episode6
男を捕らえ、私が見張っている間にイキがどこからか縄を持ってきた。それで、男を縛りつけ動けなくした。
「ねえ、どこでこの縄拾ってきたの?」
「え!?」
イキは目を逸らし、冷や汗を流しながら言った。
「い、いや~、広場に落ちていた縄があったから。ちょ、ちょっと借りただけだよ……」
多分それは、子供が遊ぶための縄だろう。きっと、彼もそのことに気づいている。
「大丈夫だよ、後で返すから。だからさ、縄切らないでね」
イキは念を押した。
私にではなく、縛られている男に向かってだ。
イキを横目で見やり、それから男を見下ろした。
「ねえ、ミリルとどんな関係なのかしら?」
すると、男は舌打ちを一つ打って「あの女か……」と機嫌悪そうに呟いた。
やはり、この男はミリルのことを知っているのだ。
「答えて」と言うと、男は「別にただ町で知り合って、その他は大した関係じゃ……」と口ごもる。
「じゃあ、さっき彼女を襲っていたのは? いや、そもそもこの町で暴れているのはあなたなの?」
と言うと男は血相を変えて言った。
「違う! あの女に襲い掛かったのはそいつに頼まれただけて、他は知らない。本当だ」
男の顔を見ている限りでは、本当らしい、というのが今の見解か。
本当のことは本人に聞け、そう言うことなのだろう。しかし、その本人が素直に言うはずがない。
まあ、こんな所で男を縛りつけたままというのも、余り良くない。
思案したあと、イキに「縄解いていもいいよ」と言って、解いてもらった。
そして、私は「この町に、宿泊施設化なんかある?」と聞くと男は「在るけどやっていない」と答えた。予想通りだ。
なら。
「じゃあ、こういう時に泊まる場所ってどこか分かる?」
そう聞いた。
すると、男は「それなら」と口を開いた。
「教会だよ」
それを聞いて、やっぱりと思った。
「……シキ?」
イキだけ理解が出来ていないのか、ぽかんとしている。
「そう……」
それだけ言うと、私は踵を返して、もと来た道を戻っていった。
それに着いて来るイキは、
「どこ行くんだ?」
と聞いてくる。
「戻るのよ」
「どこに?」
「あの、教会によ」
イキは怪訝な顔つきで、
「?……さっきは教会が厭そうなこと言っていたのに……」
「さっきはね……。でも、今は状況が状況だもの。文句言っていたって意味ないでしょ?」
「まあ、そうだけど……、そこに行けば、彼女のことが分かる……?」
「多分ね。教会に泊めてもらえば、奥を見ることが出来るかもしれないからね」
「……君が厭なら、僕一人でもいいけど………」
「あなた一人でできる?」
「あ、いや……君が居たほうが良いかな~って思っている自分が居ます……」
自信なさ気に言った。
そして、教会へと戻った。
祭壇にある十字架の下に彼女はいた。
戻ってきたことに驚いた様子で、目を見開いていた。
「どうしたのですか?」
ミリルは「道に迷ったんですか?」と聞いてきた。それにイキが「いや、道には迷っていないんだけど……。あのさ―――」と続けた。
「―――ここに泊めてもらうってこと、できるかな?」
彼が遠慮がちにそう言うと、ミリルは一瞬「え?」と困惑した声を発した。
少し考え、そして――。
「神父様に言ってみます。少し、待っていてください」
お辞儀をして、ミリルは教会の奥へと足早に去っていった。
暫く待っていると、奥から彼女が戻ってきた。
「こっちに来てください」と奥へと誘われた。
祭壇の横にある扉を潜り、日の光が差し込む明るい廊下を進み、右を曲がった所にある部屋へ連れて行かれた。小さな部屋にベッドが二つ、窓が一つ、机が一つ置いてある。他にも部屋があるらしいが、他の部屋は汚いから、ここにしたんだとか。
イキは小さく「ありがとう」と言ってお辞儀をした。
扉が閉まり、部屋にはイキと私だけとなった。
「で、今から教会を回るのか?」
「少しはね。この教会の構造を知っておきたいから」
と言っても、彼女に案内を頼んだとしても素直に案内をしてくれるはずがないだろうことは予想ができる。だとしたら、勝手に教会を見て回るしかない。止められたら、その時は道に迷った、とでも言っておこう。
