が昨日、大変無礼な行いをしたときいた」
──コイツ……。
どうせアレもお前が命令したんだろ!
さも、自分の部下の失敗を代わりに謝りにきたと言わんばかりのレオナルドの態度に、アイヴィーは心の中で毒づく。
「……いえ、何もありませんでしたし、殿下もサーチェス卿もお気になさらないでください」
「いや、そうはいかない」
気にしてない。だから余計な気は回さないでほしい、というオーラを全身から出していたアイヴィーだったが、そんな事は知らないと言わんばかりに、先ほどより強い口調で食い気味に発したレオナルド。
「来週の夜会には、スペンサー嬢も参加すると聞いている。よければそこで、今回の贖罪をさせてもらえないだろうか? ……君に、受け取ってもらいたいものがある」
「……わかりました」
拒否したところで、どのみち夜会には出席しなければならないことに変わりはなく、どうせ会うのだからと諦めたアイヴィーは、了承する。
その言葉を聞くと、レオナルドはニコリと社交界で今までもよく見てきた笑顔をみせる。そして、これまでのやり取りをすぐ隣で黙って聞いていたグレイソンを連れ、この場から去っていった。
二人の姿が見えなくなったことを確認した後、アイヴィーはひとつ大きなため息をついた。
──一体、何を企んでるんだか……
ぞわり、と少しだけ背筋が寒くなった気がした。