1.前世と推し
「あ……」
心地よい春の風が、美しく梳かれたプラチナブランドの髪をさらりとゆらす。
邸内にある、一際大きな木の下で転んでしまった私は、擦りむいた膝に視線を落とした。
じんわりと、血がにじみ出ている。
運悪く、尖った石の上に体を倒して、胸も打ち付けてしまっている。
痛みが走る胸の真ん中を、小さな手で押さえながら立ちすくんでいた私は、俯きながら息を飲んだ。
「お嬢様!!」
遠くから、メイドが息を切らしながら走ってくる。
私の膝の怪我を確認し、慌てて顔を上げるメイド。胸元の服を片手でぎゅっ、と握りしめたまま固まっている私を見て、真っ青な顔になったメイドは、さらに取り乱し始めた。
大丈夫だから、そんなに焦らないで。
そう伝えるべきだと思いながらも、私の頭の中は、全く別の事を考えていた。
つい先ほどよみがえった、昔の記憶。
──そうだ。思い出した。
かつての私は日本で暮らす、ごく普通な社会人のオタクだった。23歳……高校を卒業してそのまま社会へ出て働いていたので、会社勤めは5年。初任給から少しずつ増えた毎月のお給料は、生活費と貯金を除けば、ほぼ漫画や小説やアニメにゲームなど、自分の好きなことに費やしていた。
水を得た魚、いや、金を得たオタクの毎日はそれは充実していた。
充実、していた。
──あの時、確か……
いつも通り、仕事終わりにコンビニにより、明日の朝ごはんと今晩の軽食を買って、家に帰る道を歩いている時だった。
「やべ、ログボ忘れてた」
このところ続いていた残業のため、時刻は0時を回ろうとしている。最近はプレイする時間が減っていたが、ログインボーナスを受け取るためだけに惰性で続けていたゲームアプリ。それを起動しようと指を動かし、間違えて息をするように開けてしまったSNSアプリ。その一番上にあがっていた情報を見て思わず立ち止まる。
「え……『Heads or tails』、原作者描き下ろし……完全新作……続編、劇場アニメ化……?」
『Heads or tails』
中世ヨーロッパっぽい世界を舞台とした、愛と戦いとコメディと時にミステリーが描かれている大人気漫画。
主に中高生を中心に人気を博していたが、年を増すごと、巻数を重ねるごとにその人気は衰えることを知らず、非常に長く愛され続けた作品だ。つい先日、本作が最終回を迎えた今、連載当初は学生であったファン達は皆、立派な大人へと成長していたほどに!
やばいじゃん!!
あの頃は、お小遣いや少ないバイト代で存分に買えなかったグッズ……大人になって、自由に使えるお金がそこそこ手元にある今、アニメ化!?
それにともなって公式の推しグッズ以外にも、絶対っ二次創作界隈も盛り上がっちゃうじゃん! 薄い本が増える? 今……!? あぁ……神よ……。
無神論者で、激しく凶暴な下り龍が襲ってきた時以外に、神に祈ることなど殆どない人生を送っていた薄情な人間は、現金にも今、神に感謝し、心の中で手を合わせていた。
でも……。
──あの後、どうしたんだっけ。
今すぐ飛び上がり、暴れまわりたいほどの嬉しさと興奮を、社会人としての大切な何かを守るためになんとか抑えつつ、震えながらスマホを握りしめたところまでは覚えている。
しかし、記憶はそこで途切れていた。
「……様! アイヴィーお嬢様!」
聞こえてきた自身を呼ぶ声に、はっとして顔を上げる。
目の前には、先ほどから懸命に呼び掛けてくれていたのであろうメイド──ロージーの姿。
「……ロージー」
「お嬢様! あぁ、よかった」
私の意識がはっきりした事を確認したロージーは、ほっと一息をつくと眉尻を下げ、優しく微笑んだ。
アイヴィー・シャーロット・スペンサー。
それが私の名前。
広大な大陸に君臨するアルバ帝国の三つの公爵家のうちの一つ、スペンサー公爵家、ただ一人の娘。現在、五歳。
「……バカな」
「お嬢様?」
アイヴィーには、自身のアイヴィーと言う名と、スペンサー公爵家という響きに聞き覚えがあった。当たり前の事だが、そうではない。先ほどよみがえった記憶──前世の中で、だ。
そう感じた瞬間、鳥肌が立った。
アイヴィー・シャーロット・スペンサー。
彼女は、『Heads or tails』に登場し、その美しく儚い見た目とは裏腹に、誰よりも強い憎悪と悪意をその胸に秘め、最後の最後で、主人公たちを裏切り、返り討ちにあって死んだキャラクターだ。
*
「異世界転生かぁ……」
あの後、心配するロージーに連れられ、医者から手当てを受けた。自室へ戻った現在は、ロージーと他のメイドたちには部屋を出てもらい、一人にしてほしいと伝えてある。
シン、と静まり返った部屋の中。アイヴィーは仰向けに大の字で、ボスンッとベッドに沈み込んだ。
前世、オタクとして生き生きとして生きていたアイヴィーは、「異世界転生」というジャンルを知っていた。
そんなに熱狂的にハマってはいなかったけど、アニメ化した作品はいくつか観ていたし、同じオタク友達の間では「悪役令嬢」モノがジャンルとして確立するほど流行っている事は知っていた。
でもまさか、自分がこんなことになるなんて……いや、転生ってことは死ん……?