少ししてから、イキはミリルに案内を頼み、彼女の気を引いてもらった。私はその間に教会を回った。
明るい廊下を歩いていくと、突き当たりに扉、右に曲がるとまた廊下が続いていた。私は構わず、突き当たりの扉のドアノブを捻った。そこには、小さな部屋に少し埃っぽいベッドが一つあるだけだった。多分、これがミリルの言っていた『他の部屋』とやらだろう。部屋を出て、行っていない廊下を歩いていった。すると、また扉と、突き当たりを左に曲がれる廊下とがあった。まず、扉を開けようとしたが施錠されていて開けられなかった。鎌でも出して、切ってしまえば問題ないのだが、その後にミリルに気づかれてしまう。そう思ったので、諦めて突き当たりを左に曲がった。暫く、何もないだた窓がある廊下が続いた。すると、大きな立派そうな扉があった。そこまで、寄り扉を開けると、大きな部屋があった。執務室かなんかだろう。大きな机にイス、本棚には沢山の資料や本が並べられている。
しかし、異質な何かを感じた。
窓はカーテンが閉められており、陽光を一切入れようとしない格好だ。それに、鼻を突くような異臭がする。この部屋の右奥にまた扉がある。そこを開けると、大きなベッドの上に血だらけの死体があった。黒い服を着た男性のようだった。胸元には、きらりと光る十字架。多分、この男が神父だろう。血は時間が経ったせいか、赤黒く変色しており、肌は腐りかけていて蛆虫が這いずっている。奥へと入っていくと、ベッドの足元に何枚かの紙が落ちていた。それを拾い上げ、読んだ。
「………」
内容は最近冷害のせいで凶作であること、財政があまり良くないことなどが書かれていて、神父――いや、聖職者に意見を仰ぐ文書だった。神教国であるこの国らしい。
その最後には―――。
「……なるほどね。そういうこと」
紙から手を離し、部屋を出た。
教会の祭壇の前まで来て、多きな十字架を仰ぎ見た。
一瞬だけ、昔のことが過ぎる。別の教会だが、その大きな十字架が血だらけになり、教会の壁も床も血だらけになった所を思い出す。今は多分、その教会はない。
再び、祭壇の右奥にある扉を抜けて、廊下を進んでいった。
前回とは違う道を進んで行き、途中変な扉を見つけた。廊下の曲がり角にある扉。部屋があるとは思えなかった。ドアノブを捻ると、そこには地下へ通ずる階段があった。地下からは、生臭さを含んだ冷たくそして湿った、気分の悪い風が吹き抜けた。その階段を下りていった。
暗い、階段を下りていくと、少しだけ明るい場所に出た。明るいといっても、血腥いところだった。
見たところここは地下牢だった。
呻き声、苦しそうな呼吸音が耳を霞める。
一番近い牢の鉄格子の奥では聖職者ではない少女が横たわっていた。ぼろぼろの服に、肉が千切れていたり、爛れている。痩せこけた頬に骨の浮かんだ四肢。そして、その肉体にはもう既に魂はなく、息もしていない。死んでいる。
見ていると、壁で隔てられた隣の牢から「あなたも、物好きですね」と女性の声がした。
「もしかして、旅人さんかなんかかしら?」
「……そうだけど。あなたは?」
私がそう問うと、女性は、
「私は、修道長のヘルファです……」
自己紹介をし「元……ですが」と付け加えた。
ヘルファと名乗ったその女性の身なりは、ぼろぼろの服に、所々千切れた肉、骨が浮き出た体で健康体というには程遠い感じだった。
「ねえ……」と私は口にした。
「ミリルはどうしてこんな事を?」
「…………それは」
ヘルファは渋々と、
「多分、家族を助ける為……だと思います」
「家族を助けるのに、何故あなた達がこんな目に遭っているの?」
「……それは、彼女の家族を追い出したのが、この町そのものだからです」
「そう……。じゃあ、あなたもそれに加担したの?」
「いえ、私は止めるべきだと、そう言いました。でも……」
「聞き入ってくれなかった、と?」
「……はい」
頷いた。
ミリルは家族を助けたかった。国に連れて行かれ、神の供物として捧げられる。不況や凶作になると、こうやって生贄を捧げるのは今も昔もこの国は変わらない。
