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問題篇


「お噂はかねがね伺っています。大学時代からのお友達だそうで」

 ずり落ちかけた丸眼鏡を指で押し戻して、蕪木(かぶらぎ)画家は碓氷を見据えた。甥である蒲生の友人として相応しいか、品定めするような鋭い目つきである。

「まあ、画家といっても老後の趣味で描いているだけだよ。ね、蕪木伯父さん」

 蕪木の隣で珈琲を啜りながら、蒲生は朗らかな声で言う。蕪木は気を悪くした様子もなく「ああ」と短く返した。

 朝夕の冷え込みは厳しさを増しながらも、日中空から降り注ぐ日差しはまだぬくもりを感じられる。喫茶店の窓から差し込む陽光に目を細めながら、碓氷はブラインドをそっと下ろした。

「今日は、折り入って僕にお話があるそうで」

 幾分緊張を帯びた声の碓氷に、大学来の友人である蒲生は「そうなんだよ」と大きく頷く。

「この一ヶ月、伯父さんのアトリエでおかしな窃盗事件が発生しているんだ」

「セットウ? って、物が盗まれるあれか」

「他に何があるんだよ。しかも、どうして盗むのか理由がよく分からない物が被害に遭っているんだ。ですよね、伯父さん」

 外国人との仲介に立つ通訳者のように、蒲生は碓氷と蕪木画家を交互に見やる。無愛想な画家はまたしても「ああ」と溜息のような返事をひとつ。

「その、盗む理由がよく分からないものって」

 とりあえず蒲生に顔を向けて問うた碓氷だったが、答えたのは蕪木画家であった。耳下まで深く覆うベレー帽の位置を調節しながら、画家は低い声で告げた。

「イーゼル――絵を立てかけるためのスタンドです」



「私のアトリエは、自宅の庭を突っ切って、庭と雑木林とに挟まれた場所に建っています。アトリエといっても、そうですね、八畳ほどの広さの部屋が一つあるだけの小屋を想像してください。キッチンやトイレなんてものもありません。純粋に絵を描くためだけに建てたものですから。

 自宅がある方角を北とすると、東側に出入り口の扉が一つと、同じく東向きに窓が一つ。東側には小道といいますか、遊歩道みたいな通り道がありましてね。車は通行禁止ですが、時折近所の子どもたちが雑木林に遊びに行ったり、住民が散歩したりするために使っているようです。

 アトリエの説明は、この程度で充分でしょう。では、盗難事件の話に移りましょうか。

 今からちょうど一ヶ月前のことです。その日、私はいつものように昼過ぎ頃、自宅から庭を抜けアトリエへ向かいました。昼頃から夕方にかけて、私はアトリエで作業をするのです。定年退職してから暇を持て余していましてね。現役時代はあれほど貴重に感じていた休みも、仕事を辞め毎日が夏休みになると手持ち無沙汰なのです。それで、昔趣味にしていた絵を――いえ、商売にもならないものばかりですよ。金儲けする気なんて一切ありません。暇を埋められたらそれでいいのです。死後に芸術界で名が知られたら、などと有名画家みたいな夢想もしておりません。

 話が逸れてしまいました。そう、あの日もいつも通り、私はアトリエに向かいました。扉の前に着いたとき、おやと思いました。扉は小さな南京錠でいつも施錠しているのですが、その南京錠が破壊されていたのです。嫌な予感がして、私はアトリエの中へ入りました。そして、部屋中を隈なく調べました。真っ先に浮かんだのは、近所の子どもたちがいたずら目的に侵入したのだということでした。あるいは、ホームレスが雨風や寒さを凌ぐために入り込んだのか、盗人にでも目をつけられたのか。

 室内を捜索した結果、一つだけ分かったことがありました。私の嫌な予感は的中していたのです。アトリエからは、あるものが盗まれていました。

 ええ。最初にお伝えした通りです。キャンバスを立てかけるために使うスタンド――イーゼルが一つ、何者かに盗まれていたのです。

 とはいっても、正直一度だけであれば『やられたか。だが仕方あるまい』と諦めることもできたでしょう。別に、金銭や財産を保管しているところではないのです。老後の気まぐれで建てたアトリエに、盗まれて困るようなものなど置いていませんからね。

 しかし、話はこれで終わりではありません。その日を境に、私のアトリエに定期的に盗人が通うようになったのです。しかも、盗むものはいつも決まったもの――そう、イーゼルに限られているのです。盗人は、何を考えているのか絵を立てかけるためのイーゼルだけをアトリエから盗み続けているのです」



