鏡
私の実家には古い鏡台が一つあって、これは鏡面を覗くと一本の白い手が映り込む、いわくつきのものだった。
この手が現れるのはいつも鏡の右上端で、大きく映るときにもせいぜいが肘まで、気味悪くはあるが悪さもしないのだから、誰もこの鏡台を処分しようとはしなかった。
幼いころに母を亡くした私などは、この右手を母と呼んで育った。
もちろん、母の手であるはずがない。その鏡台自体がずいぶんと古いものだったし、鏡の手については家人の誰もが曖昧にしか覚えていないほどの古い由来があったはずだ。
それは幼くして母を亡くした子供が寂しさを紛らわすために思いついた、小さな嘘の物語……だったはずなのだ。
五年ぶりに実家に帰ってきた私を最初に出迎えてくれたのは父だった。
父は私が五年も実家に帰ってこなかったことを責めたりはしなかった。私がここへ帰ってきた理由も知っているだろうに、それについてさえ、何も言わなかったのである。
それでも気まずいのか、父は私の顔すらろくに見ず、私が傍らに連れている康太の前にしゃがみ込んだ。
「おう、こうちゃん、大きくなったな」
康太は私の息子だ。今年で4歳になる。
人見知りはしないはずの子であるが、この時の父の態度はあまりにもなれなれしいと感じたのだろうか、不安そうに私を見上げて言った。
「だれ?」
私はできるだけにっこりと笑って見せる。
「おじいちゃんよ、赤ちゃんの時に会ったっきりだから、忘れちゃったかな?」
これが悔しかったのだろうか、康太はぷいと頬を膨らませる。
「覚えてるもん」
この年頃であっても、子供というのは嘘をつくものだ。ちっぽけなプライドを守るための見え透いた嘘。
それでも父は破顔して、幼い孫の頭を撫でた。
「そうか、覚えてるのか、こうちゃんは賢いな」
「ちょっと、お父さん、覚えてるわけないでしょ」
「しっ、この家では嘘はご法度だ」
私ははっとして息をのむ。
「まさか、あの鏡台……」
「ああ、まだこの家にある」
これが白い手が映る鏡台に関する唯一の禁忌だ。
――鏡台に嘘を聞かせてはいけない。
重要なのはこれが『嘘をついてはいけない』とは少し違うということだ。
子供であればくだらない嘘をつくこともある、保身のための小さな嘘を。その時に、それを嘘だと鏡台に気取らせてはいけないと、そういうルールなのだ。
だから大人たちは、子供の嘘がどんなに見え透いたものであっても話を合わせることになっている。幼いころの私はそんな大人たちの優しさを逆手にとって、わざと鏡台の前でおねだりのための嘘をついたりしたものだが……
「嘘だってばれると、鏡に引きずり込まれちゃうんだっけ?」
「さあな、この間、姉さんが家に寄ったから聞いてみたんだが、姉さんは風呂桶に引きずり込まれるって覚えているそうだよ」
かように、ウソがばれた時に何が起きるのかすらあいまいな、それほどに古い伝承なのである。それでも『鏡台に嘘を聞かせてはいけない』というルールだけは、今日でも絶対のものとしてこの家に残っているというわけだ。
私は、かつて自分がそのルールから守られている子供だったことを、ようやく思い出した。そして、今では子供ではないということも。
「そうか、今度は私が康太を守ってあげなくちゃね」
そんな私に向かって、父はぽそりとつぶやいた。
「何を言って居る、今までだってちゃんとこうちゃんを守ってやってきたじゃあないか」
「お父さん……」
「よく頑張ったな、ごくろうさま」
それは今の私には何よりも温かく、そして痛い言葉だった。
「そんなことない、私……」
「おっと、鏡台に嘘を聞かせちゃいけない、さあ、つまらないこと言わないで、上がりなさい。おばあちゃんがご馳走を作ってくれたんだぞ」
「うん」
私は祖母に心配をかけないように両手で涙を拭って、家の門をくぐった。
それからしばらくは、引っ越しのあれこれや、康太を幼稚園に通わせる手続きなどで忙しく過ごした。
だから私が落ち着いて鏡台の前に座ったのは、この家を訪れてから半月後の、康太を幼稚園に送り出した後でのことだった。
父は定年間近ではあっても勤めのある人なのだから、康太を送りがてら家を出た。祖母は自分の家で食べるためだけの小さな畑を世話しに行って、やはり不在である。
家の中には私一人、だから時計の音ばかりが大きく聞こえた。
鏡台の前に置かれたスツールは、これだけは最近になって新調したらしく明るいピンクのビロウドがまぶしい。
しかし肝心の鏡台のほうは材が脂色に磨かれるほど使い込まれた、しかも古い形の姿見であるのだから、どうしてもスツールばかりが浮かれているような違和感がぬぐえない。
