episode16
―――六一年目。
外の音はまったく聞こえず、聞こえるのは鉄格子に囲まれた大昔からいる囚人の呻き声や、唸り声、鼾くらいだ。窓がないから、仄暗い。鉄格子の外にある廊下の壁に点々と蝋燭の火がついてるだけで、それ以外の明かりはない。鉄格子の後ろには冷たい石の壁があって、とても寒い。けれど、鉄格子を除けば、自室と何等変わり映えしない。だから、変に身構える必要も、気分が滅入ることもない。ここは、牢獄だ。罪人を捕らえて、逃がさない冷たい牢獄。
私がクロさんを殺した直ぐ後に、ファベルさんがやって来て、私は罪を犯したとの事で裁判にかけられ、そして、この牢獄に一年くらい収容されている。
呻き声を上げている囚人のほとんどが、あと数年で消えてしまうらしい。だから、そんな声を上げている。私はまだ、一年しか経っていないので、直ぐ消える心配はない。後何年、ここにいるか分からない。二、三年かもしれないし、数十年や、数百年だって在り得る。イルさんが死んでいなくても、私がクロさんを殺した時点で、彼との約束は守れなかった。だからといって、彼が死んで良かった、だなんて思っていない。結局、守れなかったのだ。私も、彼も。
目の前には、食事があるが、手をつける気分になれない。食欲がないのだ。ファベルさんに叱られ、一口だけ食べたことがあったが、直ぐに吐いてしまった。それ以降の食事は、一週間に一回とか、その程度しかしない。それ以外は、水を飲む程度で済ましている。睡眠もろくにとっていないが、この体は結構頑丈にできていて、眠いが我慢できるし、食事を取らなくてもある程度は大丈夫なのだ。寝たこともあった。けれど、嫌なものを見た。だから、怖い。怖くて、恐くて、寝たくない。もう、あんな物は、見たくない。寝たくて堪らなくても、それでも、我慢せざるを得ない。私は随分と、やつれてしまっている。本当に、どうしようもない。
最近では、頭の中に誰かが話しかけてくる。誰か、などと言うのは、とうに分かっている。鬼だ。私の中に巣食う鬼。死鬼だ。私と同じ名前の、鬼。まあ、基はと言えば、ファベルさんが呪縛鬼の名前である《死鬼》から、私の名前をつけたのだから、同じはずだ。しかし、名前は変えなくてもいいらしい。成り上がりは、生前の名前を用いても、問題はない。なら、ファベルさんはどうして私の名前を変えたのか。彼の考えていることは、あの仏頂面に隠れて見えない。
今日も私は、ベッドの上で膝を抱えて蹲っている。それしか、やることがない。何も、やりたくない。やる気が起きないのだ。憂鬱だ。
そんなことをしていると、時間感覚が薄らいでいく。今は、昼か、朝か……それとも夜か、よく分からない。窓も時計もないから尚更、分からない。
カツカツ、と乾いた足音が鉄格子の向こうから、小さな火の玉とともに近づいてきた。私の傍まで来たところで、誰だか漸く分かった。浮遊する火の玉の仄かな光に照らされた、少し仏頂面のファベルさんだ。私の傍まで寄って、何も言わずに、ちら、と床に置かれた食膳を一瞥し、静かに言った。
「食べたらどうだ?」
「いえ、食欲が、ありません……」
「昨日も同じことを言ったではないか。もう、一ヶ月だ。そろそろ、食わんと、お前本気で死ぬぞ?」
「………」
黙った私にファベルさんは、睨み、それから、
「お前、死にたいのか?」
と聞いてきて、それに、
「どう、でしょうか……。でも、ファベルさんはそれを、赦してはくれないんでしょう?」
と投げ遣りにそう言うと、矢張り彼は再び睨んできて、
「当たり前だ。死ぬ事を赦す者がどこにおろうか。それに……」
が、私がそれを遮って、
「フリールさんが悲しみますね……」
そう言うとファベルさんはとうとう黙ってしまった。
それから、暫く沈黙が続き、ファベルさんは私を見下ろして、
「お前、随分と変わったな」
なんてことを唐突に言ってきた。
「……そうですか?」
「ああ、変わったよ、シキ……。お前は、生前のお前はあんな事をしたらまず、泣き散らして、それから、自殺してたろうに」
「今も、自殺しているようなものではないんですか?」
