23.再来
ゆらゆらと、柔らかな風に揺られた木々の葉の隙間から、窓を通して差し込んでくる光。授業はとうに終わったこの教室には、窓際にまで追い込まれたようにして立つアイヴィーと、その目の前に居る男以外、辺りに人の気配はない。
真後ろにある窓の外からは、最近よく見るようになった小さな鳥の囀る声がかすかに聞こえる。
「殿下の命令で、また俺がこうしてると思っているのか?」
アイヴィーのすぐ目の前に立ち、見下ろしながらそう言ったのは、無表情のまま目を細めているグレイソン。
現状を理解できず、混乱を隠せないアイヴィーは、目をぱちりと開いたまま、目の前を推しを見上げていた。
アイヴィーの頬に触れているグレイソンの手が、指先が、ゆっくりと動かされる。
「……ッ」
──ど
どうして、こんな事に……⁉
*
時は遡って、数時間前。
学園の階段を上っていたアイヴィーは、前方の廊下へと続く曲がり角に、人の気配を感じて立ち止まる。
「あっ、スペンサー様……」
「マーティンさん?」
廊下側から髪をふわりとなびかせて現れたのは、ルフィーナ・マーティン男爵令嬢。ルフィーナとは過去に数度話した程度であるが、彼女は大人しそうな外見どおり、控えめな性格をしているようだ。
アイヴィーと目が合ったルフィーナは、何か言いたげに口を開いたかと思えば、視線を逸らして口元を押さえる。かと思えば、もう一度こちらを向きなおったりと、どこか挙動不審だ。
「どうかしましたか?」
「え、と……あ」
意を決した、と言ったような様子で、両目をきゅっとつむったルフィーナが口を開いた瞬間。
「お!スペンサー!」
後方から、軽快な声が聞こえてきた。振り向けば……やはり、アルロだ。ちょっと今取り込み中なんだけど、という視線を送ろうとして、ハッと気づくアイヴィー。
「あ、あれ……?」
「?どうしたんだよ」
今の今まで目の前に居た、ルフィーナの姿が綺麗さっぱり消えていた。アルロの様子から、彼が階段を上ってきた位置からは、ちょうど私の陰に隠れていたルフィーナの姿は確認できていなかったようだ。
だって、ルフィーナさんが居たって気づいていたら、アルロがこんなに落ち着いているはずがないもの。
「……それで、何か用かしら?」
アルロの登場で姿を消したのであれば、少なくとも彼女は今、アルロに会いたくはないのであろう。アイヴィーはルフィーナについては触れず、問い掛けた。
「そ、それがさ!あの時、スペンサーにアドバイスもらったじゃん」
アドバイス……?…………あ。あの、お返しが何がいいか悩むアルロを、学園の敷地に放置したアレの事……?
後で恨み言でも言われる覚悟はしていたアイヴィーだったが、当の本人は今目を煌めかせているので、さほど気にしてはいないようだ。
「あの後さ!花と手紙を送ったんだよ。そしたら、これ!」
アルロは嬉しそうに、前回とは違う柄の花の刺繍が入ったハンカチを目の前に広げた。
「これ……」
「俺が送った花!それを刺繍したハンカチをまたもらったんだ!」
…………。
瞳を酷くうるうるさせたアルロを前に、まるで子犬でも見ているかのような気持ちになったアイヴィー。
「そう、よかったわね」
なんか知らんけど、この二人はいい感じに進んでいるのだろうか。いや、でも、だとすれば、さっきの彼女の態度は一体……。外面だけは完璧令嬢の笑みをアルロに向け、そう言ったアイヴィーは、先ほど現れたルフィーナの様子を思い出しながら、思考する。その間も、アルロは何やら花やら刺繍されたハンカチについて熱く語っているようだったが、アイヴィーは右から左へと聞き流していた。
適当なところで上手く会話を切り上げさせたアイヴィーは、当初の目的であった教室へと向かう。
「あ、あった」
アイヴィーは教室に忘れていたブローチを手にする。それは本日、突然留め具部分が壊れてしまったため、一旦胸元から外して置いていたものだ。
チュンチュン
また来てる。
窓際から小鳥の鳴き声が聞こえて、アイヴィーはそちらを振り向く。最近よく見かけるようになった、黄緑色をした綺麗な小鳥。巣でも作っているのだろうか。丁度、この窓の近くの木の枝にとまっているのをよく見る。
アイヴィーは足音を立てないように、ゆっくりと窓際に近づいていく。しかし、そこで背後からガタッと音が聞こえ、アイヴィーは驚いて体を揺らす。
いったい誰だ。
せっかくこの教室に誰もいない今、あの小鳥を傍で堪能しようと思っていたのに。それを邪魔されたムッとした感情を隠しながら、アイヴィーは音がした方へ振り返った。
──……!
