episode26
「本を探しているんだろう?」
「え?」
唐突に質問されて、びっくりして何も言えなくなってしまった。
場所は帝国の帝都――ヒルヘル。訳あって、ここにきて迷子になっていたところ、通りすがりのイルさんに助けられたのだった。どのような本だったか分からないけれど、確かに彼の言う通り本を探している。表紙の特徴だったり、厚さや内容を知らない。題名すら読めない。
「いや、だから……本を探しているんだろう?」
言い直すイルさん――本名をイルフェスというが、彼がそう呼んでくれというからそう呼んでいる。傍から見れば、一二歳の少女と二十代前半の青年が町を歩いているように見えるだろう。実際、私の方が年上なのだが。
「はい……そうです」
「何か考え事でもしてた?」
「え? どうしてですか?」
「いや~、びっくりしてたからさ……」
「……ご、ごめんなさい」
「あ、いや、いいんだ。キョトンとした顔も可愛かったからさ」
「………」
彼はいつも、私のことを可愛いと言う。恥ずかしくはないのだろうか。
私が悶々としている間に、彼は、
「あ、シキ……あったよ。行こう」
と私の手を取って、本日何件目かの本屋へ向かった。
*
朦朧とする意識の中で、ぼんやりとイキの顔が見えた。
「あ、起きた?」
私を見下ろす彼の顔には安心の色が浮かんでいた。私は彼の膝の上に頭を乗せている。身体の上には赤い布が掛けられていた。彼の手が私の頭を撫でる。
「イキ……ここどこ?」
「ん? ああ、町の広場だよ」
「どうしてここにいるの?」
「覚えてない?」
と言われて、くらくらする頭を押さえながら起き上がり思い出す。膝の上の赤い布はイキが私にくれた頭巾のようなものだった。そして、その後にアッシュがアリにあげた本を読んで、それで倒れたのだ。
「起きて大丈夫? もう少し寝ててもいいけど」
「うん、大丈夫。あと、思い出した。ごめんね、迷惑掛けちゃって……」
「いいよ、僕も気づいてあげられなかったし。君がのぼせてたなんて知らなかった。ずっと風呂に入ってらた駄目じゃないか……」
「あはは、自分の身体がこんなに弱ってるなんて思わなかったから……気づいたら、ね」
「あー、そういう時ってあるよね。でもまあ、君の場合病み上がりなんだから少しは気を付けないと……」
「うん、じゃあ次は気を付けるわ」
すっと爽やかな風が通り抜けて、火照っていた頬を冷ましていく。どのくらい寝ていたのだろう。それをイキに聞くと、「二十分くらいだよ」とすぐ答えてくれた。
彼の話を聞くに、私が倒れてからイキはこの広場を選んだらしい。近くに宿屋があるはずなのにどうして、となったが、彼曰く――ここのほうが静かだし、風が通って涼しいと思ったから。実際、この広場がある通りと、祭りの露店で賑わっている通りとでは建物を一列挟んでおり、建物たちが陰になっていて広場は暗い。人が密集しているあの通りは結構熱気があって、暑かったりもするのだ。だから、ここを選んだ。
アッシュたちはまだあの通りで遊んでいるらしい。私が目を覚ますまでイキはここにとどまり、目が覚めたら宿に戻ると言ってここに残ったらしい。
「いいの? アッシュたちと行かなくてさ……」
私が聞くと、
「いいよ。君を宿に置いて行って、もし僕がいないときに君が目を覚ましたら困るかなって思ってさ。君のことを独りにはできないし……」
即答した。
その彼の笑みに私は思わず、大人びたものを感じた。
彼は私が思っているよりも、大人なのかもしれない。身体だって、今よりも大きくなるだろう。そして、何より人間だったころの記憶を取り戻した時、イキはどうなるのだろう。私の知っている彼ではなくなるのだろうか。
そう考えるとなんだか、イキがどこかに行ってしまいそうで怖くなった。
急に寂しくなった私は思わず、
「………シキ?」
彼の服を摘まんでいた。
