解答篇
「分かったよ、イーゼル盗難事件の犯人が誰なのか」
喫茶店を辞し、しばらく無言で肩を並べていた二人のうち碓氷がおもむろに口火を切った。
「本当か。しかし惜しかったな。一番話を聞かせてあげたい人物はもうここにはいない」
おどけた調子で両肩を上下させる蒲生に、碓氷は「いや」と首を左右に振る。
「どちらかといえば、蕪木さんよりも話を聞かせたい人がいるけどね」
「ほう。誰だよ」
碓氷は不意に歩みを止めると、数メートル先で彼を振り返る男をじっと見つめた。
「どうした、碓氷。立ち話も悪くないが、ここはちと冷えるぞ」
「――王様の耳はロバの耳、って話を知っているか」
アスファルトの上に佇立したまま、碓氷は語りかけるような口調で言った。蒲生は怪訝な顔で友人を見ていたが、首を竦めると「題名くらいなら」と返す。
「ある国に、いつでも欠かさず大きな帽子を被った王様がいた。王様は時折、床屋を城に呼びつけて散髪を頼むこともあったが、王に呼ばれた床屋の者はなぜか誰一人として帰ってくることがなかった。
あるとき、一人の床屋が王様の髪を切るため城に向かった。いざ髪を切るために王様の帽子を取った床屋は、思わず声を上げそうになる。王様の耳は、動物のロバのように長い形をしていたからだ。
驚きを隠せない床屋に王は尋ねた。『私の耳は、長すぎると思うか』。床屋は答えた。『いえ、普通だと思います』
『そうか。だが、今日見たことを他言すればお前の命はないと思え』
王様と約束を交わした床屋は、無事城を後にする。しかし床屋は、自分が見たことを誰かに言いたくて仕方がない。そのうち、床屋はお腹が苦しくなるのを感じた。医者にかかると『言いたいことを我慢しているとこうなるのだ。言えないことがあるのなら、せめてどこかに穴を掘ってそこに向かって叫ぶがいい』と助言される。
床屋は早速、森の中に穴を掘るとその穴の中に『王様の耳はロバの耳』と叫んだ。お腹も元通りになり気が晴れた床屋は森を去る。
それから幾日かが経ったとき、床屋が掘った穴に一粒の種が落ち、やがて一本の木が育った。たまたまそこを通りかかった羊飼いが、その木で笛を作った。すると、作った笛から『王様の耳はロバの耳』と聞こえてきたんだ。羊飼いはその笛を町中の者に聞かせてやった。この笛によって、王様の耳のことが町人たちに知れ渡ったわけだ。
王様は、羊飼いと穴を掘った床屋を城に呼び出した。羊飼いも床屋も弁明したが、広まってしまったものはどうしようもない。王様は『皆に知られたことでかえって隠す必要もなくなった』と、町人の声をそのロバの耳で熱心に聞くようになったとさ」
絵本の読み聞かせのような調子で締めた碓氷に、蒲生は乾いた音で拍手を送る。
「それで? その王様の耳の話が一体何だっていうんだ」
「別に気まぐれでこんな話をしたわけじゃないさ。この寓話こそが、イーゼル盗難事件の真相なんだ」
「まったく。お前の話はいつも突飛というか、飛躍が過ぎるぞ。順を追って説明してくれ」
両手を広げながら、碓氷へと近づいていく蒲生。
「簡単なことさ。蕪木画家は王様で、そして蒲生――きみが穴を掘った床屋だったんだ」
碓氷の二歩手前で立ち止まり、蒲生は両目を細めて友人を凝視する。
「蕪木画家のアトリエからは、絵を立てかけるためのイーゼルだけが盗まれていた。イーゼルはオランダ語でezelと書き、この言葉が意味するものは――ロバ」
画家の甥は、無言で両肩を小さく上げてみせた。
「さっき、女の子の蝶を蕪木さんがベレー帽で捕まえたときに閃いたんだよ。最初からずっと気になってはいたんだ、蕪木さんのベレー帽の被り方。耳下まですっぽり覆い隠す被り方がね。彼も、王様と同じようにちょっと長くて先が尖った耳がコンプレックスだったんじゃないのか」
「さあ。俺は、伯父さんがベレー帽を取った瞬間をよく見ていなかったから」
はぐらかす蒲生に碓氷は小さく笑いかける。
「きっと、お節介な誰かさんは蕪木さんに言い続けていたんじゃないかな。あなたが思っているほど、回りは耳のことを気に留めてなどいないと。でも、元来頑固者――あくまで僕の想像だ――であった彼は聞く耳を持たなかった。だから、犯人はアトリエから蕪木さんのイーゼルを盗み続けることで、彼にメッセージを送っていた。『王様の耳はロバの耳』の話になぞらえてね。もっとも」
碓氷は鼻を啜り、くしゃみをひとつする。
「肝心の本人が、ロバの耳の物語を知っているかは謎だけれど」
「イーゼルがオランダ語でロバを意味していて、蕪木伯父さんの耳と『王様の耳はロバの耳』の話が偶然似ていたから、教訓としてイーゼルを盗んだなんて。お前の想像力の逞しさには脱帽だよ」
シニカルな笑みを湛えながら、蒲生はエア帽子を取り去る仕草をする。
「聞かせてあげないのか。なかなかウィットに富んだ仮説だと思うけれどね」
「さあ。俺の気分次第だな」
碓氷はコートのボタンをきっちり閉じると、蒲生の隣に並んで歩き出した。
「きっと、もう蕪木さんのアトリエからイーゼルが盗まれることはないと思うよ」
「どうして」
「困っている人がいれば、王様は迷わず帽子を脱ぐってことが分かったからさ」
蒲生は友人を一瞥すると、暮れなずむ空を見上げ口笛を吹き始めた。調子はずれのメロディだが、どこかで誰かがその音色に耳を澄ませているかもしれない。
問題篇のラストが強引過ぎたかな……。
ちなみに、イーゼルは日本語で画架ともいうのだそうです。