(15)
佐藤さんはとにかく持っているものを全部奪われたそうだ。お金は当然だったが、濡れてしまって動かないスマフォ、服も取られた。
残ったのは下着だけだった。代わりに着るものを与えられたが、布の質も縫製も、酷い出来のものだった。
「彼らは、とにかく働き手が必要だったらしい。俺は助けてくれた船の人たちに応えるため、必死に働いた」
佐藤さんは、しばらくの間、北の国で何事もなく暮らしていた。しかし、春先から夏までの長い冷害に、農作物が軒並み不作なった年、最初にみた薬液を使う場面に出会った。
「腐った肉。蛆がわいたようなものまであった。もう捨てるしかないような魚も混じっていた。こんなものをどうするのか、と聞くと『食べる』という。いくらひもじくても、こんなものを食べたら死んでしまうと言ったが、彼らは首を振った」
食力不足。農作物の不作が、根本的な食糧事情を更に悪化させていた。北の国では、そんな不作の年でなくとも、腐った魚や鳥牛豚に日常的に薬液を使って、それらをフレッシュな肉に見せかけ、食料にしている。そもそもの穀物の生産が低く、飼料に回すものない。破棄された魚、鳥、牛、豚の再利用をすることで、ぎりぎりの食料を確保していたのだ。
「薬液はなんだ、と俺は訊ねた。『これで食えるようになる』とは言ったが、薬液の本当の効果を知る者はなかった」
薬液を使った後、佐藤さんは言われるまま、薬液を役所に返しに行った。
その時、港の街の役所の多くの人間が、軍人の接待の為に出払っていた。
使った薬液を持ったまま、役所の人に金庫を開けてもらうと、極秘と書かれた資料をみてしまった。
「これは…… と思った。急に軍人から声が掛かって、その役所の人間が出て行ってしまうと、俺はその資料を読み始めた」
偶然だったが、その資料には、漁村が閉鎖された事件のことが書いてあった。
その港の街の元になった『漁村』が閉鎖されたきっかけは、この薬液が、車両事故で海洋に流出したことが原因だと書いてあった。
「『かいよう』って、つまり、海に?」
「貴重な薬液が流れ出てしまったことも問題だったが、流れ出た先にも問題があった」
「海に問題が?」
「そうだ。海から死体がよみがえったんだ」
「海から? 肉をフレッシュにする薬で?」
「話は単純じゃないんだ」
曰く、食料事情がそんな状況である北の国では、燃料も非常に貴重だった。冬の寒さをしのぐための燃料を、死体を焼くために使うことが出来なかった。だから人が死ぬと火葬をしないで土に埋める。海が近い地域では海に流しているのだそうだ。
「その海に薬液が流れ込んだ」
「うぇ……」
「たまたまだった」
「どうしてそんなことが……」
「相当な偶然だった、と俺も思う。海で薄まれば、普通はその薬液の効果は出ない。トラックが運んでいたのは濃縮度が通常の50倍まで高められたものだった。それに海に流された人のからだは、魚や小動物たちの餌となり、破壊、分解されてしまう。フレッシュになったからと言って、人の形でないものがいくら動いてもどうということにはならなかった。たまたま、死んで流したばかりの遺体がその海にあった」
「そういう非常に珍しい条件がすべてそろったということですか」
「そうだ」
動きだした死体が、更に動く死体を作っていく惨劇が起きた。
北の軍事力を使って、街を一つ潰して、その動き出す死体の連鎖を食い止めた。
その後、その薬液の副次的な効果、つまり人をゾンビ化する効果が判明したのだ。
「そのことは、さっそく北の将軍の耳に入った」
ミサイルを作ったり、ミサイル発射実験をすれば国際的な援助を受けられなくなる。だが、この特殊な薬液なら、それとなく敵国をむしばみ、自ら弱まっていくだろう。死体のリサイクルができるこの『薬液』は、多くの死体が発生する戦争地域には武器として高く売れるはずだ。
「その薬液を進化させたものが、俺が捕まえられた船で使用された『薬液』だったのさ」
「!」
佐藤さんが船の網にかかったのと同じように、その時期大災害の時の遺体を利用して北の『薬液』の実験が盛んに行われたようだった。
「だが、この時点では、その死体がどこへ行ったか、どういう処分をされたかは分からなかった」
けれど、加藤さんは漁港近くの大きな『病院』に疑念を持っていた。
「役所で見た書類に書いてあった実験施設の特徴と、漁港付近の病院の特徴が妙に一致する」