「あ、いや……えっと………」
何を言ったらいいか分からなくなった私にイキは、
「いいよ、離さなくても。吃驚しただけだしさ」
と服を掴む私の手が離れないように、自分の手で包んだ。
彼の手は、私の手より大きくて暖かかった。
それに安心する。
「……あ、ありがと」
私が小さくそう言うと、イキは「えへへ」と笑って頷いた。
しばらく、彼と手を繋いだまま夜空を見上げた。今日は、町が明るいせいか、あまり細かい星までは見えなかった。月は三日月よりも欠けていてもうすぐで新月になりそうだった。イキと会ってかれこれ二か月くらいだろうか。いや、もう少し少ないかもしれない。私は三日ほど寝ていたせいで、彼との時間が長く感じられない。昔から、楽しいと思うことは風が通り過ぎるくらい早い。気がついたら、嫌なことがまた始まっていて、そちらの方が持続時間が長いのだ。
だから、ちょっとだけ怖かった。
この楽しい時間が終わればきっとあの悪夢のような時間が、私を蝕んでいくようにせせら笑う鬼の笑い声が、待っているのだと思うと心が擦り切れていく。
楽しい時間なんてなければいいのに。
そう思う日もある。
楽しさを知ったから、幸せを知ってしまったから、怖くなる。悲観ではないが、不幸という塊が来てしまうことにとてつもない恐怖を感じてしまう。
もういっそここまま彼に殺されてしまえば、この幸せな時間のまま殺された方が、私は幸せなのに……。
「シキ……?」
「え?」
唐突に呼ばれた名前に、驚きながら彼の顔を見た。
「な、なに?」
「いや……すごく―――ううん、何でもない」
「なに、そっちの方が気になるだけど……」
イキが誤魔化そうとしている。
私が詰め寄ると、彼は苦し紛れに、
「調子は大丈夫なのかなあ、って……」
「まあ、調子の方はたぶん大丈夫だけど……それだけ?」
「あ、うん。大丈夫ならいいんだ。寒くなったらそれ羽織ればいいしね」
と、彼は私の膝に掛けている赤い頭巾を指さす。
「ねえ、そう言えばこれってかなり高いものだよね?」
私は彼に聞いた。
私が意識を失う少し前にイキがくれた頭巾の生地は、安物とは思えぬほど上等なものだ。薄いお粗末な布ではなく、しっかりと外套といったふうに布に厚みがある。しかし、男性物というには肩幅が狭く女性用に作られている。そんじゃそこいらで、おいそれと買えるような代物には見えなかった。
「まあ、それなりに値は張ったよ。ああ、でもきちんと自分のお金で買ったからそこは安心して」
「え? でも、あなた宿代で財布が空になったって……?」
訳が分からず首を傾げていると、彼は説明してくれた。
私たち女性陣と別行動をしている時、彼らは彼らで個人個人別行動をする時間があったらしい。アッシュとシーレから離れた隙に、イキは天界にこっそりと帰って大急ぎでお金の保管所に行って自分の金庫からいくらか持って財布に入れて、何食わぬ顔でここに戻った。そして、私が彼の財布に入れたお金は使わず、自分の財布から出して買った、らしい。
「別に、私があげたやつで買ってくれてもよかったのに……」
私がそう言うと、彼は頭を振り肩を竦めた。
「いや、やっぱり女の子にプレゼントするのに、その女の子から貰ったお金で買ったら、格好良くないだろう」
「そういうもんなの?」
「そうだと思う……」
自信なさげに答える彼に、たぶん誰かの受け売り何だろうな、と分かった。彼は実際、あまり女性からどう思われるか、とか気にしていないみたいだったから。
「イキは……どんな女の子が好きなの?」
「え?」
「………」
自分でも何故そんな質問で口から出てきたのか分からず、驚いた。訂正しようとする前に、イキが答えてしまった。
「まあ、可愛い子は好きだよ」
「た、例えば、どんな?」
「どんな? んー、シキみたいな子かなあ」
「私みたいな子って?」
果たしてどういうこなのだろう?
