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2.ハニトラと動揺


 アルバ帝国。そのほぼ中心に位置する帝都内には、貴族を中心とした12歳から18歳のご子息御令嬢が通う学園が存在する。ここでは一般的な学問以外に、魔術、剣術などの専門的な分野も学ぶことができ、中には前世で言う所の、大学院のような学生でありながら研究を中心にできる機関もある。


 その学園に、アイヴィーは1年前の16歳の時に入学した。そして同時期に学園に通い始めた、今目の前にいるアイヴィーの推し──グレイソン・サーチェス。

 本来であれば、学園内で授業以外での魔術の使用と抜刀は禁止されているが……


 アイヴィーは、ゆっくりと自身の左後方へと首を傾ける。そこには、肘から指先ほどの長さの、縦に抉れるようにして空いている穴があった。分厚い石で出来ている上に、安全と耐久性を考え保護魔法までかけられているその壁は、ちょっとやそっとでは傷なんてつくはずはない……。が、その校舎の壁には今、穴が開いている。パックリと。


 ツゥ……と首筋を一筋の汗が流れていく。


「この頃、学園内に不審な影を見かけたという情報を多数受けておりまして、人影と気配を感じてここまで来たのですが……」


 グレイソンは壁を見て黙っているアイヴィーを見て、怯えさせてしまったと思っているのか、目線を下げ、気弱そうに話し始めた。


「まさかスペンサー様とは思わず……怖い思いをさせてしまい、申し訳ありません」


 そう言って、頭を下げたグレイソン。そんな彼へとゆっくりと視線を戻したアイヴィーは、顔が引き攣りそうになるのを必死で堪える。


 確かに最近、不審者の情報は自分の耳にも入ってきていた。

 しかし、


──その不審者は、見つけたら確保ではなく、その場で殺すつもりだったの?


 グレイソンが放った剣の波動によって無残にも空いた壁の穴を、もう一度、今度は顔は動かさず目線だけで確認する。


 つい先ほどまで、この校舎裏で涼んでいたアイヴィー。ふと顔を上げれば、すぐ隣の綺麗に管理されている中央庭園の向こう側から、視線を感じた。

 誰かに見つかったか。

 そう思い、この場を去ろうとした次の瞬間。キンッ、という甲高い音と共に、鋭く勢いのある風に襲われたアイヴィー。とっさに身をずらし、音がした方へと振り返る。その視線の先には、慌てた様子で剣を鞘へ納め、こちらに向かって駆けてくるグレイソンの姿があった。


「……」


 いや、そもそも、いくら校舎の影で少し暗い空間だとしても、グレイソンが駆けてきた場所から今のこの場所は、結構はっきり見えると思うのだが…


──あ


 そうか、わざとだ。

 グレイソンは、アイヴィーに接触する為のきっかけを作った。理由はわからないが、グレイソンにはアイヴィーにハニートラップを仕掛けるほどの必要性があるらしい。


──それにしても、避けなかったら顔に傷どころか……大怪我をしていたんじゃ……


 スッと視線を前に戻したアイヴィーは、段々と理解し始めた今のこの状況に、緩みそうになる口をぐっと引き締める。

 手の甲から唇が離されてはいるが、一向に解かれる気配はなくグレイソンに握られたままの自身の手を、そっとひく。


「……いえ」


 精一杯、取り繕った声。

 先程「……へ?」とまのぬけた顔をして、口を小さく開いたまま唖然としていた事実からは逃れられないが、これでも公爵令嬢。前世の記憶が戻ってから今日のこの日まで、前世で培ってきた知識や経験以外の、こちらの世界で必要となる様々な事は、死に物狂いで学んで身につけてきたのだ。特に表情管理と礼儀作法は人一倍頑張ってきた。


 指先から逃げていった手を確認したグレイソンは、さっきまでアイヴィーに触れていた自身の手をギュッと握り、少し寂しそうな顔をみせる。


──んぐっ


 思わず口が、への字になる。


──推しが、か……可愛い!!!!!!


≪耐えろ≫


──原作でも自分の容姿を利用して、対象者から情報を聞き出したとか言われていたな!! そういえば!! 他のキャラクター同士の会話の中で知った事だから、絵で見たことはなかったけど……


 アイヴィーはじっ、とグレイソンを見つめる。


──こんな感じなんだ〜〜!!!!!


≪耐えろ 耐えろ 耐えろ!≫


 ゴクリ、と生唾を飲み込んでしまった。

 き、きこえたか……?


 時間にしてはほんの数秒のことであったが、脳内では本能が暴れまわり、そしてそれを、わずかに息をしている理性が喰い止めてくれているといった状況であった。


 あの時は、妄想と二次創作でのグレイソンのハニトラをみて、ひたすら興奮して転がりまわっていたが……今、その推しの顔が目の前に……ある。


──……無理。







 アイヴィーは前世生きてきた中で、漫画や小説などの2次元にしか深くハマったことはなかった。友人の中には、3次元のアイドルや俳優さん、2.5次元の舞台俳優さんにハマっている子達がいた。何気なく「推しが実際に生きてるってどんな感じ?」と聞いてみたところ、「今この瞬間にも、彼らには私たちは見ることも知ることもできないエピソードが生まれ続けている。そしてそれは、彼らが生き続ける限り、誰が手を加える必要もなく増え続けていく」と言われた事を思い出した。

 正直、何を言っているんだ、と思った。いや、言っていることは理解できても、感覚までは分からなかった、と言うのが正しい。そう……

 今日、この日までは!