「イーゼルだけを盗む泥棒、ですか。確かに奇妙な事件ですね」

 腕を組んで椅子の背もたれに身を預ける碓氷。

「お尋ねしますが、その盗まれたイーゼルというのは、高級だったり特別だったりする素材で作られた希少価値のあるものなのですか」

「一般的な画材店で売られている、何の変哲もない木製のイーゼルですよ」画家は淡々とした声で応じる。

「盗難被害は一ヶ月前から続いているということでしたね。今まで被害に遭ったのは、すべてごく普通のイーゼルなのですか。一つでも盗まれるような価値のある品はなかったのですね」

「イーゼルはすべて同じ画材店で購入しているものですが、一つとして値の張るものはありません」

 蕪木画家は頑とした口調で断言する。甥の補足が入った。

「イーゼル以外には、失くなっているものは何もないんだよね、伯父さん」

「蕪木さんが描かれた作品や、他の画材道具なども無事だったのですか」

 木で鼻を括ったような画家は、「ええ」と機械じみた動きで頷いた。碓氷は思案するように顔を伏せていたが、

「不躾を承知のうえでお訊きしますが、誰かに恨まれたりとか、嫌がらせを受けたりする心当たりはありませんか」

 恐る恐る口を開いた。蕪木はゆっくり二度瞬きをすると、不意に丸眼鏡を外す。上着の胸ポケットから薄汚れたハンカチを取り出して、慎重な手つきでレンズを拭き始めた。

「ありませんな。もともと私は、人付き合いが得意ではなくてね。トラブルを起こすほど特定の者と深く関わった覚えもない」

 付き合いの浅い者から恨みを買うはずもない、と言いたいのだろう。

「家族の中に悪戯好きな子どもがいるとか、親族関係者はいかがですか」

「自宅にいるのは、私と妻の二人だけです。子どもたちはみな成人して方々に散っています。彼らが帰ってくるのは、盆や正月くらいのもの。他にうちを訪ねる親類もおりません」

 碓氷は「そうですか」と小さく頷くと、戸惑いの色を宿した目で蒲生をちらと見た。碓氷の友人は肩を竦めると、

「一ヶ月前に窃盗事件は始まり、今まで盗まれたイーゼルの数は合計八個。お陰で伯父さんは、ほとんどのイーゼルを新しく購入するはめになったんだ」

「もしかして、犯人は蕪木さんが年季の入ったイーゼルを使っているのを知っていて、新しいものに取り替えるようわざと盗みを働いたんじゃないのか」

 画家の男は両目を微かに見開くと、対面の碓氷をまじまじと見やる。

「そりゃないな。アトリエから盗まれたイーゼルの中には、つい最近購入したばかりの新品もあったんだから。ね」

 甥の言葉に、蕪木は無言で首を縦に振る。碓氷は珈琲に角砂糖を投入しながら、

「蕪木さんがイーゼルを購入した画材店はどうですか。実は蕪木さんが買い取ったイーゼルの中には、画材店の者にしか分からない値打ちのあるものがあった。だが、一度売ったものを返してほしいなど言えるはずもない。だから、蕪木さんを尾行してアトリエの場所を突き止め、隙を見てイーゼルを盗み出した」

「私が入手したイーゼルはすべて、購入先の画材店の店主が手作りしたものです。その意味では確かに一点ものかもしれませんが、店主は『いつでも大量生産するから好きなだけ買いに来い』と笑っていました」

 蕪木は渋い表情で答えた。つられたように碓氷も眉間に小皺を寄せる。

「では、店主は自分が作ったイーゼルのどれかに、何か高価なものを忍ばせていたというのはどうでしょう。イーゼルは木製なのですよね。木材の空洞部分にたとえば宝石なんかが埋め込まれていて、うっかりそのイーゼルを蕪木さんに売ってしまった」

「あれだ。ロンドンが舞台の某探偵小説にある、売り物のガチョウの体内に盗まれた宝石が入っていた話みたいだな。そんなミステリな結末だったら俺の大好物なのに」

 冗談よりも本気に近い口ぶりで、蒲生が口を挟む。画家は困惑の面持ちでゆるりと首を振ると、

「そんな小説じみた話があるものでしょうか」

「ああ。つい蒲生の話に付き合うノリで口走ってしまいました。今のは聞かなかったことにしてください」

 宙に舞う埃を払うように顔の前で片手を振る碓氷。

「待て。俺もひとつ思いついたことがあるぞ。きっと、盗人は伯父さんが絵を描けなくなることが目的だったんだよ」

「どういうことだ」

 しかめ面を甥に向ける蕪木。蒲生はにんまりと唇を吊り上げると、

「伯父さんのアトリエは東向きに窓が一つあるんだよね。たとえば、伯父さんのアトリエを気に入って、毎日こっそり近くまで訪れる何者かがいた。そいつは、アトリエの外観に惹かれてスケッチの対象にしていたんだ。だが、アトリエの窓にいつも入り込む人影がある。キャンバスに向かう伯父さんの姿がね。ほら、伯父さんは作業するときの定位置があるって話していたじゃない。そこが、ちょうど外から見ると窓枠の中に伯父さんが入る位置だったんだ。犯人は、窓に映る伯父さんの影がスケッチに邪魔だった。だから、伯父さんが作業の定位置から動かざるを得ない状況を作り出すために、イーゼルをアトリエから盗み出し伯父さんが絵を描けないようにした」