人を殺すような人だろうか。思っていることがすぐ顔に出てしまう、間抜けな子だろうか。
前者はまずないだろう。
私が思考を巡らしている間に、彼は答えた。
「よく笑うし、よく拗ねて、よく泣いている……まあ、表情がコロコロ変わるのは見ていて飽きないね。尤も、君は誤魔化すし、我慢するからそこはあまり好きじゃないけど……。強いて言うなら、君の笑った顔が一番好きだね」
彼は無邪気に笑った。サラッと、そんなことを言っては笑って、私の胸を締め付けてくる。顔が熱い。何で?
「ねえ……」
「なに?」
「私の好きなところ、じゃなくてあなたの好きな子の話をしているのよ?」
「え? ああ、そうだったね。でも、まあ、別にこれと言って、意識して女の子を見ているわけじゃあないからね。僕が知ってる女の子は君ぐらいだし」
「生神にはいないの? 女のひと」
「いるよ。僕より年下の子が一人と、僕と同じくらいの子が二人くらいだったかな。あとは年上の人が何人か……でも、家族みたいなものだろう?」
「……うん、そうね」
確かに、生神とか死神とか……それぞれコミュニティやらファミリーと呼ばれる集団で組織の中で家族のように接しあったりしているところが多い。仕事を共に何百年とやっていくなかで、ずっと他人の付き合いというわけにはいかない。仕事だけの付き合いというのは、あまり仕事の効率がよくないらしい。だから、それぞれ入った順に兄、姉、弟妹、とお互いに意識する。ほとんどの者が家族のいない天涯孤独な人ばかりだから都合がいい、というのもある。私がかついていた死神の組織では、大助さんが一番上の兄で、私が末っ子だった。みんな優しい人たちばかりだったのに、私はその優しさを受け入れるのが怖くて、いつも突っぱねていた。反抗期の子どもみたいだ。それに気がついたのは、大助さんを殺す時だった。馬鹿みたいだ。
それ以来だろうか。誰かの優しさを受けることに非常に億劫になってしまった。それまでも億劫だったのが、さらに悪化している。留まるところを知らない億劫や臆病がイキの優しさに触れてしまった。きっと私は、イキがいなくなったら壊れてしまうだろう。ずっと暗闇から逃げ続けていたのに、それすらも止めて、今の『シキ』を保つことすらできなくなって、壊れてしまう。鬼に抗うことなく食べられてお終い。
私は人を殺すことをやめることはできない。
でも、そうなったときイキは再び私の所へやって来て、またあの日のように、
『君を殺したい』
そう言って、殺そうとしてくれるだろうか。
彼の知っている『シキ』ではなくなった私を彼は果たして殺してくれるだろうか。
悶々と浮かんできた妄想をかき消したくて、他のことを考え始めた。
私が気絶する前のことを思い出す。
「ねえ、アッシュがアリに上げたあの本って、どういうことだったの?」
結局、私は自分の中で疑問のまま終わってモヤモヤしていたことを彼に聞いた。
すると、
「え!?」
彼は分かりやすく肩をびくっと揺らして、私の顔を凝視した。私の手を握る彼の手からは汗が滲んできた。
「どうしたの? 変なことでも聞いた?」
「変も何も……読んでも分からなかったの?」
「分からなかったから、こうして聞いているんじゃない……」
「うん、まあそうだよね……」
彼は目を反らした。
彼の顔には焦りと困惑の色があった。
私はイキに何か変なことでも聞いてしまったのかな?
