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「全く、その図体で熱中症とは情けない奴だ。」
例の黒目黒髪の捕虜が知らせてくれた場所に倒れていたのは、俺の直属の部下であるクリスだった。180cmをゆうに超える身長と軍人らしく鍛え上げられた肉体を持つ彼が倒れるなんて。本当にダラムの夏は茹だるような暑さだった。
「いや、熱中症に図体は関係ありませんって。俺らの国はこんな暑くないですから。やっぱ見栄をはらずに宗次郎の言う通り休憩をとればよかったなぁ…」
と、まだ少し赤い顔をして汗を拭っている。これでもまだ初夏だというのだから、これから対策を考えねばならない…と回り出した俺の頭に「宗次郎」というワードが引っかかる。
「宗次郎がさ、『クリスさん本当に休憩取らなくていいんですか、ほらせめてこの水だけでも飲んでください』って必死に話しかけてくるのがなんか可愛くてつい…」
「おい待てクリス、その『宗次郎』というのは誰だ?」
なに言ってんすか、俺を助けてくれたあの黒目黒髪の捕虜ですよ、隊長そんなことも知らないんですか…と小馬鹿にしてくる奴の顔に一発お見舞いした後、「今夜、その『宗次郎』に俺のテントに来るよう伝えておけ」と命令して、救護室を出た。どうして俺だけあの捕虜の名前を知らなかったことにこんなに苛立っているのか、どうしてダラム語が堪能なクリスをこんなに羨ましいと思うのか、よく分からない感情が渦巻く俺を、夏の太陽が容赦なく照りつけていた。
◇◇◇
どこか落ち着かない気持ちで今日の日誌をまとめていると、不意にテントの外から人の気配がした。ついに来たか。
「隊長、失礼します。例の捕虜をお連れしましました。」
ダラム語の才能を買われて、このベースキャンプで通訳としても働いているクリスと共に、少し不安そうな目をした『宗次郎』が俺のテントに入ってくる。そして流れるような動作で地に膝をつき頭を垂れた。一応俺はこのキャンプの最高責任者で、『宗次郎』は一介の捕虜に過ぎない。当たり前のはずの彼のその動作が、今回ばかりは何故か腹立たしい。クリスの様に対等に接することのできないのが悔しかった。
「隊長、そんな眉間に皺寄せて睨んでたら怖いですよ…それで、ご要件は?」
そこからは俺が話したことをクリスが通訳し、未だ頭を垂れたまま表情の分からない『宗次郎』が黙ってそれを聞いていた。要するに、今日の熱中症の件の礼を伝えたかったのだ。その感謝の言葉すらも他人を介してしか伝わらない。なんと歯がゆいことか。
「隊長、それじゃ失礼します。」
一通り話し終わって、低い姿勢のままテントを辞する、その日によく焼けた右腕を俺は無意識の内に掴んでいた。途端、驚きと少しの恐怖に見開かれた黒目と目が合う。たったそれだけのことで、俺の心は高揚した。
「もう少し礼がしたい。時間をくれないだろうか。」
何を言ったのだろうかと、俺を見ていた黒目はクリスの方に向けられる。クリスは何やらニヤニヤとしながら俺を見て、『宗次郎』に話をしている。コクコクとぎこちなく頷きながらそれを聞く彼の黒髪はさらさらと美しい。
「それじゃあ、隊長。あんまり無理をさせないようにしてくださいね。」
何が無理だ。まだニヤニヤと気持ち悪い表情のクリスを見て、明日の仕事を倍にしてやろうと心に決めた。
そして残った俺と『宗次郎』。とりあえず彼に椅子を進めた。咄嗟に引き止めたが、俺は何がしたいのだろうか。自分の心臓の音だけがバクバクとうるさい。
「その、改めて礼を言う。お前のおかげで助かった。」
学生時代に、敵国の言葉だからと真面目に勉強しなかった自分を殴りたい。カタコトのみっともない礼だったが、『宗次郎』は真摯な目で俺の言葉を聞いてくれた。その目に突き動かされるように、俺の手は机の引き出しに伸びた。
「これを礼として受け取ってくれ。」
つ、と彼に差し出したのは俺が長らく愛用していた万年筆だ。俺の国ではそこそこ名のある職人が作ったもので、翡翠色にキラキラと輝くボディが美しい。彼の黒の色彩によく映える。日誌を書きながら、渡せるものはないかと考えていて浮かんだのがこの万年筆だった。やはり俺の見立て通り。よく似合っている。
『宗次郎』が戸惑った顔でこちらを見ながら、早口で何が巻くし立てている。きっと「こんな高価なもの貰えません」といったような内容だろう。万年筆を俺の手に返そうとする、その少し小さな手を、ペンごと握りしめた。
「お前にやる、宗次郎」
彼の手から震えが伝わってくる。しかし、小さな声で“Yes,Sir.”と聞こえてきて、俺は大変に満足したのだった。
この俺の一方的な好意の押しつけが取り返しの付かないことになるなんて予想もしていなかったのだから。