まず、彼女は神父に掛け合った。しかし、断られたのだろう。だから、殺した。そして、教会そのものを動かすために、こうやって幽閉し拷問をした。それだけじゃ、足りなかった。今度はこの町を動かそうとした。どう動かすか? そんなものは簡単だった。この町は神を深く崇める町。なら、良くない事――例えば、殺人だったり、強盗、窃盗、誘拐……そんな事件を撒き散らせば、神が怒ったのだと、町民は恐れるだろう。そこを狙った。丁度、ミリルの家族が連れて行かれた後、なら、それが原因と考える、そう思ったのだろう。しかし、それだと首謀者がミリルだと勘付かれてしまう恐れがあった。だから、自らも被害者となるべく、あの男に頼んだ。といったところだろう。
考えていると、ヘルファの隣の牢で男が唸っていた。
死にたい、そう唸っていた。
その男の前まで行き、
「そんなに、死にたい?」
と聞いた。
とんでもなく、心無い言葉だとは承知している。
男は虚ろな目で、
「死にたい。もう、あんなのは嫌だ。生きていたくない。痛い。あの女が来る前に、死にたい」
そう言った。
「そう……、なら殺してあげようか?」
私は手の中から黒い大鎌を生み出した。
それを見ていた、ヘルファは驚いた声音で、
「あなた、もしかして……死神?」
と言った。
私は軽薄そうに笑って、
「さあ、どうでしょう。死神かもしれないし、もしくは悪魔かもしれない。魔神かもしれないわよ」
「でも、その鎌は死神の象徴……なら――」
「この鎌を持っているからといって、死神だとは限らないわよ。でも、まあ……人殺しというのはどっちみち変わりないけどね」
鎌を振り下ろした。
鎖が切れる。楔が消える。
男は苦しむ間もなく、死んだ。
すると、牢の中の人間が一斉に殺してくれと叫んでくる。
擦れた、小さな声だった。
もう、苦しいのは嫌だと叫んでいる。
だから、私は殺す。
生きていたくないのに、生きていたって意味がない。
ヘルファ以外の人間はみんな、死んだ。私が殺した。
「あなた、やっぱり……死神、そうでしょう?」
「あなたがそう思うなら、そうかもしれない。あなた次第よ」
「そうですか……」
安堵したのか、大きく息を吐いた。
そんな彼女に、ぼろぼろの彼女に私は言った。
「あなたも、死にたい?」
すると、
「ええ」
と、
「でも、最後に私の願いを聞いてくれますか?」
私はそれに、
「聞くだけなら、いいわよ」
と答え、彼女は
「よかった……」
と胸を押さえた。
「ミリルを、彼女を救ってあげてください」
彼女はそれだけ言うと、笑って倒れた。
死んだ。
直感でそう思った。
既に限界だったのだろう。
気力だけで生きていた様なものだった。
私は彼女を看取り、地下を出た。
***
夜が来て、暗い部屋の中で、私とイキの二人だけだった。
窓からは月の明かりが部屋を照らしていた。
イキはベッドで、寝ていた。
彼が寝る前、イキは「君も寝たら?」と言っていたが私は断った。
ミリルが動くのを待つ、というのもあったが、彼女が居なくても結局私は寝なかっただろう。寝ることがあまり好きではないから。
暫く、月を眺めていると、外で物音がした。
彼女だろう。
私は、彼を起こさないよう、そして彼女に気づかれないようにそっと、部屋を出た。
そして、廊下を数分歩いていくと、閉まりかけた扉の置くから明かりが見えた。
その部屋には、きっとミリルがいる。
静かに入って、私は声をかけた。
「こんな、時間に何をしているの?」
しかし、ミリルは聞いていなかったのか、
「やっぱり、貴女でしたか」
と呟いた。
振り向くことはなく、ただ手に持った何かを見つめていた。
声の調子は不自然に落ち着いていた。
「どうして、彼らを殺したんですか?」
「それは、こっちの科白……」
彼女はこちらに振り向き、静かに嗤っていた。
手には、ナイフが握られていた。
「では、質問を変えましょうか。貴女は一体何者ですか?」
「何? その質問。私はただの旅人よ」
「嘘はよくありません。だって、貴女が殺したあと、何一つないですよ。まるで、みんな眠っているみたいで……」
致命傷となりうる外傷が一つもない。
どうやって殺したんだ、と彼女は言っていた。