それでも私は、スツールに腰を下ろして鏡を覗き込んだ。右端上のほうに視線を向ければ、そこには昔と同じように細くて白い手が、ゆらゆらと揺れながらぶら下がっていた。
「お母さん」
そう呼ぶのは何年ぶりだろう。白い手は何も答えず、ただ優しく揺れている。
「私、ずっと嘘をついて生きてきたの」
白い手がほんの一瞬だけ戦いたように見えたが、構いはしなかった。この手こそが私にとっての母なのであるから、すべての心情を吐き出せる相手は彼女を置いてほかにいない。たとえそのせいで恐ろしい罰を受けようとも、それが結婚生活に縋りつこうと嘘をつき続けた私にはふさわしい最期であろうと、そんな気がしていたのだ。
だから私は言葉を選ぶことなく、ただ真っすぐに話した。
「彼が好きだから結婚した、これは本当。だけどね、実際に一緒に暮らし始めてすぐ、彼のことを大っ嫌いになっちゃったの」
思えば小娘の早計というものだった。彼は最初、家事もマメにこなし、恋人に優しく、金銭感覚のしっかりとした大人に見えた。しかしそれは『恋人』だったからこその、表向きのものでしかなかったのだ。
――そりゃあ、ほかに誰もいなければ自分のことは自分でするよ、だけど今は君がいる、そういったハウスマネージメントは君の領分じゃないか
そういいだした彼は、本当に家の一切をしなくなった。炊事洗濯家事一切はおろか、自分が夜の生活で使ったコンドームの始末すら私に押し付けるようになった。
私は快楽後のガクガクと震える足腰を伸ばす暇もなくベッドから突き落とされ、這いつくばるようにして彼が落とした汚れたゴムを探し回ったものだ。
「それでも、彼が好きなフリをした。結婚してすぐに、やっぱりあなたのことが好きじゃなくなりましたなんて、わがままでみっともないと思ったの。これが最初の嘘」
恋人に優しいというのが、彼の外面の良さからくるものだと気づいたのもこのころだった。家での彼は優しくなどなく、いつも不機嫌で身勝手だった。
テレビの野球中継を見ている彼の前を、ついうっかり横切ったことがある。掃除機を片付けようと、ほんの一瞬のことだったが、飛んできたのは罵声と飲みかけの缶ビール。
「怖かったのに……ただ一言、怖いことは止めてといえばよかっただけなのに、私は自分が悪かったんだと思うようにいくつもの嘘を考えてしまったの。ひいきのチームが最下位だから機嫌が悪いんだろうとか、疲れて帰ってきているのに休息を邪魔した私が悪いとか……自分を悪者にしようと頑張って、どんどんどんどん嘘を重ねていって……」
嘘はさらに降り積もる。子供ができてからは嘘が増えるスピードに拍車がかかった。
男の不機嫌は時に暴力を伴うこともあり、私の体は気まぐれに殴られたアザや、ふいと突き飛ばされたときにできた傷が消えることはなかった。
私が一番恐れていたのは、その暴力性が息子に向けられることだった。そんなことがあっては、自分の腕の中にすっぽりと納まってしまうほどの赤ん坊などひとたまりもなかろうと。
だから私は、男が常に機嫌よく息子を愛するようにと、嘘をつき続けた。
――この子、ハンサムでパパそっくりねってよく言われるのよ
嘘だ。
少し切れ長の目元は私の父に、とぼけたように分厚い愛くるしい唇は祖母によく似ている。
だけど、そんなことは一度も言わなかった。
――今日、初めてしゃべったのよ、最初の言葉は『パパ』だったわ。パパが好きなのね~
嘘だ。
最初の言葉はもう一週間も前、『マンマ』だった。
だけど、夫を喜ばせるために嘘をついた。
近所で誰かと顔を合わせれば、その都度ごとに嘘を吐き散らした。
――うちの夫は子供好きだから
嘘だ。
夫が好きなのは自分のアクセサリーとして腕の中に抱かれる子供であって、家では息子を構ったりしない。散歩の間中ニコニコと息子を抱いていた夫が、玄関を占めた途端に漏らすのは「ただいま」ではなく舌打ちだった。
それでも近所の手前、息子に手をあげるようなことは一度もなかったことだけが救いだ。
こうした嘘はどれも、私から見れば矛盾のひどいその場限りの嘘だったのに、彼がそれを見破ることは一度もなかった。こうして私は五年間の間に、身動きできないほどの嘘を抱えてしまったのである。
「でも、お母さん、これは全部私が悪かったの。嘘がばれたら大変なことになるんだよって、知ってたのに、嘘ばっかりついた私が悪いの」
夫の浮気に気づいたのは、相手の女から直接の連絡があったからだった。それまで夫は浮気の気配すら感じさせなかったのだから、嘘つきとしては私よりも夫のほうがよほど上手であったのだろう。
