(7)
「だといいんですけど」
寮に戻るまでの間、俺は佐藤さんからその制服の女の子の話を聞いた。
この地域が大きな津波にあった時、彼女は偶然コンサートの為、都市部に出かけていた。大きな地震でコンサート自体も中止。交通機関が混乱する中、必死になって歩いて帰ってくるとここに元からあった住宅や町は流され、瓦礫の山だったそうだ。彼女はすべてを失ったことを受け入れることができなかった。いつからか、波が運んで両親が帰ってくると信じて海岸にやってくるようになったそうだ。
「帰ってくる両親は疲れてきっているから、こんな高い『防潮堤』があったら、また海に流されてしまう、というのが彼女の考えなんだぁ」
佐藤さんが当時のこの町の写真を見せてくれた。とにかく砕け、折れ、壊れた木材が敷き詰められ、遮るものもなく平らにならされてしまっていた。
空爆か、大きな怪獣が踏みつぶしたと言われても信じてしまうだろう。
「まあ、これを見ると、そういう考えになるのも分かる気がします」
「とにかく、夜はノックされても鍵を開けてはだめだ……」
「北の工作員が…… ですよね」
「で、ちゃんと明日も仕事にきてくれなぁ」
「はい」
俺は会釈をし、手を振って佐藤さんと別れた。
そして寮という名のプレファブの家に入った。
「はぁ……」
部屋の真ん中に毛布が敷いてあり、そこに寝袋がある。そして部屋の端に携帯の充電器がつながっている。それだけだった。
俺はコンビニから買って来た飲み物を開け、口をつけた。冷蔵庫はないから、ぬるくなっても飲めるものか、一度に飲み切る量で買ってくるしかない。
スマフォを充電器につないで、いつものようにゲームを起動しようとした。
「なんだ、アップデート?」
ゲームは立ち上がらず、アプリの更新画面に移ってしまった。俺はスマフォを床に置くと、寝袋の上に横になった。
となりの部屋の方から、物音が聞こえた。
昨日より大きな音で、何か家具が倒れたような大きな音だった。窓を開けてみようと、体を起こすと、窓に人影が映った。
「誰?」
窓は擦りガラスになっていて、ぼんやりと形が見えるだけだった。
「えっ?」
と急に色が付いた人の姿になった。後ろから押されたのか、ガラスに顔を押し付けてきたようだった。
その人は、ガラスにべったり顔を押し付けながら、下に消えていった。
「な、なに?」
俺は窓際まで行ったものの、開けるか躊躇していた。人が倒れたのなら、助けなければならない。しかし、北の工作員がいるのだとしたら、そのまま窓から引きずり降ろされて、つれていかれてしまうかもしれない。
「迷うことなんてない」
俺は窓を開けた。
北の工作員なら、こんな窓を閉めていたところで連れ去ってしまうだろう。何を心配する必要がある。人を助ける方が優先だ。
窓を開けて、下をみる。窓に顔を押し付け、下がっていったのなら、そこに倒れていてもよさそうだった。
部屋の明かりで見る限り、窓の下には誰もいないようだった。
窓から体を乗り出して、よく下を見てみる。
何もない。
左右、周りを見回しても、人影すら見えない。
「大丈夫ですか?」
誰に言うでもなく、俺は外の空間に向かってそう声を出した。
返事はなかった。
窓を閉め、また寝袋の上に横になった。
スマフォを手に取るが、まったく更新が進んでいない。
「どうなってんだ……」
スマフォをもとに戻して、天井を眺める。
大体、なんでノックされてもドアを開けるな、って言ってたんだ……
開けたって誰もいなかったじゃないか。
ドンドン、と今度は入口から音がする。
来た…… 佐藤さんはこのことを言っていたのか。
けれど誰がノックしているんだ。
「誰です?」
俺は外に聞こえるくらい、大きな声を出した。
扉に近づき、ドアスコープから外を確認しようと覗き込む。