完全に前世のすべてを思い出せたわけではないアイヴィーは、瞳を瞑りぐっと眉間にしわを寄せる。
それにしても、なぜ、よりによって、アイヴィーなんだ。
作中最後で死ぬことになるアイヴィーは、表ではその美しい見た目と儚さから、多くの人を魅了していた。
礼儀作法から孤児院への慈善活動、誰しもが地上に舞い降りし聖女ではないかと崇めるほど、完璧な行いをしていた。
ただ、その見た目から連想させられるのか、体が弱いという噂もあり、事実、社交界などの表の場から姿を消す期間が時折あった。
しかし、その表に姿を表していない期間、アイヴィーは邸宅のベッドでおとなしく寝ていたわけではない。裏社会や秘密組織を利用し、主人公やその仲間たちを陥れていたのだ。
表ではさも味方のようにふるまい、裏では悪魔の所業。まさに『Heads or tails』──表か裏か。この作品のタイトルを代表するキャラクターの一人であった。
先ほど、この作品のストーリー説明がふわふわしていたのは、もともと連載当初は一話や数話で完結するギャグ漫画であった事が関係する。個々で問題が起きては解決していく、ギャグベースのストーリー。しかし、人気が出てくるにつれて、各キャラクターの過去が掘り下げられ、長期のシリアス展開が増えていった。
そう、この作品は、“単発ギャグ漫画が、人気が出ていく過程で長編シリアス漫画に変わっていった漫画”の代表的な一つである。
その作品で、おそらく初めてと言っていい、ちょっとしたシリアス展開が訪れたのが、「スペンサー公爵邸潜入捜査編」である。
一部の領地がスペンサー公爵の不正により困窮している事を知った主人公が、民を救うためにこの邸宅を訪れる。そこで、スペンサー公爵は主人公たちに裁かれ、解決……となるはずであった。しかし、のちにスペンサー公爵は物語中盤ほどで出てくる黒幕に操られ、利用されているだけだったという事実が判明する。
公爵家はスペンサー公爵を亡くしたことにより、その基盤を大きく揺るがした。まだ幼かったアイヴィーと義弟ではどうすることもできず、すがるように手を取った大人たちに利用され、ボロボロになる。大好きだった父を失い、周りには騙され、アイヴィーの心は次第に曇っていき、やがて憎悪が膨れ上がっていく。
アイツが来てから……アイツが来たせいで、アイツのせいですべてが狂った。
──絶対に許さない。
アイツが奪っていったように、私もアイツのすべてを奪ってやる。
後に残された公爵家の事情など知るはずもなく、事件を解決したと陽気に去っていった主人公たちが、再びこの地を訪れた時、アイヴィーは、その歪み濁った感情を美しい容姿で抑え込み、主人公たちに近づき復讐を始めるのだった。
そして、最終回手前の「過去の過ち編」で主人公たちが、公爵家の事件と黒幕の存在を知り、自分たちへの復讐に燃えるアイヴィーに気付くことができたのは、彼女の義弟──テオドール・スペンサーが、彼女ではなく、主人公たちの手を取ったからである。
同じ苦しみを味わっていた、唯一の理解者だと思っていた義弟も奪われたと感じたアイヴィーの心は完全に壊れ、すべてを破壊しようと力を暴走させた直後、彼女は背後から突き出された剣で、心臓を貫かれた。血を吐き言葉にならない嗚咽を漏らしながら、アイヴィーは後ろを振り返る。
彼女を殺したその人物は、私の最大の推し──グレイソン・サーチェスであった。
──っはーーーーー! あの時の推し、めちゃくちゃかっこよかったんだよなぁ……!