相手の女は、夫の子を妊娠したのだということを切々と私に訴えた。つまりは別れてくれということだろう。
私は仕方なく、夫と話し合いの場を設けることにした。気持ちはすでに決まっている、これ以上嘘を積み重ねる生活を続けるくらいならば息子を連れて家を出ようと、私は固く心に決めていた。
ところが、予想外だったのは夫が息子に執着したことだ。
――相手の女はお前と違って子供好きだから、子供も引き取りたいと言っている
嘘だ、一目で見抜ける嘘。
外から見た体裁を気にする夫には、妻に捨てられた夫というレッテルが少しでも張られることが許せなかったのだろう。
つまり息子さえ手元に残せば、妻を追い出して男手一つで子供を育てるパパという体裁が整う。
そのためだけの、嘘で固められた愛情。
――大体がお前、子供嫌いだろ。些細なことですぐに目くじら立てて子供を叱りつけて、俺なんかいっぺんも子供を叱ったことなんてないぞ
それはあなたが無関心だったから、との言葉を喉元から飲みくだして腹に収める。
――お前、子供をぶつこともあるじゃないか、知ってるぞ、ああいうのを世間では児童虐待っていうんだろ。親権で裁判沙汰にしようっていうなら、あれ、言うから
誓って虐待などしたことはない……といいたいところだが、私には自信がなかった。
子供を育てる中では自分の感情のほうが高ぶってしまうことだってある。手をあげたその時の気持ちすべてが厳しい愛情だったのかと問われれば、必ずしもそうではないと……
「嘘をつきすぎちゃって、自分の気持ちまでわかんなくなっちゃったのね」
寂しそうにつぶやけば、触れるはずのない白い手が私の頭を撫でようとするみたいに揺れた。
私はその手を見上げて、最後の大告白をする。
「本当は、この家に来た理由も嘘ばっかり。私ね、逃げてきたの」
結局は裁判云々の話を持ち出され、夫との離婚は進まなかった。この間も夫は、自分の体裁に傷がつかぬようにと策をめぐらせていたのだろう。
私を家から追い出したところで、臨月の女を家に迎え入れては、自分の浮気が原因であると公言するようなものだ。世間を気にする彼としてはそれは避けたいところ、それゆえに私を手元に置いておく必要があったのだろう。
浮気の発覚がばれてから半月ほどが過ぎたある日、彼は唐突に言った。
――あいつとは別れたよ。やっぱり、僕には君がいてくれなきゃダメなんだ
凍り付いたように立ち尽くす私の肩を、飛び切り優しく抱いて、彼は囁いた。
――浮気なんかしてごめん。ほんとうに愛しているのは君だって、やっと気づいたんだ
嘘だ。
彼が一番愛しているのは自分のことであり、その自分にとって一番都合のいい相手が私だったというだけだ。
嘘の過重からようやく解き放たれると思ったのに、再びとらえられ、羽をもぎ取られたような気分だった。
これ以上はもう耐えられない、これから積み重ねて行く嘘の重みには。
私は買い物バックの中に財布だけを入れ、康太の手を引いて家を出た。夫には「夕食の買い物に行く」と最後の嘘を告げて、それっきり、ここへ逃げてきたのだ。
「鏡台に嘘を聞かせちゃいけないことは知ってるの。でも、せっかく嘘だらけの生活から逃げてきたのに、この上まだ自分の気持ちに嘘をつき続けていることが、苦しくて苦しくて仕方ないの。だから、お母さん、聞いて、その後で私に恐ろしい罰を与えていいから」
私は祈るように胸の前で両手を組み、静かに目を閉じた。
「本当は、夫が追いかけてくるんじゃないかとおびえてる。あれだけの非情な男だもの、どんな恐ろしいことを考えて現れるかと、泣きそうな気分で過ごしてる。でもね、みんなに心配をかけたくなくて、無理に笑顔で過ごしてる。そう、毎日嘘で生きてるのよ、私は」
不意に、優しい声が私の名を呼んだような気がした。それはか細くて優しい、どこか懐かしみのある女性の声だったように思う。
その声に惹かれたように目を開けると、目の前にある鏡の中が一変していた。そこには左右逆に映り込んだこの部屋の風景ではなく、五年間見慣れた、夫と暮らした家のリビングが映っていたのだ。
白い手は、リビングの天井から垂れ下がるようにして、やはり揺れていた。
夫の顔が大写しになったような気がするが、あまりにも一瞬のことだったから、定かではない。
私が最後に鏡の中で見たのは、何かをつかんで鏡の右下端へと沈んでゆく白い手と、鏡の向こう側をひっかこうともがく血染めの手と、そして見慣れたリビングの風景……
その手の薬指に見慣れた指輪がはまっていることに気づいて、私は、なんだかひどく救われた気分になったのであった。