(10)
何も判断できないのか、監督は閉まった扉のガラス面に顔をぶつけてしまう。
赤黒い血と、白くうごめく蛆がガラス面を垂れていく。
「ガ、ガラスを割られたら……」
山岡さんが気味悪げに指を差してそう言った。
事務所の中にいる作業者は皆、一斉に佐藤さんを見た。
「……」
ドダっ、と扉に体をぶつける音がする。この程度では扉は破れないだろう。逆に扉にぶつかって、監督の方の体が崩れていくように思えた。
ドダっ、とまた音がする。
理性も思考もなく、無駄だと思わずに何度も同じことを繰り返しているのだ。
俺は耐えられなくなって口を開いた。
「佐藤さん!」
全員の視線が俺に集まる。
「あなた、監督のこと何か知っていますね?」
絶対に全員がそう思っていたはずだ。だから山岡さんの疑問の後、全員が佐藤さんを見たのだ。
「……いやぁ、しらねぇ。映画で見るゾンビそっくりだぁって。それだけだぁ」
いや、違う。昨日、俺に外に出るな、と言ったのはこのことを知っていたからじゃないのか。
俺はそれを言い出そうとした。
「佐藤さん、佐藤さん、俺、おれ、さっき監督に噛まれちゃったんだけど……」
腕を抑えている作業員から、一斉に人が離れていく。
「えっ…… 大丈夫だよね? 佐藤さん。なんか言ってくれ。佐藤さん……」
鳥肌がたったように、ブルっと、震えが来た。
映画とかだと、こんな風にゾンビに噛まれた奴も、しばらくするとゾンビになるからだ。
ゾンビと人間の中間状態の者を見捨てるのか助けるのか。ここでどう判断するのか。俺は恐怖した。
「佐藤さん」
「追い出そう。もう助からねぇ」
「佐藤さん」
「連れて一緒に逃げるんだ。まだゾンビじゃない。助かる可能性はあるんだから」
「佐藤さん」
「逃げよう、まだ外には監督一匹しかいない。こいつを連れて逃げれる」
「佐藤さん……」
噛まれた作業員は何度も、すがるように佐藤さんの名前を呼ぶ。
「まだ慌てるような時間じゃない」
一人の作業員が割って入った。手を横に広げ、抑え込むように下にての平を動かす。
「まだゾンビ化してない。監督が何故ゾンビ化したかわからないんだから、こいつが試金石になる」
「つまり、こいつがゾンビ化したら、監督も誰かに噛まれた、ってことだ。これからは噛まれないように気を付ければいい。そうじゃなかったら…… どうやってゾンビ化するのかが分からなくなる」
「……」
佐藤さんは黙っていた。了解といういみなのか、ここで何か話すべきではない、ということなのか。肯定とも否定とも取れない雰囲気だ。
「確かにその通りだと思う。この人は先に口を縛っておけば噛まれない」
「病原菌とかだったら、こいつの近くにいたらうつるかもしれないぜ」
「とりあえず縛って、出入り口の近くに置いておこう。ゾンビ化したら真っ先に追い出せるように」
全員がうなずいたようだった。
腕をかまれた作業員は他人を噛めないように『さるぐつわ』をされ、手足も縛られた。作業に使った手袋と一緒に、事務所の出入り口の方に置かれた。
「たふけてうれ、たふけてうれ…… しにたくない」
誰もその言葉に耳を傾けることはなかった。
事務所の中でスマフォを操作する作業員が増えた。
「あれ、つながらない……」
「いや、見えてるけど……」
「さっきから内容が書き換わらないから、やっぱりつながってない」
俺もスマフォを見てみる。電波状況自体が、アウト、つまり圏外だった。
「監督は会社に連絡とってたよな」
「とってたぜ。救急車もくるはずだ」
「外に出ないと電波届かないのかな」
「事務所でもスマフォの電波は入ったはずだ」
十名ほどの作業員がスマフォを見せ合いながら騒いでいる中、佐藤さんが事務所内を移動し、階段を上がっていくのを見た。