ベッドの上で、両手で顔を覆いながら、足をばたつかせるアイヴィー。
アイヴィーを突き刺した剣を抜いてから、血振りをするグレイソンが描かれている小さなコマはスクショして保存したほどだ。漆黒の整えられた髪のグレイソンは、燃えるような紅蓮の瞳で、動かなくなったアイヴィーを一度静かに見下ろした後、すぐに主君の元へ去っていく。その姿が、なんとも無慈悲で……しかし、顔が本当に良くて……興奮した。正直、あの作者の性癖はこのグレイソンに詰め込まれているのではないか?とにらんでいるほどである。
いや、そうじゃなくて。それよりも、
確か、主人公たちが初めて公爵家に来るのは、雪が降り積もる寒い冬だった。今から約一年後……
「よしっ」
声とともに、アイヴィーは勢いよくベッドから立ち上がった。その表情は先ほどまでとは打って変わり、瞳の奥は強く光を宿している。
──まず、父の不正の原因を叩き潰そう!
そうすれば主人公たちもこの地には訪れず、父が死ぬこともない。
──あと、義弟とはできるだけ良好な関係を築こう!
復讐心に燃えなければ、義弟を悲しませることもないし、なにより裏切られたくない!
そして、私は生き延びて……
──今作の最大の推しである、この国の皇太子殿下の側近で騎士、〈グレイソン・サーチェス〉をこの目で拝もう! できるだけたくさん!
そう決意したアイヴィーは、その足で部屋をかけてゆき、未来を切り開く扉を開いた。
*
──時は流れて
≪12年後≫
「よかった、傷がなくて」
「…………へ?」
そよそよと穏やかに風が流れる、校舎裏。
昼下がりのため日陰となっているこの場所は、生い茂る草以外に特に何もないため、普段からあまり人は訪れない。少し離れたところにある窓からは、生徒たちの話し声がかすかに聞こえてくる。
呆然と立ち尽くしたまま、気の抜けた声を漏らしたアイヴィー。その前には、漆黒の髪をなびかせ、燃えるような紅の瞳を持つ、推し──グレイソン・サーチェスが、眉を少し下げ、ホッとした表情でアイヴィーを見つめていた。
「顔に、傷をつけてしまったかと」
そう言いながら、グレイソンはそっと右手をアイヴィーの頬に寄せる。思わずビクッと体を揺らしたアイヴィーは、一度ゆっくりと瞬きをした後、もう一度、目の前の推し──グレイソン・サーチェスを見つめる。
──?
頭の上に疑問符が浮かぶ。
グレイソンはアイヴィーよりも背が高いため、見下ろす形となっている。だが、その顔はアイヴィーを優しく見つめ、まるで愛おしい者を本気で心配しているかのようだ。まさに、優しい紳士の姿である。威圧感はない。
「……スペンサー様?」
何とも言えないマヌケな顔で、しばらくの間を無言でいたせいか、先ほどよりぐっと顔を近づけて、覗き込むように迫ってくるグレイソン。
──ち、近い近い近い近い!
「……っ」
「申し訳ありません」
グレイソンは、先ほどまでアイヴィーの頬を触っていた右手を、するりと、ゆっくり袖を伝いながら下ろしていく。そして、手の甲に触れ、そっと握った。
──なんで、こんな事してるの……?
先ほどから頭の中をめぐっている混乱の原因について考えてみる。目の前の、この推しの行動を。
私の記憶の中の推しは、あまり言葉数は多くなかった。常にクールに、必要最低限の行動で最善の成果を出す優秀な人間だった。こんな風に優しく微笑んだり、人に触れるなんて事は、あるはずがない。
──いや、違う。
彼は常に冷静に、残酷に……無慈悲だった。目的のために利用できるものは、最低限に最善に……なんでも利用するタイプだ。
──つまり、今のこの行動は演技。
グレイソンは握ったアイヴィーの手を、そっと自身の口元へもっていく。瞳を閉じ、軽く唇を触れさせたあと、ゆっくりと瞼を開けた。奥に熱を灯している瞳で、アイヴィーをしっかりとらえている。
「お許し、いただけませんか?」
その姿勢は、まるで愛する人に許しを請う紳士のように。
その視線は、まるで狙いを定めた獣のように。
「……どうして」
──どうして
私、推しにハニトラされてるの……!?