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あれは確かその年の十一月の頃だ。ほとんどのクラスメイトが公立の中学校へ進学する中、俺は私立を受験することに決めていた。進学校を卒業してほしい親の見栄と、この田舎から少しでも早く出たいと言う俺の意見が珍しく一致したことが受験の理由だ。
俺の家は田舎でも裕福な方で、父親は大学病院の医者だった。専業主婦の母親はいつも着飾り、世間体ばかりを気にするタイプで、授業参観の度にけばけばしく装う母親を俺は疎ましくそして恥ずかしく思っていた。
受験勉強も佳境に入り、その日も俺は塾だった。要点を坦々と説明する講師は何の熱意もなかったが、分かりやすく、学校の教師よりも気安く話せた為、俺は学校よりも塾の方が俄然勉強は捗っていた。
塾が終わりいつものように、帰路につく。電車と最終のバスを乗り継いで約40分。田舎には塾が無いため、俺は毎日このルートを繰り返していた。
電車を降り駅前に出ると、身を切るような寒さが襲う。空からはただ真っ直ぐに地面へと向かう雨がぱらついていた。
生憎傘は持っていなかったが、バス停には屋根があるし、この分だとバスに揺られている間には止むだろうと判断した俺は、コンビニでビニール傘を買うことはやめてそのままバス停に向かうことにした。八時も半をまわり、閑散としたバス停は小さな水溜まりに映る色とりどりのネオンだけが賑やかだった。
四十代前後のサラリーマンと、髪をひと括りにした同い年ぐらいの女の子が少し距離を置きながらバスを待っている。女の子の斜め後ろに立った俺は、思わず顔を背けた。
佐竹蒼だ。
そう気付いた時にはもう近づき過ぎていた。茶色のダッフルコートにジーンズという出で立ちは彼女をますます地味に見せていたし、いつもおろしているボサボサの髪が括られていたのも気付くのが遅れた要因だった。彼女もすぐさま俺に気付いたが、すぐに何も見なかったかのように車道に顔を向ける。きっと俺が彼女を嫌っていることを薄々勘づいているのだろう。彼女は人の心の機微を読むのに聡かったし、俺はそこがまた嫌いだった。
心の中で舌打ちし、俺は彼女から離れた場所で、打ち付ける雨を見ながら彼女に意識をやらないよう努める。心の中はたちまちどす黒い雲が覆って、まるで今の空模様のようだった。
時間にして十分程度だっただろうか。いつの間にかサラリーマンの姿は消え、俺は彼女と二人きりになっていた。いつもならもうバスが来てもいい時間だったが、雨のせいで道が混雑しているのだろうか、まだ来る気配はない。止むだろうと予想した雨は、強さを増すばかりで、俺は次第に苛立ちを募らせていた。雨などしょうがないし、バスが遅れるのなんていつものことだ。普段ならそう思えるのに、彼女がいる空間から逃げ出すことが出来ないのが忌々しくて、苛立ちの元凶である彼女をきつく睨む。
彼女は視線を蝶のようにふわふわとさ迷わせていた。視線の先を辿ると、濡れたビルやガードレール、切れかかった外灯といったありふれたものばかりに行き着く。
俺の苛立ちは次第に鳴りを潜め、睨み付けていたはずの目は好奇に満ち溢れていた。
何を見ているんだろう。
それは純粋な疑問だった。車道の信号を見ていたと思えば、次は横断歩道の白線を見ている。そして気づけば排水溝へと移っていた。切れ長の彼女の目は何の感慨もなく、そこに意図など何も感じられなかった。
「宮前君」
鼻にかかったような高い声が、雨を切り裂く。それはポツリと呟いた独り言のようだったが、真っ直ぐに俺の耳に届いた。一瞬間を置いて、それが自分の名前だと気付く。心臓が息苦しいぐらいに鳴り響いていた。
俺は、緊張している。あの佐竹蒼に名前を呼ばれだぐらいで。
一気に張り詰めた自分の体が情なかったが、敵前逃亡だけはするまいと、奮い立たせ彼女をもう一度睨み付ける。
しかし、彼女の視線はまださ迷うことを止めていなかった。
「綺麗だね。雨」
意表をつく台詞に俺は呆気にとられた。彼女に返事をすることもなく、ただぼうっと彼女を見ていた。こちらに顔を向けることもしない彼女もまた、俺の返事など端から期待などしていないように思えた。
小さな水飛沫をあげて次々と車が走り去っていく。雨でけむった街は怪しくネオンだけを浮かび上がらせた。彼女が見ていた排水溝はごくごくと雨を流し込み、それでも雨は真っ黒な空から降り落ちることを止めなかった。全てが艶やかに濡れていた。音という音が洗われていた。
それは、まるで自分たちが世界から切り離されているような不思議な感覚だった。晴れた夜空からはうんと遠い場所へいきなり置き去りにされた気分なのに、それは驚くほど心地良かった。あんなに嫌っていたはずの彼女と、この空間を分かち合うことさえとても自然なことのように思えた。
彼女はずっと雨を見ていたのだ。
雨と雨が濡らす世界を。
程なくしてバスがやってきた。彼女に続きバスに乗り込む。
彼女は運転席のすぐ後ろの席に座り、俺は一番後ろの席に腰を降ろす。これがきっと正しい距離だ。そう思えば思うほど、バス停での出来事が夢のように感じた。
俺の予想は的中した。バスを降りると空はすっかり晴れ上がっていた。