「どうしたの? 私、変なことでも聞いた?」
「え? あー、いや、別に……。大丈夫だよ。君になんて言って説明しようか考えてただけだからさ……」
彼は私の方を向いてはにっこりと笑った。
説明をする、ということは何でも聞いていいのだろうか。
「あの本に書いてあった『中に入れる』って何を中に入れ―――」
が、そこまで私が言ったところでイキが慌てて、私の口を手で塞いできた。
数秒の沈黙が流れ、その間焦るイキの目と目が合った。
「――――?」
声を出そうにも彼に塞がれていて、何を言っても言葉にならない。
「シキ……」
「………?」
「……そのことは忘れよう」
「……へも(でも)!」
「いいから!」
「!?」
「分かった?」
静かに私の目を見つける彼の勢いに圧倒されて私は黙って頷いた。私が頷き終わるのを見届けると、イキは手を離してくれた。
安心したかのか、イキはため息を吐いた。
あんなに声を張り上げる彼を私は久しぶりに見たような気がする。いつもは理由が分かっていたけれど、今回ばかりは何故あんなに叫んでいたのか分からなかった。目の前で叫ばれたのは初めてだった。
「じゃあ、いつ説明してくれるの?」
私が聞くと、彼は、
「別にあれは僕が説明しなくても、誰が説明しなくても自然と学んでいくものなんだけどね」
「そうなの?」
「うん。まあ、お兄さんに大切にされたんだね」
と頭を撫でられた。
兄を褒められて悪い気はしなかった。
「私には、誰も教えてくれないの?」
「……まあ、誰か教えてくれる日が来るとは思うよ」
「イキじゃあ、駄目なの?」
イキは暫し黙って私を見た。それから苦笑して、肩を竦める。
「僕でも構わないけど、そういうのは君の好きな人とやった方がいい。僕じゃなくてもいいんだ。それに……」
「それに?」
「……誰かが君に教える前に、僕が君を殺してしまうかもしれないしね。どうなるか、正直僕にも分からない。君だって、今すぐ子供が欲しいってわけじゃあないんだろう?」
「子ども産んだら私死ぬわよ」
「あははは、知ってるよ。そんな残酷なことを君にさせたくない」
彼の私の手を握る力が強くなった。若干だったが、確かに彼の言いたいことが伝わった。だから、
「………」
返事の代わりに彼の手を握り返した。
それから暫く静けさが訪れた。私は真っ黒な空を見上げた。視界の端に、あと数日が経てば新月になるであろう月を見つけて、それ以外はないのを再度確認した。遠くからざわめきが風と共に運ばれてきた。たまにイキの横顔を盗み見る。彼はぼうっと地面を見ていた。
イキも何を話せばいいのか分からないのかもしれない。私は、別に何も話さなくてもいいのでは、と思って何も話さなかった。話題が尽きてしまった。いつも話しかけるのはイキの方だったから、私はどう話しかけたらいいのか忘れてしまった。
彼とは別の意味で困っている私に、イキが漸く話しかけてくれた。
「そろそろ帰る?」
「うん。あ、でも、アッシュたちは?」
「彼らならまだ騒いでいるんじゃないかな。ほら、あの通り結構盛り上がってたし」
「イキは行かなくていいの?」
「僕? いいよ。明日思いっきり騒ぐからさ」
イキは元気に笑って、立ち上がる。繋いだままだった私の手を引いて、私も立ち上がらせてくれた。一度、手を離し頭巾を被った。フードは頭に被らないで肩に羽織るようにしたのだが、
「これは被ろうよ」
「え?」
イキはフードを掴んで私の頭に被せた。
「ずっと、君この町に入ってから髪の毛の事気にしてたみたいだったからさ。これで周りに見られずに済むだろう」
彼が何故これを買ったのか、ようやく分かった。
再度イキと手を繋ぎ、彼に手を引かれるがまま元のあの通りに帰って行った。少しだけ、風が冷たかったが、彼と繋いでる手だけは熱を帯びていたことに沸騰しそうになったのは、それから数分経ってからの事だった。
