(9)
「モッズコートの奴がうろついています。とりあえず中に入りましょう。中でも電話できますよね」
現場監督は迷惑そうな顔をして、もう一度手で追い返すようなしぐさをする。
「いいから、戻れ。中じゃ話出来んのだ」
何か会社からの特殊な命令があるのだろう。とにかく中に入れの一点張りだった。
俺は中から『モッズコートの男』を監視することにした。
無言で事務所に戻って、中から外を見つめる。
「どうしたなぁ」
佐藤さんが俺の様子をみて声をかけてきた。
「何か嫌な予感がするんです」
「どんな」
「さっきモッズコートの男がいたんです。あいつがこの騒ぎの元凶だと思うんです」
「海に流れ着いた男が動き出したって、やつなぁ」
佐藤さんは窓際まですすんで、あちこちに視線を走らせる。
「いねなぁ」
「あれっ?」
「どうしたぁ」
「監督が、現場監督がいなくなってる」
さっきまでたっていた位置にいないだけかも。俺は事務所内の窓に沿って歩き、どこかに現場監督がいないか探す。
「監督がいないってぇ。誰かぁ、見てねかぁ」
と、佐藤さんが大声を出す。
「んぁ、ああ?」
事務所に入った作業者が互いに顔を見合わせて、首を横に振り、窓の外を見る。
「やけに人がすくないな」
「そうだな。そんな気すっな」
「人が少ない……」
俺にはこの町の日常が分からなかった。どれくらいの時間に、どんなひとが、どこを歩いているのか。自然な状態なのか、不自然なのか。
「現場監督を見ませんでしたか?」
「そこで携帯で電話してたなぁ」
いや、だからその後だ。ちょっと目を離したすきに、消えてしまったのだ。いったいどこに消えた……
「キャー」
山岡さんの叫び声。そして、ドアがガタンと閉まる音がした。
「どした!」
佐藤さんが山岡さんに駆け寄る。
山岡さんはしりもちをついて床に座っている。膝が少し震えている。
「か、監督っ」
山岡さんは事務所入り口の扉を指差す。そこに監督の姿はない。
「いねけど……」
佐藤さんが山岡さんの指さすところを理解して、扉に近づいて、上から見下ろす。
「いたっ!」
ガラッと扉を開けると、俺が呼ばれる。
「橋口さんっ、監督いた。手伝って」
事務所のドアに背中をつけて、足を延ばしている監督がいた。
窓から遠くを見ていたために、真下にいた監督に気付かなかったのだ。
近くには血だまりが出来ていた。
「手首から先がない」
佐藤さんがそう言うと、俺は目の前が白くなって、見えなくなっていき、気が遠くなっていった。
「誰か包帯! おい! どうした、どうした橋口!」
「……さん。……ぐちさん。……橋口さん? あっ、気が付いたのね?」
まじかに山岡さんのビビッドな赤の口紅が見えた。俺は今どこにいるのかが分からずに、慌てて体を動かした。
ゆらっと床が動く。その揺れを山岡さんが両手で抑えてくれる。
「えっ?」
「ごめん、あんまりいい机じゃないから、揺れるよね…… あれ? もしかしてどうなったのか覚えてないの?」
俺はこめかみに指を当てて出来事を思い出す。
「現場監督…… 監督が外で血を流して倒れていて」
「そうよ。同じタイミングで橋口さんが倒れたの」
「で、ここは?」
「事務所よ。事務所の長机の上。ほら、同じように監督もあそこにいるでしょう?」
山岡さんが指さした方を見ると、同じように長机の上に毛布が敷かれ、その上に現場監督が横たわっていた。
「救急車を呼んでるんだけど…… ちっとも来ないの」
「もう一度電話かけろ、どうなってるんだ」
「かけてるって、つながらなくなったんだ」
「警察も消防も出ないぞ」
「ネットもつながらない」
現場監督の腕に巻かれた包帯は真っ赤になっている。
「あの、何分ぐらいたったんでしょう?」
「うーーんと」
山岡さんが右手の内側を顔に向け、時計の文字盤を読んでいる。
