2.友の雄叫び高らかに
その日の教室は、いつもよりも余計に騒がしかった。
「だあああぁあっ、なんでだよおい!わかんねえ納得いかねえ理解できねえ!」
木崎涼介という思春期の少年には、彼女がいない。現在のみ、というわけではなく、この世に生まれてから一度もそういう存在ができたことがなかった。なぜかと言われれば、理由は明確だったし(とにかく彼は表情がなさすぎた)、しかも本人は直す努力はおろかその根本的な原因も自覚していない有様だったので、彼の友人A氏(彼女いない歴17年)などは安心しつつも生温かい目で見守っていたのだが。
「なんでっ!おまえにっ!彼女ができるんだ!?ぜってー世の中間違ってるぞおい!」
勝手に一人で怒鳴り散らしている友人を尻目に、淡々と帰り支度を進めていく。
「その彼女っていうのが誰のことを言ってるのか想像はつくけど、とりあえず誤解だと言っておくよ」
「あァ?誤解だあ?」
「そ、やむにやまれぬ事情があってね。……それじゃ」
会話を打ち切ると、涼介は教室をあとにした。背後から何か聞こえてくる気がするが、あえて気にせずに歩調だけ速める。
――三十六計逃げるにしかず。昔の人はかしこいことを言ったものだと感心しながら。
「そんなことをしても明日問い詰められるだけではないのか?」
「きっとそのころには忘れてるんじゃないかな。けっこう飽きっぽいしね」
並んで歩く若い男女二人組を、すれ違う人々が唖然とした顔で見送っていた。その多くは離れていく二人の背中を見る過程で、二人の関係を探るような顔つきへと変わっていく。その視線に女性は好奇心、男性は男に向けた敵意をたっぷりと混ぜて。
今はもう慣れたものだが、それでも同姓の敵意のこもった視線がヒシヒシと背中に突き刺さるのは愉快なことではない。
そうはいってもどうしようもないことなので、涼介は現状を甘んじて受け入れていた。……諦めたともいう。
「しかしそういう噂が広まるのも仕方のないことかな。おそらくどこかで共にいたところをおまえの知人にでも見られたのだろう」
「最近よく一緒にいたからね。全然そういう関係じゃないんだけど」
肩をすくめた涼介の言うとおり二人は別段付き合っているわけではない。それどころか、涼介は隣を歩く少女をそういう対象として意識したことはなかった。
あえて二人の関係を言うなら……『脅迫する側』『される側』だろうか。――もちろん脅迫されているのは涼介の方だ。
先ほどから道行く男性の注目を集めている少女の名前を、蒼月風姫という。
うなじのあたりで束ねた鴉の濡れ羽色の髪と、意思の強そうな青紫の瞳、そしてその口調が特徴的な、明らかに只者ではない感じの十七歳の少女である。
そして、涼介がボランティアの人命救助をやることになった発端でもあった。
二人でいつも使っている喫茶店で、いつもの注文をする。高校生ぐらいの年齢なら好んで選ばないような渋めの喫茶店だ。さほど待たずに涼介の前には野菜ジュース、風姫にはモンブランのケーキと、涼介にはよくわからない銘柄の紅茶が置かれた。
それまで涼介の友人について話していた二人だが、それを皮切りにこれぞ本番とばかりに風姫は話を切り出した。むろん、ケーキと紅茶を口にしながらの平行作業である。
「しかしだな、前回の一件でおまえが助けた女性はけっこうな美人だったんだろう?せっかくのチャンスだったのだ。それを機にお近づきになればよかったではないか」
風姫は涼介の顔を覗き込み、ニヤリと笑った。
「さめたところもあるが、おまえだって年頃の健全な男子に変わりないのだ。年上のお姉さんといい仲になりたいとは思わないのか?」
「なんていうか、キミこそ年頃の女の子だとは思えないんだけど」
心外そうに眉をひそめ、年齢にしては大きめの胸を張られる。
「何を言う?私ほど少女らしい少女はいないと思うぞ。見ろ、この整った顔つきに今でもすごいが近い将来を期待させるこの絶妙なプロポーション。どうだ、欲情するだろう、襲いたくならんか、ん?」
「そういうところが――」
少女らしくないと思うんだけど、などとは言わない。世の中、言っても無駄なことがあるのだ、とは短い付き合いのなかで学習した事柄である。
「……いや、やっぱりいい。それに、僕はただあそこに行っただけだし。そんなことをする気はないよ」