食事や睡眠を取っていない時点で、死ぬ気のある人のすることだ。自殺と変わらない。そもそも、ここでは、この牢の中では呪縛鬼を具現化できないのだ。だから、自殺できない。しかし、私はするほどの度胸も、覚悟もないのだ。臆病者だから……。弱虫の卑怯者だから。死ぬ勇気すらない。莫迦莫迦しい。
「違うな。確かに、お前のそれは人間であったら、自殺だろうが……お前今は人間じゃあないだろ? だからだ。それに、今のお前は冷静すぎる。生前のお前ならまず、まだ、こんな風に会話なんてまともにできなかった……そうじゃないか?」
「………」
返す言葉が見つからなかった。
ファベルさんの言葉を聴いて、やっと、理解した。私はもう、人間ではないのだ。人を殺す、化物なのだ。だから、簡単には死なない。だから、冷静なのだ。化物だから。いつから、化物になったのか。いつまで、人間だったのか。今では、もう、分からない。人間になろうとしていた化物になってしまったのだ、と何故だか、妙に冷静に納得がいった。人を殺していくうちに、何かが、私の中の何かが壊れてしまった。もう、治せない。治す術がないのだ。仕方がない。仕様がない。こうやって、諦めていくしかないじゃないか。死神だからって、諦めるしかなかったのだ。信じろ、とまでは言わない。でも、分かってほしい。私だって、好きで殺したんじゃない。もう、嫌で嫌で仕方がない。どうせなら、辞めてしまいたい。逃げれるものなら、逃げてしまいたいくらい。けれど……、けれど、私にはそんな無責任なことを言える資格が、勇気がないのだ。妹を殺してしまったから、逃げるに逃げられない。恐いのだ。夢のあれのように、妹が恨んだような顔で『どうして、殺したの?』と『また、そうやって逃げるの?』と迫ってくるのが、堪らなく怖い。いつも、それで目が覚めるのだ。怖くて、逃げたくて、目を逸らしたくて、目が覚めるのだ。そして、いつも体中震えて、呼吸もまともにできないくらいに震えて仕方がないのだ。終には涙がどうしてか出てしまう。
黙ってしまった私に、呆れたようにため息を吐いたファベルさんは、ズボンのポケットから小さな何か光るものを取り出した。それはきっと、鏡だ。小さな鏡。そして、徐に、
「おい、シキ」
「なんですか?」
「お前、自分の顔見たか?」
などと問うてきた。つまりは、この牢屋に入れられてから自分の顔を見たのか、とそう聞きたいのだろう。だが、ここには鏡や硝子等の反射するものは置いていない。だから、今私の顔がどうなっているか、なんて想像するしかない。でも、なんとなく、分かる。笑ってはいないことは確実だ。ただ、やつれているだろう。
「見ていません」
「そうか……。じゃあ、見てみろ。これが今のお前だ」
ファベルさんは鏡を私のほうへ向けた。鏡に映る自分の顔が少しおかしいと感じた。鏡の奥の私の目は、真っ赤だった。充血しているのではない。瞳が鮮血のように真っ赤になっているのである。まるで、どこかの物語に出てくるような化物みたいだ。けれど、不思議と落ち着いていた。化物を想像したとき、ああ、やっぱり私は化物になってしまったのだ、と合点がすんなりとついた。
「……化物、みたいですね」
私の言葉が癪に障ったのかファベルさんは、
「それは、自分の事を言っているのか?」
と低い声で言う。
私は素直に、違うともそうとも言えず、
「どうでしょうか。私にも、分かりません」
と曖昧な答え方をした。
それから、ファベルさんは何も言わず、私の前から去っていった。
小さくなっていく彼の背中を私はずっと見ていた。なんだか、申し訳なく思ってしまう。本当に、私は莫迦だ。とうとう、嫌気が差してくる。
数日か、数時間が経って、再び食事が配給された。けれど、食べる気にはなれない。ただ、水だけは飲んだ。すると、何故だか水を飲んでから、体が妙にだるく、頭がぼうっとしてきた。瞼が重く、今にも寝てしまいそうだった。我慢していたが、それも限界だったのか、気づかぬうちに寝てしまった。
*
夕方の、見慣れた教会で、私は独りぼっちでいた。誰もいない、静かだ。奇妙なくらい、静寂が張り詰めている。町の音も、風の音も、草木が揺れて擦れ合う音も、何も聞こえない。聞こえるのは、私の鼓動と、私が呼吸する音だけである。