「三十五分、四十分ぐらい、かな」
「!」
山岡さんが俺の顔を見て手を顔の前で払う。
「何、この匂い」
「生ごみというか…… 腐臭?」
ガタガタと長机が振動する音が聞こえる。
「ちょっと、橋口さん」
「俺じゃないです…… か、監督を見てください」
長机に横たわっている現場監督が、全身が痙攣するように小刻みに振動している。
「監督? 大丈夫ですか?」
周りにいた作業員が気付き、監督の体を抑える。
「AEDを、監督の様子がおかしい」
ガタガタという振動が激しくなるばかりだった。
「あ、あれ…… 」
俺は長机の上で上体を起こした。そして、監督の顔を指差す。
「蛆が、蛆みたいのが目から……」
涙のように目の周りから白くてうごめく虫が這いだしてくる。
充血した赤い目の周りから、白い虫が次々と出てくると、顔の上に広がっていく。
「監督! 監督!」
「AEDを持ってきたぞ」
「振動で机から落ちちまうぞ、押さえつけろ」
「早く、AEDを」
「痛っ!」
監督が一人の作業員の腕にかみついていた。
「痛いっ、痛い!」
「監督、監督っ!」
何人かの作業員が監督のあごを開いて、なんとか腕を離すが、噛まれた作業員の作業着は破れ、見えている腕は、肉がそげていた。
「きゃぁーーー」
山岡さんが頭を抱えて、後ずさりする。
「痛いっ、痛いっ……」
そう言って、腕の肉をかみちぎられた作業員は、腕を抑えている。
「包帯、包帯」
「AEDを動かせ」
AEDの機械音声が事務所に鳴り響く。
『電気ショックが必要です。充電しています。体から離れてください』
チャージしていることをわからせるような音が鳴り響き、
『電気ショックを行います。三、ニ、一』
監督の体が、釣り上げたばかりの魚のようにのたうつ。
「えっ?」
AEDのパッドの周りから、黒い煙が上がり、焦げ臭い匂いが広がる。
「か、監督?」
監督は長机の上で上体を起こした。
こぼれ落ちる蛆虫。
血まみれの口を開き、食いちぎった作業員の肉を吐き捨てる。
「きゃあーーー」
「に、人間じゃない。もう人間じゃない」
「落ち着け」
「監督っ! 俺が分かるか?」
作業員が問いかける。
『心電図が変化しました。電気ショックを中止します』
監督は、AEDの電極を胸から引きはがそうと、胸に爪を立てる。
メキッと嫌な音がすると、その爪は胸の皮と肉をいっしょに削り取ってしまう。
「監督、監督ぅーーー」
はだけたシャツから除く胸は、そげた部分以外も、つややかな肌色から青黒く腐ったようにくすんでいく。
「もう、こいつ監督じゃないなぁ。叩き出さねぇと」
全員が振り返る。
「何言っているんだ、佐藤」
「これは監督じゃないなぁ。ゾンビってやつなぁ。皆も映画とかで見たことあるろう?」
佐藤さんはどこからか持ってきた『さすまた』を手にし、監督の腹に向けていた。
「佐藤、ゾンビなんて人が考えた想像の産物だ。作り物なんだよ」
「じゃあ、監督はなんていうかなぁ。生きてる人間の目から蛆わくかぁ」
「……」
周りにいる人間は反論出来なかった。その静寂を破り、山岡さんが叫ぶ。
「監督は追い出してっ!」
その声で、作業員の意思が統一された。
先回りして事務所の出入り口を開け、全員が監督から距離をとる。
佐藤さんがさすまたを使って、長机から突き落とす。
『んぉお……』
もう監督の声、人の言葉ではない。何か異形のものの呻きになっていた。
「みんなどけぇ」
佐藤さんは一切の容赦なく監督だった者の腹を押し込んでいく。開いた扉から、監督を追い出すと、言った。
「そらしめろぉ」
扉の近くにいた作業員が素早く扉を閉めて、鍵をかける。
しばらくすると、監督が扉の外で立ち上がる。
さっきより顔の形が崩れている。左目が飛び出し、ぶらぶらと左右に揺れている。蛆は口からもあふれだしていた。