***
帰ってから私たちがやったことと言えば、洗濯だった。帰り道に露店で石鹸の塊を幾つか買って、数日分の服を洗わないと、とイキと話し合いながら帰路についた。宿にはアッシュたちは帰っておらず、一応イキと私の服だけ、宿屋の中庭に行った。中庭には水路があって、そこで洗濯ができるスペースが設けられており、部屋には大きな桶と凸凹の洗濯板がどの部屋にもある、という親切な宿だった。宿代はそんなにかからないのに、サービスが素晴らしい。私個人としては、店主にチップを積みたいところだった。
イキのTシャツは三枚、ズボンが二本、私の服が一式あって、まず洗いやすいシャツから優先的に洗った。その次はズボンを洗い、私の服を洗った。勿論下着も私のと彼のを合わせて洗った。最後、イキのコートを洗う。これは生地が厚く、量も多い。なかなかに洗うのに骨が折れた。洗い終わり、濯ぎをして、いざ絞ろうと思ってもなかなか生地の量が多いからうまく絞れなかった。悪戦苦闘する私を見兼ねたのか、イキが、
「僕がやろうか?」
と私の持っていたものを取って、
「あ、生地痛んじゃうから、絞るというよりかは握る感じでやって」
と私が言うと、その通りに彼はやった。私も同じようにやったはずなのに、彼がやるとすんなりと水が滝のように流れてくる。それにやっぱり、男の子だなあ、なんて感心してしまう。
「やっぱり、力強いね」
「まあ、鍛えてるからね。君より非力だと困るだろう?」
「うん、頼りになるわ」
「頼られて嬉しいよ」
イキは微笑む。
それから、脱水はイキが全てやってくれた。その間私は、下着だけ私が絞って、洗濯に使った水を捨てた。空になった桶に脱水の終わったものを入れていく。
二階に部屋があったので、桶をイキに持ってもらった。部屋に帰ると、まず洗濯物を干した。部屋にはベランダが備え付けられており、洗濯竿も完璧に付いていた。そこにイキのシャツやズボン、コート、私の服……などなどを干し、下着類は室内に干した。
「コート乾くかな?」
イキは心配そうな顔で干されたコートを見つめた。
「まあ、暖かいし明日の朝には乾くとは思うけど……明日の闘技で着るの?」
「その方がかっこいいかなあって思ってさ」
「かっこ良さがいるものなの?」
「いるでしょ」
「そういうものなの?」
「たぶん……」
肝心なところで彼は曖昧になる。また誰かの受け売りなのだろうか。
暫くして、アッシュたちが帰ってきた。
手には色々なものを持っていたが、それ以上に気になるものがあった。アッシュの顔でボロボロだったのだ。誰かに殴られたのか、それともアーシェが殴ったのか、とにかく彼の顔が赤く腫れていた。
「その顔どうしたの?」
イキが聞いた。
すると、アッシュの代わりに、シーレが呆れたようにため息をついてから答えた。
「女の人を面白半分で口説きに行って、返り討ちにあったんだよね?」
「おう……」
「全くお兄って馬鹿だよね~。ね、アリ?」
「え……あ、その……」
アリはおどおどしながらも、アッシュの顔色を窺いつつ頷いた。
それにはアッシュは流石に自業自得だと肩を落とした。イキはそんな様子に少し笑って、シーレも笑った。
シーレはベランダに干してあるシャツを見て、
「洗濯したのかな?」
「うん、シキがそろそろ洗おうって」イキが答える。
「へえ、じゃあ俺らも洗う? 結構溜まってきたはずだし……」
シーレが提案するとアーシェとアリは頷き、アッシュも「いいぜ」と手を上げた。彼らが洗うなら、と私は自分が使って残っていた石鹸を渡した。アッシュは赤く腫れた顔を冷やすとかで部屋に残り、他のみんなは服と盥を持って出て行った。私は一応自分の治療なんかでイキが持ってきた包帯やガーゼと消毒液を使ってアッシュの傷を手当てした。殴られたと言っていたのでほとんどは打撲痕なのだが、少し引っ掻かれた痕や擦り傷なんかもあった。何をどうすればこうなるのだろう。