「でも、蕪木さんはイーゼルが盗まれる度に新しいものを購入しているのですよね。だったら、結果としては意味がないと思うけど」

 碓氷は冷静に反論した。前半は蕪木に、後半は蒲生に向けた言葉である。

「それに、蕪木さんが絵が描けなくなるようにするなら、画材道具である絵の具や筆を一切合財盗んだほうが手っ取り早いんじゃないかな――蕪木さんは、イーゼルなしに作業をすることはないのですか」

 画家は顎を撫でながら虚空を見上げ、

「描けないこともありませんが、イーゼルがなければ壁に直接キャンバスを立てかけることになりますからね。椅子の高さを考えると不便ではあります」

「地べたに座って描くわけにもいかないしね」

 蒲生は苦笑しながら珈琲カップを持ち上げたが、そこで再び嬉々とした声を発した。

「そうだ、画材店だよ。伯父さん、いつもイーゼルを買う画材店にさ、妙齢のお嬢さんがいるじゃない」

「妙齢ってお前、古めかしい表現だな」

 蒲生の伯父は丸眼鏡をくいと押し上げる。

「もしかすると、伯父さんのイーゼルを盗み出しているのは彼女なんじゃないのかな」

「また、どうしてあの子がそんなことを」

「きっと、伯父さんに気があるんだよ。それで、伯父さんがもっと画材店に訪れるようにするためにイーゼルをアトリエから持ち出したんだ。伯父さんに会いたいがために、ね」

 悪戯っぽく片目を瞑る甥に、老境に差し掛かった画家の男は「まさか」とつっけんどんに言い返す。だが、その引き締まった口元は思わず緩みそうになるのを必死に堪えているようにも見える。魔法薬を鍋で煮込む魔女のように珈琲をスプーンでかき回していた碓氷は、「浮き足立った若者よりも、知性と落ち着きを兼ね備えた年上を好む女性も増えているそうですよ」とそれとなくフォローした。

 その後も、イーゼル盗難事件を巡る討議はしばらく続いた。「お金のない貧しい子どもたちのために、蕪木画家のアトリエからはイーゼルを、他の画家の家からは別の画材を盗み出して未来の絵描きたちに配り歩いているのでは」という碓氷のハートウォーミングストーリーには、「義賊気取りだ」と蒲生がそっけなくダメを出す。「盗人は、イーゼルだけを展示する展示会を開こうとしている」という蒲生の珍説には、「ガチョウの話のほうがまだ面白みがあるね」と碓氷がにべもなく却下した。不毛な論争を二人が繰り広げるのを、渦中の人物である画家の男はただ黙って聞いていた。


 結局、イーゼル盗難事件の結論は下されないまま、「妻が待っているのでそろそろ」という蕪木の言葉を合図に三人は席を立った。出入り口付近で会計の順を待っていると、最後尾である碓氷の背後から「あっ」という短い声が上がる。同時に、碓氷の横をひらひらと飛んでいく影があった。

「チョウチョウ! わたしのチョウチョウ」

 まだ舌足らずな声を張り上げながら、碓氷の足元を幼い少女が駆けていく。その肩からは、プラスチック製の小さな虫かごがぶら下がっていた。

「今の季節に、虫取りか」

 財布の中身を確かめていた蒲生が「どうした」と友人を振り返る。喫茶店の扉に向かって羽ばたいていく黄色い蝶を、碓氷はただぼんやりと眺めていた。

 と、扉のガラス窓にとまった蝶の上から、素早く何かが覆いかぶさった。逃げ行く蝶を追いかけていた少女が、ぴたりと扉の前で立ち止まる。骨ばった手が、窓ガラスに押し付けていたベレー帽をそっとふたつに折り曲げた。そのまま、蕪木画家は少女の前でひざまずく。

「ほうら。逃げないように、ちゃんと入れておきなさい」

 蒲生と碓氷の前では仏頂面だった男は、目尻に皺を寄せながら少女の虫かごに鮮やかな黄色の蝶を戻してやった。三つ編みの少女は破顔すると、「おじちゃん、ありがとう」と元気に礼を言い店の奥に待つ母親のもとへ走っていく。画家は緩慢な動きで立ち上がると、折り曲げたベレー帽を広げ耳まですっぽりと被りなおし店の扉をくぐった。

 ガラス窓の向こうに遠ざかっていく影を見送りながら、碓氷はひとつの確信に辿り着いていた。

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