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それからというもの、俺は積極的に外に出て、自らフェンスの補強作業に指示を飛ばすようにした。それも例の『宗次郎』が汗を流して働く姿を見るためだった。クリスがことあるごとに、「隊長のその初恋拗らせた中学生みたいな行動にトリハダが…」などど腕を擦りながら話かけてきたが、無視する。何がきっかけかは分からない。しかし、俺が『宗次郎』に好意を寄せているのは明らかだ。しかもそんな初恋なんて清らかなものでないことは、夜毎自分の分身を慰めることではっきりと自覚していた。
この胸の内を彼に吐き出してしまえばいいのだろうか。彼の胸ポケットに刺さっている翡翠色の万年筆の輝きが俺を後押ししているような気もする。しかし、捕虜である彼にとって、俺の好意は「命令」に等しい。彼の心が無くとも、ただ身の内に凝る欲を擦り付け合うだけの関係にだって俺はできるのだ。願わくば、身分も立場も何のしがらみのない対等な関係において、『宗次郎』という清らかな人の心に触れたかった。
そうやって彼に何も伝えられないまま、時間ばかり過ぎていった。
◇◇◇
あのジリジリと照りつけるような夏が終わりに近づいた頃、ようやっとフェンスの修復が完了した。その間にも、身寄りのない子らが僅かな隙間を見つけてはキャンプに侵入し、菓子などをとっていた。しかもそれに紛れて、ダラムの捕虜が酒などをくすねていたことも発覚して、ここの責任者としては頭が痛い。それを逐一、上に報告していたらなんと視察が来ることになった。事の流れ次第では、俺の首が飛ぶかもしれない。俺なりに色々と努力してきたつもりだが、上に逆らえないのは軍属である以上仕方がない。あと3日。俺は今まで以上に気を引き締めてキャンプの運営に当たることにした。
その日の夜。
宗次郎がクリスと共に俺の所にやってきた。クリス曰く、何やら渡したいものがあるらしい。クリスには席を外してもらい、彼と2人きりになる。相変わらず彼は地に膝をついていたが、顔は俺の方を向いていた。そして拙いながらも、俺にこう話しかけてきた。
「戦争の始まる前、私は祖国で染め物の職人として働いていました。まだ見習いではありましたが。あの万年筆のお返しになるかは分かりませんが、役に立つと思って、」
と彼から差し出されたのは柔らかな藍色に染め上げられた手ぬぐいだった。どうやって材料を、いつこんな作業を、など色々な思考が駆け巡ったが(どうせクリスが一枚噛んでいる)、なんとも言えない感情が足元からぐわっと脳天まで駆け上がり、気づけば彼をきつく抱きしめていた。
首元から香る彼の涼やかな体臭に、俺の分身が浅ましく反応を示す。それに気づいて彼は身を強ばらせたが、それをあやすように、彼の小さな背をゆっくりと撫でる。たったそれだけのことで喜びに心が震えた。
「ありがとう、大事にする。」
穏やかで、苦しくて、暑い、そんな夜が更けていった。
◇◇◇
「Sir,なにか経営に至らないことがあったのでしょうか。」
地に膝をつき、深く頭を垂れる。いつもは俺が座っている椅子には、でっぷりと腹に贅肉を蓄えた上官がふんぞり返っている。
「いや、例の盗みの件はお前なりによく対処しているぞ。しかしだな、お前は少し捕虜に舐められすぎではないのかと思うてな。やはり、まだ青臭さの抜けきらんお前にキャンプ経営は荷が重かったか?」
「閣下、その、舐められている、と言いますと...」
捕虜たちとは概ねいい関係を築けていたと思う。たしかに俺はまだ若くて、上手く行かないことも多くあったが、舐められていたというのは心外だった。
「これに、見覚えはないかね?きみのものだろう。」
閣下が俺の目の前に投げて寄越したものを見て、全身の血が一気に下がるのを感じた。翡翠色に輝く万年筆、どうして、ここに、あるんだ、
「みずぼらしい黒髪の捕虜が持っていたぞ。そんな分不相応なものをみっともなくポケットに挿して見せびらかして。お前の私物だろう?その捕虜が盗んだに違いない。全くダラムの奴らは欲深いな。それにお前は盗みの標的になって情けない。」
どうして、なぜ、それは俺が宗次郎にあげたものなのに。
「その捕虜は、何と、その万年筆についてなんと、申しておりましたか」
「言葉も通じぬ卑しい捕虜の言うことなぞ、聞くだけ無駄だ。図々しくも儂を引き止めるものだから、若いものに好きにさせたわ。今頃は慰みものになるかどうかしているだろうな。儂に知ったことではない。が、お前も持ち物の管理には気をつけろよ。」
そこで満足したのか、奴は不快な足音を立てながらテントを出ていった。俺は悔しさと情けなさで、血が滴るまで唇を噛み締めることしか出来なかった。
その後、彼を、宗次郎を探した。キャンプの中全て。周りを囲む森の中でさえ。全て探した。なのに彼は見つからなかった。俺の号哭が夜の森に響き渡る。どうしてどうしてどうして。俺が万年筆を渡さなければ。報告を挙げなければ。あの場で弁明していれば。後悔ばかりが俺の身を焼き尽くした。