教会の天井を見上げて、それから、目線を元に戻す。明るい。昼ぐらい、だろうか。
分からない。
教会から出てみて、思わず息を呑んだ。町にいるはずの人が、誰一人としていないのだ。見渡しても、民家の窓から中を窺ってみても、誰もいない。蛻の殻。まるで世界に私独り取り残されたような気分で、急に堪らなく恐ろしく思って、町を散策してみた。けれど、誰とも会わない。恐ろしい静寂が私の胸を締め付けてくる。怖くなってきた。もしかして、と思い、急いで自分の家へと走ろうと思ったところで、
「何しているの? メイリス」
と後ろから、聞きなれた友人の声が聞こえた。それに、安堵し振り向く。
唯一の友人である彼女は、赤みがかかった茶髪の髪を一つに束ねていた。慌てていた私のことを、きょとん、とした様子で私を見ていた。
「えっと……、何でもないです」
「本当に?」
「え、あ……うん」
「そっか」
安心したように微笑む彼女に、私は騙している気になってしまい、居ても立ってもおられず、
「えっと、今日はあまり人が少ない、かなって……」
と思わず呟いた。いきなりこんな事を言い出してしまって、気まずくなり、彼女から目を逸らした。
すると、
「何を言っているの?」
恐ろしく落ち着いた冷たい口調が耳にはっきりと入ってきた。いつもの彼女の声音とは、まったく違って偽者ではないか、と疑った。
驚いて、「え?」と彼女のほうを恐る恐る見てみると、
「……なん、で?」
血だらけだった。首に深く切り傷があって、そこから大量の血が流れ出て、地面に落ちていく。ふらふらとした足取りで、顔色が生きているとは思えないほど青かった。
戦慄を覚えた。
「なんで? って、貴女の所為じゃない」
低い声でそう言う。
「ち、ちがっ……」
「何が違うの?」
「わた、しは……私は、そんなこと、して……」
言葉が上ずってしまい、上手く言えない。
怖くなって、その場から逃げ出した。後ろからは「どうして逃げるの?」と声が聞こえる。すると、突然その声も聞こえなくなったが、それでも怖くて仕方がなくて、構わず走った。目の前から、兄の姿が現れた。足を止めて、兄を見た。けれど、それも友人同様、血だらけなのだ。無残な姿で、迫ってくる。
「君の所為だ」
と言って迫ってくる。
嫌だ。
後ずさりするが、後ろから友人が、弟のルーヤが迫ってきていた。そして、右からも、左からも見知った人が迫ってきていた。誰も彼も、私が生前から死後に至るまで殺してきた人たちだ。覚えている。全員、顔を覚えている。どんな表情をしていたのかも、どんなことを私に言ったのかも、全部覚えている。その全員が私に向かって、「お前の所為だ」「なんで殺したんだ?」と言ってくる。それに、何も言えなくなる。足ががたがた震える。
「違う……私だって、好きでみんなを、殺したんじゃ………」
が、それを遮って、妹の声が耳に刺さった。
「そうやって、また逃げるの? お姉ちゃん」
「………っ!」
その言葉に、呼吸が上手くできない。
イニスは不適に笑って、私の後ろへ指をさして、
「ほら、振り向いて」
などと言う。それに、私はおずおずと振り向いてみると、先ほどまで呻いていた人たちが無造作に倒れていた。ぴくりとも動かない。死体だ。骸が地面を埋め尽くしている。けれど、呻き声は頭の中に響いてくる。先ほどよりも大きく響いてくる。それが、堪らなくて、耳を塞いで蹲った。目も閉じたが、涙は零れていく。呻き声は大きくなっていく。
もう嫌だ。
逃げられるものなら逃げたい。
そう思うと、いつもいつもアイツはやってくる。アイツが来ると、声は唐突に消える。
そして、言う。
「キミはまた逃げるのか―――」
*
そこで、目が覚めた。
目線の先には、石のごつごつとした天井。それ以外はない。
上半身を起こしてみて、不思議に思った。何故だかベッドで寝ていた。ベッドに入った覚えなどない。水を飲んで、そしたらなんだか体が重くなって、我慢しきれずに寝てしまったのだ。けれど、いつベッドに入ったか。それが謎だ。いや、だいたい予想はつく。ファベルさんだ。彼なら、私を見に来た時に私が床で寝ていたらきっとベッドに運んでくれるだろう。だから、きっとファベルさんが私をベッドまで運んでくれたのだ。そう思うことにしよう。