そして、彼女は静かに言った。
「やっぱり、貴女はヘルファの言うとおり、死神ですか?」
「………、へえ、聞いていたのね。以外……」
何処で聞いていたのだろうか。
しかし、今はそんな事どうでもいい。
「でも、彼女が言っていただけだもの。本当に死神がいると思う?」
「さあ、どうでしょか。でも、まあ、聖職者である私が神の存在を否定するのは、理にかなっていないと思いますよ。どっちみち、貴女にはここで死んでもらいます」
そう言って、彼女はナイフを振り上げた。
それを紙一重で避けた。一歩、反応が遅かったら拙かったかもしれない。
「どうして、反撃してこないんですか?」
彼女は、冷たい目でそう言った。
鎌を出して、彼女を切ってしまえば私が傷つけられることはない。だが、まだ殺せない。
ナイフを振り回す彼女の斬撃を避けていくが、彼女の動きは速い。そして、場所が狭い。
気づけば、彼女に左腕を掴まれ壁に押し付けられていた。
そして、左掌にナイフが勢いよく刺された。
「……ッ!」
鋭い痛みが腕に走る。
掌をナイフが貫通し、後ろの壁諸共刺していた。
痛みを噛みしめる私に、彼女は驚いた表情で、
「へえ、悲鳴上げないんですね」
「……悲鳴?」
「みんな、こうやってナイフで刺すと大抵は悲鳴を上げたり、命乞いをしたり、泣いたりするのに……。本当に死神なのですか?」
「さあ、どうなのかしら」
「まあ、いいです」
彼女は、ナイフを抜き、そして勢いよく左腕の手首に刺した。
「……ッ」
「へえ、これでも悲鳴上げないんですね。じゃあ……これはどうですか?」
彼女は左手首に刺した、ナイフを肘に向かって下ろしていった。
ぶちぶち、と肉や血管が切れる音と共に痛みが響く。
「……くッ……ぁ………」
左腕からは夥しい量の血が流れ出る。
彼女は面白いものを見つけたような顔で、そして歪んだ顔で、
「面白いですね。命乞いもしない。悲鳴も上げない。泣きもしない。まるで、化物みたいです……」
そう言った。
私は、
「化物……ねえ、化物かもしれないし、悪魔かもしれないわよ? もしくは、魔女だったり、本当に死神かもね」
と笑って見せた。
正直言って、余裕はなかった。
「あはは、それは面白そうですね。貴女が化け物かどうか知りたくなってきました。貴女に殺されたものの換わりに、貴女を殺してみたくなりました。どうですか?」
なんて薦められて、以外にも私はそれでも良いかもしれないと思った。
でも。
生憎、先客がいる。
『君を殺したい』
そう言ってくるあの人がいる。
だから、
「ごめんね。あなたに殺されてあげない」
断った。
「そう……ですか。なら、今死んでください」
左腕から、ナイフが抜き取られ、振り上げてくる彼女の攻撃を避けて、部屋を出た。
暗い、月明かりだけが照らす廊下を走った。
死ぬのが怖いわけじゃなかった。
ただ、彼女をどうにかしないといけない。
それが、彼女―――ヘルファの望んだことだ。
贖罪の時間を上げなければならない。
彼女には気づいてもらわなければならなかった。
自分がしたことの、罪を。
どれだけの事をしてしまったかを。
そして、彼女の家族がどうなったかも、知らせなければならない。
だから―――。
私は走った。
「逃げないでください」
ミリルは狂ったように笑いながら、走ってくる。
左腕から流れ出る血液のせいで、体が重い。左腕は痺れて動かすことも儘ならない。
いつの間にか彼女に追いつかれ、ナイフを突き刺してくる。
心臓目掛けて突き刺してくるナイフを、一瞬の判断でぼろぼろの左腕で防いだ。
ぐちゃっとナイフが突き刺さった左腕を押さえながら、礼拝堂へと向かった。
祭壇の前まで行ったところで、ミリルが先回りして、出入り口の前に立って塞いだ。
「逃げないでくださいよ。寂しいじゃないですか」
笑っている。
嗤っている。
手に黒い鎌を生み出す。
死神が持つ大きな鎌。
生きとし生けるものを死へ追いやる鎌。
「やはり、貴女は死神なんですか? 私を殺しますか?」
「……さあ?」
すると突然、教会の扉が勢いよく開いた。
そして、発砲音。
「………ッ!?」
弾丸はミリルに当たった。