「謙遜も美徳のうちというが、おまえはもっと厚かましくなったほうがいいな。その性格ではいずれ損をするぞ」
「そういうキミは男に興味はないの?」
「うん、よく訊いてくれた。私の理想はだな、ずばり見た目がよくて性格は穏やか、頭脳明晰で出来れば家は金持ち、経験豊富かつ行動的であり、何をやらせてもそつなくこなす、そんな男だ!」
「……そんなの現実にはなかなかいないと思うけど」
「うむ、実は私も最近そう思うようになってきた。ロマンティックな展開もわかりやすい悪玉も現実とは無縁のようだしな。世知辛い世の中だ。なのでだ、この際外面は考慮しないことにした。人間大事なのはやはり中身だ。見た目だけよくても肝心の性格が薄っぺらいのはいかん。次善としてはなかなかナイスな選択であろう?」
自賛する少女の表情が、すっと真面目なものに変わった。
「しかし不思議なことに、男どもは誰もよってこようとはせんのだ。なぜだ?私があまりに美少女すぎて気後れしているというのなら納得できるのだが」
よってきてほしいなら、まずその性格をまず直すべきじゃないかな。
なんて言っても納得されず、むしろ何故だと問い詰められるのがわかっていたので、あえて沈黙で押し通す。
文句なしの美少女ではあるのだ。間違いなく。すれ違う男が皆振り向くほどには。ただ惜しむらくは、その中身があまりにあまりな代物であることだった。
「理由はわからんが、男の一人もつくらないまま青春を過ごすというのも物悲しいものがあるな。……うん、そうだ」
両手を打ち鳴らしながらの台詞に、涼介は危うく吹きかけた。
「私とおまえ、いっそのこと本当に付き合ってみるか?」
「……は?」
「おまえは内面という点でみればけっこういい男だし、私はいわずもがないい女だ。お似合いのカップルということで皆から羨ましがられるかもしれんぞ」
「いや、それはないから」
断固としたツッコミも大した効き目はなく、
「ものは試しと言うぞ。どうだ、私と清く正しい男女交際でもしてみないか?ああもちろん正しく順序を踏めば爛れた感じのヤツもオッケーだ」
「えーと……本気で言ってるのかな?」
「私はいつだって本気だ」
「だろうね……前向きに考えておくよ。それより、今日はなんだか機嫌がいいように見えるけど?」
「うん?そうか?」
「いつもよりよく喋るから。普段も口数は多いけどね」
「機嫌がいいか、そうかもしれないな。昨晩は『夢』を見なかった」
「……ああ」
――なるほど。
木崎涼介は、超能力や心霊現象をどちらかといえば信じているほうだ。自分からしてそうなのだから、というわけではないが、広い世の中、そういうことがあっても不思議ではない……そう思っていた。
それでも実物には出会ったことがなかったし、これからもそういう機会はないだろうなと諦観もしていた。
蒼月風姫に会うまではの話である。
蒼月風姫は、俗にいうところの『予知能力者』だ。ただし、ひどく限定的な力しか持たない。
力が発揮されるのは『夢を見る』という形でのみ――いわゆる『予知夢』。そして、予知できる未来は決まって……誰かの死。
人が死ぬこと専門の予知能力者。誰かが死ぬ夢を見たときは必ずそれが現実のものとなるらしい。……どんな気持ちなんだろうと思わないでもない。
自分だったら、毎晩誰かが死ぬ夢を見て、しかもそれが確実に起こると知ったら……嫌に決まっている。そんな力は死んでもお断りだというぐらいに。
それなのに目の前の風姫は見ていても、とてもそんなはた迷惑な能力を持っているとは思えないほど陽気だ。そういうふうに装っているかもしれないし、もう慣れきって日常の一部になっているのかもしれない。
なんて考えてても答えが出てこないことはわかっているのだ。同じような経験をしていても、似たような性格だったとしても、人の気持ちなんて想像はできても理解できるわけもなく――
「店の中から見る風景も気に入っているのだがな」
先ほどまでの陽気さを押し殺した呟きに、涼介ははっと我に返った。
「あれはアレか?強引なナンパというヤツだな」
窓から見える街並みのなか、スーツ姿の女性にガラの悪そうな男が二人、話しかけていた。どう見ても親密な関係でない。女性は困ったような顔をしてつきまとう男たちから離れようとしていたが、腕を掴まれていてはそれもままならないようだった。
「多分そうだろうね」
「うん、ちょうどいい」