俺も追いかけるように階段を上る。
「橋口かぁ」
佐藤さんは振り返らずにそう言った。
「はい」
佐藤さんは窓の外を指差している。
階段を上りきると、佐藤さんの横にたってその指差す先を見つめた。
「鉄塔?」
「高圧線の鉄塔だぁ。赤い布みえっか?」
確かに鉄塔の途中から赤い布が垂れ下がっている。
「ほんとだ、赤い布が下がってますね」
「ショートしたんだ。なんの理由かは、わかんねけど」
ショート? あんなでっかい高圧線がショートするって……
「落雷の時みたことあるんだ。あの赤いのが垂れた時は、高圧線は動いてね。あれが動いてねと、近くの電波塔も動いててね」
「うごいてね、って動いてないっていう意味ですか」
「そういう意味だぁ。スマフォが圏外表示なのはそういうことだぁ」
俺は振り返って、階段下にその事実を知らせようとした。
「んっ、んぐっ……」
佐藤さんが急に後ろから俺の口を手で押さえた。
「だめだぁ。そういう伝え方すっとパニックになるぅ。パニックになれば助かるものも助からなくなる」
「うううう……」
俺はバタバタと手を動かすが、佐藤さんは微動だにしなかった。
「言ったこと理解できるまで手は離さねぞ」
「んんん、んん……」
俺は横目で佐藤さんの顔を見た。
今は、この人を信じるしかない。佐藤さんは、このゾンビに対する知識もあるに違いない。俺は勝手にそう思っていた。
「落ち着いたけぇ」
俺は首を縦に振った。
手を離してくれると、俺はもう一度窓の外を見た。遠くに高速道路も見える。
「北に向かう車はないですね。たまに南に行く車がありますけど」
「ゾンビ化がどれくらい広がっているかが問題だなぁ。進む方向を間違えると、あっという間に取り囲まれるなぁ」
背筋が寒くなるのと感じた。
ここがゾンビ化の中心地、ということすら疑っているのか。
もし都心側から始まっていて、今日の朝、このあたりに来たのだとしたら、逃げる方向は北だ。
ここから始まったとか、北から下がって来ていたのだとしたら、逃げる方向は南。
ここから始まったのなら、逃げないで助けを待つ、という手もある。都心側から始まっていたら、助けは期待できない。
「……携帯はだめですけど、事務所のパソコンはどうなんですか?」
「……」
「下に行って確認してみます」
「さっきのことは言うなぁ」
「はい」
俺は階段を下りて事務所の様子を見た。
十人くらいの作業員は各々にスマフォを触っていたが、一人、また一人と事務所のパソコンに集まり始めた。
「パソコンのネットはどうですか?」
山岡さんが俺の方に寄って来た。
「今から試してみるところ」
何か外部ネットを見る専用のブラウザを起動して、パスワードを打ち込んでいる。
「業務中に何でもかんでも勝手に外部サイトを見れないように制限かけてあるのよ」
しばらくすると、応答があって、画面が書き換わった。
それは俺も知っている有名なポータルサイトだった。トップページに、天気とニュースが掲載されていて、有名なキーワード検索サイトと並んでインターネットの代名詞だった。
「なんだ、ネットは動いているじゃないか」
「携帯会社の障害情報を表示してみて」
パソコンの前に座っている作業員が、パタパタと文字を打ち込む。検索結果が表示された。
「三大携帯会社は…… 別に障害情報掲載していないな」
「……けどつながらないぜ」
「停電とか、災害の情報はないのか」
もう一度、ポータルサイトに戻って、ニュースを調べる。政治家の不適切発言、芸能人の薬と結婚と離婚。ブレーキとアクセルの踏み間違えによる交通事故。俺たちが置かれた状況に近づくようなニュースは載っていない。
「地方ニュースにしろよ」
全国のニュースではなく、地方固有のものを見ていく。