さらに、二、三発撃ち、一発は教会の床に当たりそれが跳ね返って天井へいった。残りはミリルに当たる。胸と腹部から弾丸が貫いて出てきた。
「かはッ―――どう……して?」
血を吐きながら、銃を撃った男へと目を向けた。
昼にミリルを襲っていた男だった。
彼は銃口を彼女に向けながら小さく呟いた。
「……裏切り者………」
ミリルは力なくその場に倒れた。
すると、発砲音を聞いてきたのかイキがやってきて「シキ……ッ」と驚いた表情でミリルを見やり、それから男を見た。
男は「俺のせいじゃない」と言って踵を返して走っていった。
イキは彼を追いかけていった。
ミリルからは血が流れる。
死にたくない。
小さく、擦れた声で呟いた。
「……あなたは罪を犯した。決して、赦されることのない罪。あなたは神を冒涜した。禁忌を犯し、涜神に堕ち、愛する者さえもその手にかけた――」
彼女の信仰する、教典の一説。
彼女はようやく気づいたのか「あッ……」と声を上げ、泣き始めた。
「――神はあなたを赦さないでしょう。あなたは誰にも赦されないでしょう。あなたの罪科を贖わなければなりません」
彼女は、家族を助けようと必死だった。
そのせいで、壊れてしまった。
昔の私みたいだった。
でも。
違うのだ。
彼女は、足掻いた。
私は、足掻くこともしなかった。
今の彼女は狂っている。
でも、私よりも彼女のほうが人間らしい。
私は鎌を振り上げ、彼女を殺そうとしたところで、天井で何かが切れる音がした。
すると、教会の出入り口からイキが勢いよく走ってきて、私に向かって跳んだ。私の体を抱き締めて、そのまま吹っ飛ぶ。
先ほどまで私がいたところに、天井に吊るされていた灯火台が落ちてきた。
灯火台の装飾品だったガラス片が飛んでくるが、彼がそれを庇ってくれた。そのせいで、彼の肩にガラス片が掠ったのか、コートが切れ、血が滲んでいた。
彼は腕を立て、私の呆然とした顔を見て安堵のため息を吐いた。
「よかった……間に合って、よかった」
安心した表情の彼の顔は、しかしその目には
「……どうして、泣いているの?」
涙があった。
彼の頬を触り、その手が濡れた。
「どうしてだろ……?」
家族を助ける為に、誰かを犠牲にした。
彼はミリルやあの男の境遇に中てられたのだろう。
そして、彼自身が私を助ける為にミリルを見殺しにした。
彼女は灯火台の下敷きになって、死んでしまった。灯火台の隙間からは人間の腕が見えていた。床には真っ赤な血溜まりができていた。
彼は身を起こし、涙を拭った。
そして、心配そうな顔で私の腕を見た。
「シキ、その腕……」
が、彼が言い切る前に私は「ここを出ましょ」と言って立ち上がった。
教会を出て、少し歩いた。
そのまま歩き続ける私の右腕を彼は掴んで言った。
「シキ……」
「何?」
「まず、その腕をどうにかしないと……」
「必要ないわよ。すぐに治る……」
「駄目だ。止血ぐらいはしておかないと……。それに、顔色も悪いし、ふらふらじゃないか」
確かに、頭は重いし、腕は痺れて動かせない。足元も覚束無いが、大したことではない。治そうと思えば、治せる程度だ。
しかし、歩いた軌跡が残されていくのはあまりよくない。
だから、今回ばかりは彼の言う通りにしておくことにした。
広場の長いすに座らされ、イキが私の左腕を優しく持った。だが、それでも痛みが走る。
「……ッ」
彼は鞄から大きな布を取り出し、腕に巻いていった。
改めてみると、悲惨な状態だということが分かった。
布の端と端を結び、「よし」と彼は声を出した。
不意に、くらっときた。
彼のほうへと体が傾き、抱きとめられた。
「大丈夫か?」
「……うん」
私自身、安心しているのだろう。
だから、体の緊張が解けた。
体が重く、思うように動かせない。
少し休めば、よくなるだろう。
「ねえ、イキ……」
「何? シキ」
「少しだけ……、少しだけこのままでもいいかな?」
彼の腕の中で、自分でも驚くような言葉が出た。
撤回しようにも、もう遅い。
彼は、優しい声音で、
「うん、いいよ」
頷いた。
その応えに「ありがとう」と言いたかったが、声が出なかった。