そもそも漁港付近の人口は少ない。これほど大きな病院施設がある必要性がないのだ。将軍の気まぐれ人気取りの為に建てたとしても、その『病院』は大きすぎた。
「周辺人口に対する病院の大きさ。それに病院と港を何度も行き来する、大きな鉄製の荷台をつけたダンプも不自然だった」
ある時、佐藤さんは、思い切ってダンプの運転席と荷台の隙間にもぐり込んだ。
「何を乗せているのか確認したかったんだ。それはすぐにわかった。地下に入るダンプが、病院を出てくる時には、荷台にはうごめく死体が詰められていた」
「……」
「そして、港に着く船にそのゾンビたちを移していた。ゾンビは、おそらく海へ」
さっき波打ち際で見た風景に話がつながった。
「まさか、今、浜に打ち上げられているゾンビは……」
「そうだ。港から南西にいったあたりで海へ流せば、海流にのってこのあたりに打ち上げられるだろう。レーダーにもひっかからない、そして上陸して活動を始める。姿形は、この国の人間だから、倒すのにも心理的な抵抗があるのも有利に働く。そして、生きた人間を噛んで増殖する。完璧な兵隊だよ」
「……」
女子高生は首を振った。
「ウソよ…… お母さんは死んでない…… そんな兵器になんか……」
「さっき流れてきた奴らをみたか? 顔を海につけたまま波に揺られ続けているなんて、考えられないだろう。あれで生きていられる訳がない」
「おかあさん!」
いきなり叫びだす女子高校生の頬を、佐藤さんは両手で挟んだ。唇が歪むほど強く。
「黙れ。これは真実だ」
佐藤さんがうつむいた。
「言い忘れたが、この場所だって安全じゃない」
山岡さんが訊いた。
「ここに食べ物とか飲み物は?」
「ない」
佐藤さんが即答すると俺は、
「そんな…… そうだ、コンビニ。閉まらないうちに行きましょう」
「何のんきなこと言ってるの?」
山岡さんがたしなめるように言う。女子高校生は、佐藤さんを睨みつけたままだ。
「ここにいてもじり貧なのは間違いない。籠城するにしてもコンビニの方が都合がいいだろう」
佐藤さんが立ち上がる。
「えっ……」
山岡さんは驚いたような表情で言った。佐藤さんが立ち上がれと合図する。
「全員で行くぞ」
俺は女子高校生の縄を解いた。
「君、なんて名前?」
「あやみ」
「へぇ。あやみちゃんて言うんだ。いい名前だね」
あやみちゃんは表情を変えなかった。
「どうせ名前と顔がかけ離れているとか思っているくせに」
俺は首を横に振る。
「そんなこと思ってない」
俺が言った言葉など、気にも留めずにあやみちゃんは佐藤さんたちの後を追った。出遅れてしまった俺は、走って追い付く。
「可能な限り近くまでこの空間で近づいてから、地上に出る」
「ガスボンベとバーナーは?」
「持っていく」
俺は佐藤さんに手伝う、と伝えると、ボンベを一本持ってくれと言われた。
「あやみとか言ったな。俺たちがボンベを持っているからと言って妙な行動をとればもう一度手足を縛ってこのなかで待機してもらうぞ」
「……」
あやみちゃんは何も言わずに佐藤さんを睨みつけ、首を縦に振った。
ボンベを引きずりながら、地下空間をコンビニの方へ南下する。
ずっと続いているかと思えた地下空間も、突然、詰め込まれたコンクリートの塊が前方を塞いだ。
「そこまでだな」
この地下の空間は『防潮堤』を完成させる時には埋められてしまう部分なのだ、とその時思った。
「よし、じゃあ、ここから上に上がるぞ。橋口、まずお前がでて周りを確認しろ」
「えっ……」
頬が引きつるのを感じた。
最初にこの金属の蓋を開けて外に出ると、ガスボンベもバーナーも地下にある状態だ。金属の棒は海岸に置いてきてしまった。ということは、武器らしい武器、助けてくれる人たちすらいない状態で地上に放りだされることになる。
佐藤さんが憑かれたような顔をして、ボソリと言う。
「ちいさく蓋を開けて、スマフォだけ出して、まず周りを確認しろ」
「なるほど」
「ゾンビ達だって、まさかここから人が出てくるとは思わないだろう」
佐藤さんに肩車されて、蓋を少しずらす。
スマフォをカメラモードにして、隙間から出し、左右に動かしながら状況を確認する。
誰も…… いない。
「大丈夫みたいです」
「よし、紐をもって上に出ろ」
佐藤さんに紐を渡され、蓋をずらして地上に上がる。
大きな『防潮堤』の根元だった。コンビニへ行くための道も近い。
紐を『防潮堤』に上る為についている『コ』の字型の足場に巻き付け、引っ張った。