けれど、今の私にとってそんなことは重要ではなかった。布団を握る手に、透明な液体がぽたぽたと落ちてきた。それは私の涙だ。嗚咽が抑えることができずに、出てくる。涙が流れるたび、夢のことがぽつりぽつりと頭に浮かんで、離れないでこびりついてくる。この夢を見たのは、この牢獄に入れられてからだ。見たくないから、寝るのを避けていたのに。思い出しては、慄然とする。妹の顔も、兄の顔も、私がこれまで殺してきた人たちの顔も全部思い出して、思わず、
「……ごめんなさい」
と小さく嗚咽を交えて呟いた。
みんなの顔を思い出すたびに、謝った。頻りに謝ったのだ。
私だって、殺したくなかった。
けれど、それは口にできなかった。口にするのが怖かったのだ。妹の言うようにこれを言ってしまえば、私は逃げたことになる。それをしたら、妹や兄はどんな顔をするだろうか。私がこれまで殺してきた人たちは私を恨むだろう。それが堪らなく恐ろしく思えたのだ。
「ごめ、なさっ……」
と再び呟くと、鉄格子の外から間の抜けた声音が聞こえた。
「あ~、変なタイミングで来ちゃったなあ」
その声がする方を振り向いてみると、そこに大助さんがいた。少し気まずそうな顔で、目を逸らしていた。
私は涙を拭って、
「大助さん、どうして……?」
そう問うと、
「用事がなきゃ、来ちゃ悪いかい?」
「あ、いえ、悪いわけじゃ……」
「まあ、用事がなきゃ君のところなんか来ないよ」
「え……」
「今日は用があるから、来たんだけどね」
そう言いながら、コートのポケットから一つの鍵を取り出した。妙に新しい鍵だ。大助さんはそれを鉄格子にある鍵穴に差し、そのまま捻った。かちゃり、という音で開いたのが分かった。鉄格子に手を掛けて、そのまま開いた。
「え……?」
目の前の、彼の行動に唖然とする。しかし、大助さんはそんな私の驚きなど諸共せず、当然といった感じで牢屋へと入ってきた。
「あの、大助さん、開けたらいけないんじゃないんですか?」
私の問いに、
「え? 大丈夫だよ」
と笑って言った。
何が大丈夫なのかよく分からない。廊下にいるはずの看守の方を見てみると、倒れていた。寝ているのか、気絶しているのか、恐らく後者だろう。大助さんがやったのだ。しかし、当人は悪びれもしない。
「大丈夫とは思えないんですけど……」
「だって、俺は君をここから連れ出そうとは思っていないしね。君だって、ここから出ようとは思っていなんだろう?」
「まあ、そうですけど……」
「なら、大丈夫さ」
何が大丈夫なのか分からない。
大助さんは当然のようにすたすたと、私の方へ寄って来て、ベッドに腰掛けた。私も大助さんの隣に座った。すると、大助さんは私の頭へその大きな手を乗っけた。
「また、泣いていたのかい?」
そう言ってきた。
それに私はまだ目が濡れていることに気づいて、
「あ、ごめんなさ……」
拭おうとしたところで、それを制止させられた。大助さんに腕を掴まれたのだ。
大助さんは静かに、優しい声音で、
「もう、謝らなくていい」
と言った。
暫く、沈黙が流れ、それから、大助さんは居心地悪そうに、
「あー、今日はこれを君にもって来たんだ。どうせ、ここにいたって暇だろう?」
そう言って、紙袋を出してきた。
「なんですか? これ」
「まあ、見れば分かるさ」
紙袋の中身を見てみると、何冊か本が入っていた。けれど、大半は私が読めない字の本だった。少しばかり疑心が芽生える。
「あの……、これ私が読めないものばかりなんですけど」
「あは、バレた?」
「………」
「まあでも、中身見れば分かるさ」
と言うので、一冊手に取ろうと思ったら、
「後で見てね」
と止められた。
何故だか、分からなかった。
「ああ、そうだ。ファベルは酷いよね~。」
「え? 何がですか?」
「え? 気づいていないのかい? ファベルは君の飲み水に、睡眠薬を入れたんだよ」
だから、眠くなったのか、と何故だか落ち着いて理解ができた。
「そう、ですか……」
私の反応に驚いたように、