──グレイソンが、推しが、生きてる。


 今、私は、推しと同じ世界で生きている。

 手の感触があった。手以外も触れてしまえそうな距離だった。肌が綺麗で、もちろん顔も髪も綺麗で……


 先ほどの推しとの距離を思い出し、じわじわと胸の奥が熱くなる。

 アイヴィーの顔を覗き込むように接近してきたグレイソン。その時、ふわりと……


「……匂いがした」

「は?」


──推しの匂いがした!! アレが! 推しの! 匂い!!


 公式が出しているキャラクターモデルの香水ではない、本物の推しの匂い!!

“推しがつけてる設定の香水”の匂いでも、“推しをイメージして作られた香水”の匂いでもない! 推し本体の匂い!!


 推しの匂いが確かにあった。

 これは本当に、


──ドキドキして心臓壊れるかもしれない。


 部屋の中。ベッドの上で、先程の奇跡と思える状況を思い返しているうちに、その感情を抑えることができなくなったアイヴィーは、奇声を上げながら手足をばたつかせて悶え転がる。


「……ちょっと」


 机に向かって黙々と書き物をしていた部屋の主人、薄い茶髪にエメラルドグリーンの瞳をもつアイヴィーの可愛い可愛い義弟──テオドール・スペンサーが顔をしかめながら、口を開いた。


「だっっっっっって! あの! あのグレイソンが!! グレイソンが〜〜!!!」

「グレイソン……サーチェス卿? 殿下の側近がなんで姉さんに」


──それは私もわからない!


 あの後、口どころか全身が緩み切りそうだったアイヴィーは、それでもなんとか踏ん張り、グレイソンに気にしなくていいと別れをづけ、逃げるように……しかし、優雅な足取りでその場を去った。そして、そのままその足を加速させ、テオドールの部屋に転がり込んだのだ。


「まぁ、お互い好きならいいけど、家には迷惑かけないように上手にやってよね」


 先ほどアイヴィーの身に起こったグレイソンとの事を聞かされたテオドールは、可愛い顔してしれっと冷めたことを言う。


──?


「お互い好きって何を言ってるの? グレイソンが私を好きなわけないじゃない!」

「はぁ? じゃあなんでそんな事したんだよ」

「それが分からないんだってば!」


 あれは確かに、確実に演技だった。


「そもそも彼が誰かに想いを寄せることなんて、あるはずないのよ」

「……どういうこと?」


 グレイソンは顔が良い。顔が良くて、しかもあの時の彼は、まるで想い人へ接するかのような態度だった……すごく自然だったし、あと顔がいいから、普通だったらコロっと騙されてたと思う。

 だけど、


──私は原作の本当の彼を知っている。


「私は、ハニトラをされたのよ」

「ハニトラ……?」



【ハニートラップ - honey trap -】


─機密情報や弱みを握るために、色仕掛けで対象を誘惑する事をいう。単に情報を抜きとったり脅迫する事以外にも、対象を懐柔し、その力を利用する場合もある。

 主に女スパイが男性の対象者に行うことを指すことが多いが、近年ではロミオ諜報員のように、男性側から女性へ行われる場合にも(オタク界隈では普通に)使われるようになった言葉だ。



 意気揚々と人差し指を立てながら説明をしていたアイヴィーを見たテオドールは、先ほどよりもずっと怪訝そうに、ぐっと眉間に深いしわを作っていた。

 だが、そんな事はお構いなしにと考察に入るアイヴィー。


──そう、ハニトラの目的は“情報”や“力”を得るため。


 アイヴィーはこれまでの期間、勉学や鍛錬に励んできた。本来習得すべき令嬢が学ぶ一般的な学問以外に、こっそりと魔力制御と剣術にも力を入れていた。中でも剣術は、そこまで強力というわけでもないが、国に仕える騎士が数人束になって来られる程度であれば、簡単に返り討ちにできるほどである。

 だが、それはまだ誰にも、グレイソンにも知られていないはずだ。そもそも、グレイソンの剣術があれば、アイヴィーの力が必要となる機会なんてまずないだろう。

 だとすれば、考えられるのは“情報”。特に目立った姿は見せておらず、見てくれだけは立派な公爵家の娘でしかない私から得られる情報とすれば……


──公爵家が関わってる何か、を知りたがってる?


 でも、どうしてグレイソンが……

 うむ、と口元に手を当て考えていたアイヴィーは、やがて、一つの結論にたどり着く。


「あぁ……」


 グレイソンは皇太子殿下の側近である。原作を読んでいた頃から、最終回を迎えるまで、何故こんなに皇太子殿下に尽くしてるんだ?と思うほど、殿下に忠実な騎士だった。それこそ、殿下の命令を実行するためなら、どんな非道な行いでも、表情を変えずやってのける程。例えばさっきみたいに、色仕掛けを使ったりも……


──あの皇太子殿下クソガキ……


 推しにそんな事させてまで何を知りたいというんだ!という、皇太子殿下に対する怒りと、推しのハニトラが間近で見れた!という爆発するほどのデカい感情がせめぎ合ったアイヴィー。たまらず、そばにあった枕を手にとりギュッと抱え込んで、広めのベッドの上で右に左に転がり回る。

 完全に奇行であるが、そんなアイヴィーを「いつもの事か」といった様子で咎める事もなく、視線を机に戻したテオドール。


「なんでもいいけど……僕の枕、涎で汚さないでよ」


 対話を諦めたテオドールは、はぁ、と気が抜けていくため息をついて、ゆっくりと自分の作業に戻った。


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