(19)
不意に、さっき佐藤さんが言った言葉が思い出される。
『橋口はいいとして、犀川をにがしちゃいかんな』
「どういう意味だ」
今わかるのは、橋口、つまり俺は男で、犀川さんは女だということだ。
山岡さんをそうしたように、犀川さんともそういう行為に及ぼうとしているのだろうか。
何か、違う。
ペーパーで口元をふき取り、捨て、吐しゃ物と一緒に流した。
衣服を整えていると犀川さんの声がした。
「キャァーーー」
俺は慌ててトイレを飛び出した。
「犀川さん、どうしました!?」
まさか佐藤さんが犀川さんに無理やり……
店内を見回して、犀川さんを見つける。店の内側の方を見つめているが、いままで通り服は着ているし、誰かにからまれている様子はない。
レジカウンター内には佐藤さんがいて、同じ方向を見ていた。
「どうしたんです?」
佐藤さんがちらっと俺を一瞥すると、また同じ方向に向き直った。
「見れば分かる」
商品棚の上に、頭の先が少しだけ見えて消える。
それはすこしずつ犀川さんの方に向かっている。
「ゾンビ?」
犀川さんにゆっくりと近づきながら、その視線の先を確かめる。
右肩、右足、左肩、左足。手はだらりと下げたまま…… ゾンビ。ゾンビの歩き方。
胸の大きな、女性のゾンビ……
「山岡さん!」
「駄目だっ!」
俺はレジカンター側から襟を引っ張られた。
「もう手遅れだ」
「なんで……」
俺は後ろで引っ張っている佐藤さんに訊ねる。
「なんで山岡さんがゾンビに……」
「とにかく、こっちに入れ」
俺は慌ててレジカウンターに上って降りた。
俺と佐藤さんで犀川さんもレジカウンター側に引っ張り込んだ。
山岡さんは、ゆっくりとやってきてレジカウンターに体を当てたまま、手を伸ばす。
俺たちはタバコの並んだ棚に背中をつけるようにしてその手を避ける。
「山岡さんをゾンビにしたゾンビが、店内にいるってことだ……」
「いや、そうじゃないようだ」
「えっ? どういうことですか」
山岡さんはこのレジカウンターを越えてはやって来れないようだった。
「犀川を追いかけて俺たちが外に出た時に、山岡も外に出たんじゃないか」
「わからない。なんでそんなことがわかるんですか」
「店の中にゾンビはいない。なのに山岡がゾンビになるとしたら、そうだったと推測するしかない」
俺は曖昧な推測に命を預けるつもりはなかった。
「うわっ!」
山岡は俺の方を追いかけてきた。しかし、レジカウンターを乗り越えないから、伸ばした手にも限界があった。
「?」
俺は山岡がスマフォを握っていることに気が付いた。
「……」
まさか、これを、俺に?
俺がそっと山岡の持つスマフォに手を伸ばした。
「危ない!」
目の前に、ものすごい勢いでモップが振り下ろされた。
思わずタバコの棚にのけぞって、間一髪当たらなかったが、山岡の腕はモップで叩きおられ、手首から先がなくなっていた。
「橋口くん、ゾンビと手をつなぐつもりなのか?」
「……いえ。助かりました」
「……」
「このまま山岡を放置しておくわけには行きませんよ」
佐藤さんはガスボンベに視線を移す。
「焼こう」
「ここで焼いたらまずいです。外に誘導しましょう」
「どうやって?」
俺はさっき犀川さんが出て行った時に使った鍵を持ち上げて振った。
「山岡はなぜか俺を追ってきています。俺が外に出れば俺を追いかけてくるはずです。外に出たら、バーナーで焼いてください」
「お前はどうする」
「周りの様子を見て、戻ってくるから開けてください」
「……わかった」
佐藤さんがガスバーナーの組み立てをしているをの確認すると、俺は佐藤さんに背を向け、気取られないようにスマフォを探した。
山岡は必死に俺の方へ手を伸ばしている。
俺はそのまま床にしゃがみ込んだ。
「(あった……)」
聞こえないように言うと、スマフォを手にして、ロックを解除した。
「橋口! 橋口、そろそろいいぞ」
「はっ、はい」
俺はコンビニ袋を手にして、立ち上がった。
「焼けた状態でコンビニに戻ってこないように、十分焼けて、動けなくなるまで外を逃げ回ってから帰ってこい」
「はい」
俺はコンビニ袋を持ったまま勢いよくレジカウンターを飛び越えた。
山岡は俺を追って動き始める。右肩、右足、左肩、左足。ゆっくり、一歩一歩。
オートドアのカギを開け、鍵を投げ返し、オートドアを手で押し開けた。
「さっきも言った通り、ゾンビが十分焼けて、動けなくなってから戻ってこい」
「はい」
俺はそう言ってコンビニを走り出た。
山岡は躊躇せずに俺を追ってくる。右肩、右足、左肩、左足。手首から先が叩き落された部分から、赤黒い体液が流れ出る。
綺麗だった髪は、水分がないせいなのか、バサバサに膨らんでいて、アチコチに広がっている。
「(山岡さん……)」
俺は追ってくるそんな山岡との距離を保ちながら、コンビニを離れていく。
もう、大丈夫、と思われた頃、ガスバーナーの炎が上がった。
「焼けちまえ!」
佐藤さんの狂ったような声が聞こえた。
「燃えろ燃えろ……」
まず衣服が燃え、その乾いた髪に燃え移った。
あたりが山岡で燃え上がる炎で、明るくなった。
肉まで燃え始めた臭いが広がりだすと、佐藤さんがボンベとともにコンビニに戻っていった。
俺は佐藤さんがこっちを見ていないことを確認して、スマフォを操作した。
「なぁぁあ…… 」
喋れないと思っていた山岡が、声を出した。うなり声と言うべきか。
燃える山岡の肌から、赤黒い液体が流れ始めた。
「木酢液?」
その液体が白い煙を出し、それに火が付くと、勢いよく燃え上がった。
「あぁぁあぁ……」
うなり声のような、痛みを伴う声聞こえる。
「(山岡…… さん……)」
もうゾンビでしかなかったが、俺は身をよじりながら燃えていく、山岡さんの姿を見つめながら、涙が流れた。
物陰でしばらく過ごした後、俺は周りを見て、大丈夫だと判断した。
俺は、焼けて動けなくなった山岡を回り込んで、コンビニへ戻った。
オートドアを開けようとすると、開いたところから、バーナーの炎が飛び出してきた。
「!」
とっさに避けると、しりもちをついてしまった。
「佐藤さん! 何をするんです」
俺はコンビニの扉でバーナーで狙いをつけている人物にそう言うと、反論してきた。
「橋口。お前、ゾンビに噛まれただろ」
目は俺を睨んでいたが、口元に笑みが見えた。
「なっ! 何を根拠に」
「動揺しているな。入れないぞ。ゾンビと疑わしきやつは入れない」
佐藤はオートドアを閉めようする。俺はそのオートドアの僅かな隙に指を突っ込む。
そして、足先を突っ込んで、閉められるのを回避した。
「佐藤。お前こそ、俺が邪魔なんだろ」
「当たり前だ。ゾンビが敵でなくて、なんだって言うんだ」
「違う! そういうことじゃない。お前が山岡さんに何をしたか知っているぞ」
俺は下げていたコンビニ袋からスマフォを取り出した。
「?」
「これは山岡さんの『手』と山岡さんのスマフォだ。さっき手でロックを解除した」
「ゾンビの戯言なんて誰が聞くか」