「あれ、気づいていたのかい?」
「あ、いえ、なんとなくそんな気がしていたので……」
「ふ~ん、そっか……まあでも、ファベルも君を思ってそうしたんだと思うよ。シキは最近寝ていない! って、怒ってたからさ。アイツなりの優しさだよ。悪く思わないでほしい」
「別に、ファベルさんのことを怒ったりなんて、していません。寧ろ、感謝してます」
「そっか……。そういえば、君はさ、ファベルが君にシキって名前を付けたか知ってる?」
大助さんはそんなことを聞いてきた。勿論、私はそんなことを知らない。まったく知らないのだ。
「え……知りません」
「アイツは、君に生前のことを忘れて、自由に自分の好きなように生きてほしい、って思ったから名前を変えたんだ。メイリスとしてではなく、別のシキとして……今度は幸せになってほしい。ファベルはいつも、我侭だけど、あれはあれでも結構色んな事を抱えているし、色んな事を考えている。だから、君はもう少し、ファベルくらいとまでは言わないけど、我侭になってもいいんだって俺は思うけどね」
大助さんの言葉に呆然としていると、大助さんは苦笑して、
「まあ、ファベルの受け売りだけど……」
と付け足した。
何を言っていいか分からず、もごもごする私の頭に手を乗っけて、撫でてきた。少し強いが、けれど気にするほどではなかった。だから、退けることも止めることもせず、ただじっと受身の姿勢をとっていた。
すると、手を離し、牢屋から出た。そして、鍵をきちんと閉めて、
「ああ、また用があったら来るから」
と言って去っていった。
その後に、大助さんから渡された、紙袋の中を見た。何冊か手にとって見るけど、表紙を見る限り読めない。本を何冊か並べていると、ひらり、と床に紙が落ちた。二つに折りたたまれた紙。それを開いてみると……何かが書かれていた。
やあ、君はどうせ暇だろうし、本でも読んで勉強してね~。読めない本が多いと思うけど、全部訳したから、君でも読めるよ。大変だったんだよ? まあ、そんな事気にしないで読んでね。
俺も結構君の事を心配しているからさ、あまり、泣かないでほしい。正直、困っちゃうからさ―――
それから、まだ続くのだが、それ以上は読まなかった。試しに本を一冊取って見てみると、文字の下に訳が赤い文字で書かれていた。それも全部だ。全部のページの、私の読めない本全てだ。どれだけ大変だったか、想像もつかないほど、相当大変だったに違いない。彼は、死神の総代だ。仕事だって、私やダリットさんたちに比べたら比べ物にならないくらい多いはずなのだ。そう考えただけで、嬉しくて、感謝してもしきれないくらいで、涙が出てくる。
小さく、
「ありがとう、ございます……」
と呟く。勿論、相手はいない。牢屋の中を小さく響き、しかし私の嗚咽に紛れて上手く言えているか分からない。
ただ、泣いていた。
***
―――六六年目。
六年が経ってしまった。
小さな机の上に、便箋数枚と封筒が一つ置いてあった。この手紙は、我々天界の者が現界の人たちに手紙を送ったり、我々が死者に対して、死んだ者や我々に対して伝えたい事が在ったときに使うのだ。手紙は、情報局通信部の方々が保管し、届ける。言わば、郵便局だ。手紙は伝いえたい時間を選べる。十年後や、百年後など、さまざま選べる。
ペンをとって、何故だか何かを書き記したくなったのである。
冒頭に、「私はあなたに嘘を吐いてしまいました。ごめんなさい。私は、人間ではないのです。」と書いた。書きたい相手はもう、いない。しかし、書きたくなった。書きたくて書きたくて、吐露したくて堪らなくなった。六年だ。約束は、私が破ったのだ。彼が死のうが、死にまいが、私がここにいる時点で、果たされることはなかった。私が悪いのだ。書いているうちに、涙が出て止まらなくなってしまった。けれど、それを拭う気にもなれず、ただぽろぽろと垂れ流しにしていた。その内の数滴が、書いていた手紙に落ちて字が滲んでいった。それも、気にならなかった。
ただ、小さく、
「ごめんなさい、イルさん」
呟く。誰も聞いている人はいない。
冷たい牢屋の中、小さな嗚咽と謝罪の声が響いていた。