「……」
ドンドン、と扉に置いた手に直接響いてきた。
スコープからは何も見えない。外が暗闇で、見えないのか、何かでふさがれているのだろうか。
ドンドン、扉が叩かれている。
「誰ですか?」
ドンドンドンドン、俺は怖くなって扉を離れる。音は続いている。
「なんなんだよ…… 誰だよ……」
これを開けてはいけないって、どういうことなんだよ。一体扉の外に何がいるんだ。北の工作員? 本当だろうか。さっき窓に顔をぶつけてきた人が苦しんでいるのだとしたら。本当に開けなくていいのだろうか。
「誰です? 言葉分かりますか?」
ドンドン、ドンドン、と扉は叩かれ続けている。
俺は『開けない』と決めた。
もう、知るか。その人が助からなくても、俺の問いかけに答えないお前がわるい。
何度も何度も心の中でそう叫びながら、俺は寝袋の中に入った。
北の工作員だとしたら、扉をこじ開けて入って来て、寝袋ごと連れ去るだろう。
それならそうしてくれ。
俺は扉の音を無視し続けた。
いつの間にか静かになって、そのまま俺は寝ていた。
部屋が朝日で明るくなったころ、俺は入口のドアスコープを見た。
隣の部屋が見えていて、辺りには誰もいなかった。
扉を開けるが、やっぱりそこには誰もいない。
「!」
何も異変がないわけではなかった。扉に、扉の中央に、血のような跡があった。何度も何度も叩いたような血のしみ。
「もしかして」
窓側にも何かがあるかもしれない。俺は地面を注意深く見ながら、寮のプレファブの周りを歩いて、反対側の窓に向かう。
「うっ……」
昨日は気付かなかったが、窓と窓の下に血が流れたような跡がついていた。
何者かがこの周囲にいたのは間違いない。けれど……
佐藤さんを呼ぶか、事務所に出社してきたら現場監督に相談するか。
佐藤さんは寮のはずだが、部屋の番号を聞いていない。やみくもにここで声を出しても、他の人に迷惑だ。
考えた末、七時の出社を待って現場監督に話をすることにした。
事務所の前で待っていると、現場監督がやって来た。
「おっ? えっと……」
「橋口です。監督。ちょっと俺の寮の部屋を見て欲しいんですが」
「部屋を? いいけど事務所の鍵を開けないといけないんだ。ちょっと待って」
鍵を開けると、だれが事務所の番をしているわけでもないのに、そのまま俺の方に戻って来た。
「事務所は大丈夫ですか」
「もう時間だからね。誰か来るよ。こんな田舎の建築現場に盗みに入る人もいないし」
俺は現場監督を連れて、寮のプレファブに戻って来た。
「ほら、見てください。扉に血の跡が……」
「?」
何か監督の反応がおかしかった。
もしかして、俺にしか見えていないのか、と思い扉を見る。
「えっ……」
何もない。叩いたような跡すらない。
「なんかの日差しの具合だったんじゃないの? 大丈夫。血の跡なんてないから」
「ちょっと待ってください。もう一つ、窓の側にも」
現場監督は、俺がプレファブを回り込むのを、ゆっくりと歩いてついてくる。
「ない……」
「防潮堤に日差しが反射して、何か影を作っていたんじゃないかな。もし血の跡があるなら、地面にも何かあるだろう? ほら。ここにはそんなものもないだろう」
「いや、確かにみたんです」
「いきなり引っ越しして、慣れない町で神経が高ぶってるんじゃないのかな。ここは何もない田舎町だよ。長くこっちで仕事しているが、血の跡なんて見たことないから」
「……」
ポン、と肩を叩かれ事務所の方へ行くよう促される。
いや、確かにあった。
俺がいない間にふき取ったということも考えられる。見た時にスマフォで写真を撮っておくべきだった。
何も言えないまま、俺は現場監督と一緒に事務所に戻った。
事務所に入ると、少し騒がしかった。