女の人に口説いたと言っていたが、どう言って口説いたのだろうか。
するとイキが、
「ねえ、どんな風に口説いたの?」
「んー、まあ……何人かやったんだけど脈がなさそうだったんだけどさ、なんだか時間が経つと向こうから声を掛けてきて、そしたらどんどん人数が増えてきて……。『私に言ったあの言葉は嘘だったの!?』みたいな?」
「へえ、アッシュはなんて言ったのかい?」
「『今夜俺と一緒にどうだい? 世界一美しい君となら、俺は楽しくないなんてことはないさ!』」
何故か私の顔を見ながら言う。顔は本人曰くキメているらしく、目は普段よりも細くしていてどことなく顔全体がキラキラと輝いているように見えた。
そのせいで、手当てをしていた手が滑ってしまった。
「い、いて—―!」
「ご、ごめんね……?」
「いや、大丈夫だぜ。それよりも、シキちゃんは手先が器用だな」
なんて、唐突に言われた。
「そ、そうかな?」
「ああ、いい嫁になれるんじゃないか?」
「あ、ありがとう……」
しどろもどろになりながら返答をする。周りからすれば、結構言葉に詰まりながら答えている私が見えているだろう。イキが相手だとそんなことはないのに……。なんだろうなあ、と思いながら手当てをしていると、イキと目が合った。彼の顔が微妙なものになっていて、私の会話能力に少しびっくりしているらしかった。それに、自分の酷さをひしひしと感じざるを得なかった。
アッシュの手当てを終えてから数分経ったところでアリたちが帰ってきた。ベランダの竿に干したが、足りなくて部屋にロープを張ってそこに余りを干した。部屋中に洗濯物が吊るされている光景は圧巻だった。でも、これが集団での旅なのかもしれない、と少しだけ楽しくもあった。
彼女らが帰ってきてアッシュはシーレたちの和の中に入っていった。その後にイキに先ほどの私の話し方について聞いてみると、
「ま、まあ……初々しいかな」と若干引き攣った笑顔で答える。
「悪く言えば?」
「ぎこちない」即答だった。
分かってはいたが、真正面から言われると堪える。どうしても、何百年と経っても人見知りが治らない。肩をがっくりと落として、思わずため息が出てしまう。
「慣れないとなあ……」
私が小さく呟くと、イキが、
「何に慣れるの?」
「人付き合い……」
「ああ……まあ、いいんじゃないかな」
「どうして?」
「んー、人それぞれだと思うし、シキにはシキなりのペースがあるだろう?」
「でも、私が生まれて何年経つと思う?」
「あー……」
人それぞれのペースがあるとは言っても、私は生まれてこの方三五〇年以上は裕に超えている。それでもなお、人とのコミュニケーションが上手く取れないとなると、これはもはや病気なのではないだろうか。まあ、確かにここ二百年余りは人との接触を拒んでいた時期が少なからずあった。いや、人間の頃から人との付き合い方というか、人との距離というものを推し量ることが苦手なのだ。それに追い打ちを掛けるような、私の引き籠り癖。周りから見れば、そうなっても当たりまえだ、と拳骨を食らうかもしれない。
イキは私の質問を聞くと、目を反らした。それから、フォローする言葉が浮かんだのか再度私の目を見て、
「まあ、大丈夫だよ」
「なんで?」
「僕がいるから」
微笑んで言った。
僕がいるから安心しろ、と彼は自信たっぷりに言う。
なぜか、と聞くと、
「僕が君をフォローするからさ。まあ、あれだよ。僕が苦手なことは君に任せて、逆に君が苦手なことは僕に任せてよ。ほら、僕子ども苦手だしさ、それでラゾットでは上手くいったし。今だって、みんなに話しかけられて君が狼狽えている間に僕が答えているだろう?」
「うん」
「そんな風に、お互いカバーし合えば大丈夫だよ」