「なにが?」
「最近おまえに任せきりだったからな。運動不足で体がなまっていたところだ」
「……だから?」
「ちょっと運動してくる」
最後に残ったケーキを口に放り込み、紅茶を一気に流し込むと風姫は席を立った。
「……手加減は忘れないようにね」
腕まくりをしながら店を出て行く相棒に声をかける。心配はしていない。彼女の習っているという怪しげな古武術で撲殺されかけたのは、会って間もないころの話である。
――結局、全てが終わるのに一分もかからなかった。
青ざめた顔でナンパ男が肩を貸しているのは、それ以上に青ざめて、というか真っ白になって股間を押さえているもう一人のナンパ男。捨て台詞を吐く余裕すらなくヨタヨタと逃げていくその姿には、男なら同情を抱かずにはいられない。
「……えぐい」
「安心しろ。潰してはいない」
そういう問題ではない気がする。
「ん?そういえば絡まれていたあの女はどうした?それになんでおまえまで店の外にいるのだ?」
「女の人はとっくにどこかへ行ったよ。それともう一つの答えは……まあ一応ね。心配はしてなかったけど、蒼月は女の子だし」
目を見開き、ニッコリと笑う。その笑顔に気をとられていた次の瞬間、バシバシと背中を打つ平手の痛みに涼介は軽く咳き込んだ。
「そうかそうか、やはりおまえはいい男だな。……ん?ということはもう会計はすませたのか?まだなら私の分の料金を払わねばならないが」
「いいよ、もう払ったし。ここは僕が持つから」
「そうか?ならありがたく奢ってもらうとしよう」
こういう変に遠慮しないところに小気味よさを感じていると、
「…ああ、それとさっき何やら考えこんでいたみたいだが――」
ぐるりと青紫の瞳が動いて、涼介の顔を真正面から覗き込む。
「時間は有限だし人生は一度きりだ。難しい顔をして考えこむことで浪費するぐらいなら、愉快なことでもしながら笑って過ごしたほうがずっと有意義だぞ」
「……気付いてたんだ」
「勘と経験でなんとなくだな。おまえは考えが表情に出てこないからあと半分はカマカケだ。おおかた私の『夢』のことでも考えてたんだろう?私のことを知った者は一度はそのことにとらわれるが、どうだ、当たりではないか?」
……まいったな。こうもズバズバと言い当てられるとグウの音も出てこない。
「誤解されると面倒だからこの際言っておくぞ」
風姫がグイッと顔を近づけてきた。ほとんどくっつく寸前である。
「ちょっ……近いんだけど」
「ん?ああ、気にするな。……それでだな、言っておくが、私は『夢』のことをうとましく思ってはいないぞ。これのおかげで平凡な人生からかけ離れた経験を積めるのだからな。それにうまくやれば人助けもできる。一石二鳥というヤツだな。もちろん平凡な人生というヤツを馬鹿にしているわけではないぞ。あれはあれで貴重なものだ。ただ私のお茶目な性格には合ってないだろうが。……深刻に考えてたのが馬鹿らしくなっただろう?」
言いながら笑う彼女の表情には陰りは見当たらず、
「……はは、蒼月の言うとおりだ」
さっきまで胸の内によどんでいたモヤモヤとした思いは、きれいさっぱりなくなっていたわけで。
彼女の話したこと全部が、本心だとは思ってたわけではない。それでも、今は少しだけ感謝したい気持ちになっていた。
満足げにうなずいて別れの言葉を口にし、堂々とした足取りで街の雑踏へと消えていく風姫。
明日からはまたむき出しの殺意と向き合う日々が待っている。今日みたいな日は稀だ。殴りかかられることなんて当たり前だし、刃物で刺されそうになったことも一度や二度じゃない。最悪の場合、銃などもつきつけられるかもしれないし、自分でもたまに馬鹿らしく思える悪運もいつかは打ち止めになるかもしれない。
正義の味方を目指しているわけでもなし、赤の他人の命より自分のほうが大切としか思えない涼介にしてみれば、そうなった場合の末路は想像したくもない話ではあるのだがが。
それでもあと少し、ほんの少しだけは風姫に付き合ってもいいかもしれない。そんなふうに思えていた。
それに、少なくとも――
「退屈はしないだろうしね」
後日、たまたま喫茶店にいた客の一人から涼介たちの会話が友人Aに伝わり、涼介はしばらくの間『やたらと強い美少女と爛れた日々を送っている男』として学校中の噂の的になったというが、それはまた別の話。