教室の扉の傍にグレイソンが立っていた。
驚いて目を丸くしたアイヴィーに、丁度よかった、と言い教室へ入ってきたグレイソン。どうやら彼にはまたアイヴィーから聞きたい情報があるらしい。
話を聞くと、どうやら一年程前に輸入が禁止された品物をいくつか、お茶会を通して主に奥方を利用して売買している者がいるという。
該当する品物を現在保有しているのは、スコット子爵か、カーター侯爵家になるんだけど……。
「だったら、カーター侯爵家だな」
グレイソンは他にも手にしている情報に加え、アイヴィーからの情報を踏まえて、そう結論付けたようだ。
カーター侯爵。確か以前、父と一緒に何度か挨拶をしたことがある。新しいものには目がない彼は、確かに豪快な買い物をするイメージはあったけど、そんな悪行をするような人間では……。
「カーター侯爵家のオーランドさん、ですか?」
「いや、息子の方だ」
あぁ、あのドラ息子か。だったら納得だ。
カーター家の三男マルセルは、昔から問題をよく起こしていたが、最近は特に、その行いが酷く目立つ。そういえば、とアイヴィーは以前、酒に酔った彼が使用人たちに迷惑をかけている姿を見た事を思い出した。
「確か、あのやか──……」
確かあの夜会でも、と言いかけたアイヴィーはその途中で口を噤んだ。
あの夜会で、私はグレイソンのハニトラに気付いていることを彼に知られてしまったのだった。
何となく気まずい気持ちになり、そろり、とグレイソンを見上げるアイヴィー。そこには相変わらず、いつもと変わらない無表情のグレイソンがいた。だが、見下ろしているその顔がほんの少しだけ、ピクリと反応した気がする。
「…………」
「……」
いたたまれない。失言であった。
グレイソンにとっても、自身の色仕掛けがまさか相手に気づかれていたなんて事、羞恥心を抱かずにはいられなかっただろうに……何故私は、それを思い出すような事を口にしてしまったんだ。
アイヴィーは視線を泳がせる。
すると、ふとグレイソンが近づいてくる気配を感じて、ぱっと視線を戻した。彼は表情を変えることなく、感情を読み取ることが出来ないその顔のまま、カツ、カツと一歩ずつ一定の速度で近づいてくる。その様子に、アイヴィーは咄嗟に、本能的にじりじりと後ろへと下がっていく。やがて、背中にコツンと冷えた感触を感じたアイヴィーは、窓際の壁にまで下がりきってしまい、それ以上の逃げ場を失ったことを知る。
視線をグレイソンを通り越した向こう側、教室の扉辺りに合わせる。そんなアイヴィーの左頬に、スッと伸ばされたグレイソンの手が触れる。
「!」
軽く握るような形をしていたその手は、そのままアイヴィーの顔をクイッと持ち上げ、強制的に視線を合わせる。
──ングッ
視線も、表情も、原作どおりの彼のまま、右手をアイヴィーの頬へとつけているグレイソン。その触り方は以前とはまるで違う。以前、校庭で壁を背にハニトラをされた時は、指先まで洗練された紳士のような触れ方だった。
だが、今のこれは……。
グレイソンの手は力なくそのままの形で、指先と爪がアイヴィーの頬に触れている。その手をゆっくりと動かしながら耳元までもっていかれ、思わずビクリと体を揺らしてしまった。
「殿下の命令で、また俺がこうしてると思っているのか?」
──?????
まさにその通りなのだが。
耳元を通り過ぎた手は、そのまま髪へと流れてゆき、きゅっと軽く力を入れたグレイソンの指の間から、アイヴィーの髪がさらりと流れ落ちていく。
今、アイヴィーの目の前には、推しが居る。以前のような作られた表情ではなく、半開きで見下すような冷たい瞳に、横に一文字に結ばれた口……そう、これは原作のグレイソンそのもの。原作通りの推しに、触れられたのだ。
──な、何が、起こっているんだ
ハニトラバレをしてから、原作通りの素のグレイソンと話す機会は、何度もあった。顔や腕を掴まれて、触れられたことも。でも……。
──この動作は、まるで以前のようなハニトラ……!
特に誰を演じるでもなく、素の、原作そのもののグレイソンに以前のようなハニトラをされているこの現状に、アイヴィーは脳内での処理が追いつかない。
何も言葉を発しないアイヴィーにグレイソンは少し表情を歪め、フッと鼻先で笑った。
ゴク……と、また生唾を飲み込んでしまった。
じわじわと胸の奥が熱くなり、その熱はやがて顔にまで上ってくる。
──だって推しの顔が!表情がすごいんだもん!!
正直、グレイソンとの接触は、以前よりは格段に慣れてきていると思っていた。最初のハニトラの時のようにグイグイ来ることもない。素の状態のグレイソンとの接触こそ、アイヴィーにとっては、とてつもなく嬉しいものであった。しかし、それも何度かある接触で、徐々に平然を保って対応することが出来るようになってきていた……はずだった。だけど、
今、私の中にできていた推し抗体は、すべて消し炭になっているだろう。
いや、それも仕方がない。
あの時とは何もかも、状況が違うのだ。目の前の推しは、前世大好きだった原作そのままの推しの姿。その推しが、今、私を相手に、ハニトラを仕掛けているのだ。
──そ、
そんなの、
耐えられるはずがない!!
*
「どうかしたのか?」
皇宮の一室。
そこは本日、アイヴィーにとって嬉しくない、レオナルドとのお茶会に使用されていた。一通りメインと思われる話が終わったところで、どこかいつもよりも重い空気を感じていたレオナルドは、今日はいつもと違うようだが、とアイヴィーに訊ねた。
「……こうやって、お茶会を設けて情報交換を行っているのに、どうしてまだサーチェス卿を差し向けてくるのですか?」
「……え?」
「え?」
少し不機嫌そうに、視線を反らしながら言ったアイヴィーの言葉に、レオナルドは驚いていた。レオナルドはあの日、ヴァネッサに言葉の機関銃で打ち倒された時、自身のこれまでの行いを振り返って反省し、あの日以降、グレイソンに色仕掛けを命じることはしていなかった。
しかし彼女の口振りでは、あの日以降も、グレイソンは何度もアイヴィーに接触し、以前のような色仕掛けをして情報を抜き取っているというではないか。
「グレイソンは、今も君に接触をしているのか?」
「…………殿下の命令ではないのですか?」
レオナルドは、動揺した表情を隠せないまま、あぁ、と今はしていない旨を伝える。
「…………」
シン……とした沈黙が、その場の空気をさらに重くしていた。