「じゃあ、人付き合いはあなたに任せればいいの?」
「うん、まあね。あ、でも君にしか答えられないようなことは、流石に僕じゃあ無理だよ。臨機応変にね」
「分かってるわよ。……イキの苦手なことって他にはないの?」
質問すると彼は少し考えてから、
「早起きが苦手かなあ」
と肩を竦ませて笑った。
***
夜が来た。
静かで、青い夜が来た。
私以外、みんな寝ている。六つあるうちのベッドの中で窓際の所が私の場所になっている。向かいにはアーシェが寝ていて、その隣にアリ、彼女の隣にアッシュが、その向かいにシーレ、私の左隣にイキが寝ている。私は寝るふりをして、彼らが寝たのを確認して起きたのだった。上半身だけ起こして、風に揺れる洗濯物の隙間から覗く月を見つめていた。三日月のように欠けた月だが、たぶんあと数日すれば新月がくるだろう。イキと会って、二か月になろうとしていた。
イキと過ごした時間が何だか短く感じる。けれど、不思議と私はイキのことを昔から知っていたような気がしてならない。あの口調だったり、性格をどこかで見たことがあるような……。でも、それが思い出せない。
最近気がついたことなのだが、死んでからの記憶がだんだんと曖昧になってきているような、言われたり、それに似た状況がくると、ふとした瞬間に思い出すのだが、能動的に思う出そうとしても思い出せなかったりする。長い時間、長い長い記憶が綻び始めているということだろうか。そう言えば、ファベルさんも昔のことは、印象的なものを覗いて些細なことまでは覚えていない、と言っていた。私はいつか、これまで殺してきた人たちのことも、なかったかのように忘れてしまうのだろうか。そう考えるだけで、少しだけ怖くなる。
忘れたいと思ったことは何度もあった。
けれど、忘れて楽になるのはその一瞬で、いつか報復しにくるのではないか、と怖くなる。あの夢のように、私を責め立ててくるようで、壊れるほどの言葉に飲まれてしまいそうで、堪らなく怖い。
冷たい夜の風に、私は膝を抱えた。だが、ふと窓とは逆の方向に顔を向けてみると、隣で寝ている彼らの吐息や鼾が狭い部屋にささやかに響いている。それが何だか暖かくもあった。ちらりと、隣で寝ているイキの顔を覗いてみる。すると……。
「ん……」
イキの青い目が見えた。
私はびっくりして、身体を倒した。寝たふりをしてしまった。イキは少し欠伸をして、暫くベッドの上にいた。少しすると、立ち上がって裸足で歩いていく音がした。私はなぜかびくびくとしながら寝たふり続け、彼が去っていったことに安堵している。彼はどこかへ行って、それからすぐに帰ってきた。そのまま寝るのかと思っていると、イキの足音はぴたと私の傍で止まった。そして、彼は私のベッドに腰を掛けたように思われる。私はなおも寝たふりを続け、目を瞑っていた。イキが私の身体を抱え、どこかに寝かせられた。どうも頭のあたりがやんわりと暖かい。そう感じたと思うと、頭を暖かい手で撫でられた。
ばれるのではないかと鼓動が早くなる。
「シキ……」
と、彼は小さく呟いた。だが、小さくともこんな静寂の中なのだ。大きく感じてしまう。
彼は撫でながら話し始めた。独り言のつもりなのだろう。
「……君は、やっぱり人間と一緒に居たくないのかな? 確かに、怖いのかもしれないけれど……。僕さ、今すごく楽しいんだよね。まあ、初めてワイワイと旅をしているっていうのもあるし、人間の友達っていうのも初めてだからさ。でも―――少し君の気持が分かった気がするんだ。君が何に怯えていて、怖がっているのか分かったんだよね、たぶん。誰かと接すればするほど、失った時が辛い……というのかな、そういうのが分かった気がする。僕らと彼らとじゃあ、寿命も体の強さも違う。僕たちはそんなに死ぬという感覚があまりないけれど、彼らは死と近い。いつ死ぬかも分からない。明日死ぬかもしれないし、十年後死ぬかもしれない。それに比べて僕らは……。気がつけば、ここでの友達はみんないなくなっていて、僕は……僕たちは一人になってしまうだなあって……少し寂しくなっちゃった。それでも、僕は今のこの時を楽しみたい。誰かの人生の中で、一瞬でもいいから残せるものがあるなら、残したい。僕はここにいるんだって、ここにいたんだって、どこかに刻みつけたい。誰かの役に立って、誰かの『イキ』でいられるなら、そうありたい。でも―――。
君が嫌だって言うなら、僕はそれに従うよ。失うのが怖くて、失う時が来るのに怯えて、悲しそうな顔をしている君を見るのが嫌だから……。君はどう思う?」
そこで、イキは話すのをやめた。
暫しの静寂。その中にアッシュたちの寝息が響く。
私は……どうなのだろうか。確かに彼の言う通り、怖い。思い出を作れば作るほど、その人との別れ時が辛くなる。そして、彼らを殺したのが私なのだと思うと尚も怖くなる。生きているのが辛くなり、誰かといることが苦痛になる。本当は寂しいのに。それでも、失うのを一瞬でも考えてしまうと駄目だった。
しかし……と私はアッシュたちがいなくなった後のことを思い浮かべる。そこには、やっぱり誰もいなくて、寂しくて、けれど隣を見ればイキがいた。「大丈夫だよ」と、泣きたいのを堪えて微笑む彼が、私の頭を撫でていた。私はそれに泣いている。彼の手はやはり暖かくて、寂しさとか寒いとか感じさせない。今私を撫でている手も、その時の手も変わらないのだろう。
だから―――。
「ねえ、シキ……本当は起きているんだろう?」
「……!」
考え事に集中している中で、イキのその声が妙に大きく響いてきて思わず肩がびくついた。
「寝たふり続けなくてもいいよ」
目を半分ばかり開いてイキを見上げると、目が合った。そして、微笑む。イキにばれてしまい、罰が悪く起き上がる私。起き上がって彼の隣に座る。
「い、いつから気づいていたの?」
私が聞くと、
「最初から」
「最初って?」
「アッシュたちが『寝よう!』って言って、君がベッドに入った時からね」
それはもう、本当に最初からだ。
寝たふりするんじゃなかった、と後悔した。そもそもイキが起き上がった時に私も起きていればよかったのだ。それなのに……。
焦りと後悔が渦巻く私にイキが、
「で、聞いてたんだろう?」
「う、うん」
「じゃあ、君はどう思う?」
「………」
何が聞かれているのか、彼の顔を見ただけですぐに分かった。
イキの顔は少し怯えていた。たぶん、これが初めてなのだろう。そう言っていた。人間の友達は初めてだ、と。だからこそ、誰かを失うのも初めてでどうなるか分からない。私に怖いんだろう、と言ったように、イキも怖いのだ。強がっているが、やっぱり根は普通の男の子なのだ。神様と言っても、心は弱いままの人間なのだ。彼も、私も……。
けれど、私が彼に救われたように、彼がいてこうして笑っていられるように。私も彼の支えになりたい。
―――誰かの役に立って、誰かの『イキ』でいられるなら、とイキが言ったように、私は彼のための『シキ』でありたい。
そんなに怖がらなくてもいいよ。私は大丈夫だから……。
「まあ、怖いよ」
「うん」
「怖いけどね―――」
私はもう独りではないのだ。約束してくれたから。
あなたがそう言ってくれたから。
「―――私にはイキがいるから、大丈夫なの」
私はイキの手を包むように握って、彼の目を見た。さらっと、そんな言葉が出てきた。
イキはびっくりしたように動かなくなって、けれどそれも一瞬の事だった。彼は、微笑んで、
「そっか」
私の手を握り返してくれた。
傷の舐めあいかもしれないけれど、誰かに笑われるかもしれないけれど、私たちは私たちで不器用に生きていくしかない。空には星が輝いていた。




