episode14
―――六十年目。
私が妹を殺して、五年が経っていた。
私は、それから沢山の人を殺してきた。もう、何人殺したか、数え切れない。相変わらず、ダリットさんは私の事を良く思っていないし、大助さんに至っては会う度にからかってきて仕様が無い。そして、変わったことと言えば、最近、クロさんの話相手になったことだろう。
彼女は、イニスを追いかけている私を転生の扉の奥へと通してくれて、どうお礼を返せばいいかを聞いたところ、
「じゃあ、ボクの話し相手になってよ」
と言ってきたのである。
勿論、断ることなんてできないし、そんな簡単なことなら、喜んでと言ったところだった。
五年、彼女と会話をして分かったことは、三つ程。
一つは、彼女は本当に他者に対する印象が非常に薄いという事だった。ファベルさんから、彼女を見ると、黒い服を着た十代後半の女に見えるらしい。そして、大助さんは、黒い蛇に見えるらしいのだ。私から見れば、黒い服を着た黒い十代前半の女の子、なのだが、他の人から見れば本当に違う。それに、その印象はすぐに忘れられ、また、別のモノに変わるんだとか。だから、誰も正確に彼女を認識することができない。私自身、今見えている彼女が本当なのかは定かではないが、毎度見える印象というやつは一度も変わったことがない。そうなると、前述とは矛盾が生じてくる。
彼女曰く、
「キミがボクに対して固有の名前をつけたから、印象がつき易くなったじゃないかな?」
とのこと。
名前があれば、認識しやすくなるらしい。
つまりは、フォークと言われて、人々が想像するものは殆ど共通なものだ。食べ物を刺したりすくったりして口に運ぶもの。しかし、もしもそれに名前がなければ、想像するものに違いがでてくる。それが、彼女に生じる認識の違いというやつだ。
二つ目は、人々の言う友情だとか、愛だとか、権威、道徳、信頼、などなど……、彼女はこれらの一切を理解ができないらしい。抽象的なものを理解する頭脳がないんだよね~、と本人は謙虚に言うが、これが本当らしいのだ。彼女が誰かに、情らしきものを感じたこともない。それは、周りの人の話から分かる。彼女はすべてを見てきたのだ。戦争や貧困、殺人、略奪、沢山のことを見て、ただ見ていた。だけど、それらを見たところで彼女には、だから何だ? としか言いようがないらしい。他の人から見れば、助けてやりたい、と思うことも、彼女からすれば『また、おかしな事をしている』と思う。そこに情なんてない。ただ、事実を事実として受け入れている。何で助けないんだ、と怒ったところで、彼女に非はない。それが、《傍観者》という彼女の機能みたいなものだ。最低限の“機能”。感情なんて必要ないと、そう、作られたから……。
三つ目、これは本当に驚いた。彼女は実を言うと、三番目の《傍観者》なんだとか。じゃあ、何故、こんなにも大昔――世界の始まりから、現在に至るまでを知っているのかは、彼女の前の《傍観者》の記憶、もとい、記録を受け継いでいるからである。《傍観者》は世界を観て、情報を収集し、保存する。いわば、記録装置のようなもの。装置は壊れる。だから、壊れる前に新しい装置に情報を転送しておく。彼女は二番目の《傍観者》を見たことがないんだとか。見たいと思ったこともないし、どうして? と思ったこともないらしい。彼女の年齢は、だいたい四千歳くらいらしい。二番目が、二千歳、その前が、五千歳……。これは、彼女の中にあるデータに基づくだいたいの年数。
彼女のことが色々と分かってきたが、何も彼女は自分の事だけを話している、というわけではない。
クロさんの話してくれる、御伽噺や昔話、伝記や叙事詩はなかなかに面白かった。私が知っているものでもその裏側や、本当にあった事実などを交えてくるから、本当に聞いていて面白かった。勿論、知らないものの方が多かった。
今日はどんな話をしてくれるのだろうか、と期待に胸を馳せていると、クロさんはいきなり小さな紙の切れ端、みたいなものを渡してきた。
なんだろう、と首を傾げ、見てみると、見たことのない字みたいなものが羅列している。
「え……なんですか? これ」
と尋ねると、
「ん? 知らないのかい?」
と言われ、
「いえ、見たことがありません」
と答えた。
どこかで見たことがあっただろうか? と首を傾げ、小さな頭で知恵を振り絞るが、やはり、見覚えがない。
なんだろうか、この文字は……?
不思議に思っている私に、
「まあ、これは本の名前だよ」
とクロさんは言った。
「本……ですか?」
「そう、本だよ。買ってきてくれないかな?」
と言われて、私は少し迷った。
いや、資金の問題ではなかった。お金のことなら、天界を下りる時に、これまでの仕事によって支給される。神だからといって、滞在費は掛かるし食事もする、寝もするのだ。ここにいる時はそんなものは必要ないのだが、現界ではそうはいかない。郷に入っては郷に従え、ということだ。
問題なのは、どう買うかだ。読めないものを手探りで探す、というのは結構大変なもので、こういうのは大助さんに意地悪でか、悪戯でかは定かではないが、よく頼まれるのだ。そして、承諾して達成した試しがない。
まあ、取り敢えずは、聞いてみよう、と思って、
「どこに、売っているんですか?」
「ん~、確か……ヒルヘルだったかな?」
「ヒルヘル、ですか?」
「うん、確か、そんな名前だった」
しかし、行ったことのない町の名前だった。ヒルヘル―――確か、帝国の帝都の名前だった気がする。私の記憶は、生前のものなので、今は帝都なのかどうかさえ曖昧だ。
「でも、私この文字読めないんですけど……どうすればいいんですか?」
「まあ、それは町の人にでも聞けば分かるんじゃないかな? お勧めは、帝国の兵士かな」
「?……なんで、兵士なんですか?」
「帝国の兵士はこの文字を勉強するからね。一般市民じゃあ、読める人は少なくなってきてるしね」
つまりは、人に聞け、ということだ。
人付き合いの苦手な私に人付き合いに慣れろ、といっているのだろうか。よく分からないが、ものは試しだ。行くしかない。
「分かりました。行ってきます」
「いってらっしゃ~い」
クロさんは間の抜けた口調でそう行った。
私は天界から、そのヒルヘルというところを目指して降りていったのだった。
***
ヒルヘルは、まだ帝都だった。活気づいていて、昼間だからだろうか、なんとなく騒がしい。町を歩いていると、少し、この国の情勢が垣間見えた。これから、戦争が始まるらしい。だから、騒がしいのか、それとも、いつもなのか……。
この調子だと、兵士はいるだろうか。
メモを見ても、
「………」
やっぱり、読めない。
ため息が自然と出てくる。
どうしようか? と悩んでいたところで、重大なことに気がついた。
気づかない内に、私は道に迷っていた。
もっと、悩み事が増えてしまった。
こうして、たくさん道に迷うところを見ていると、私は方向音痴なのでは、と思う。天界でも、約十回、現界では数え切れないくらいだ。まあ、見た目が子供だから、周りの人の良心のおかげで迷子扱いということで目的地に連れて行ってもらうことがほとんど。
現在の見た目年齢はだいたい十二歳くらいだろうか。迷子、として見てくれるだろうか。いや、流石にもう迷子はいやだな~、と思う心はある。どうにかしよう。
……と、試みたが、もっと複雑に迷ってしまった。
人気もいよいよ少なくなってきた。まだ、昼くらいだろう。昼前に来ておいてよかったと、この時ばかりは感謝した。
とぼとぼと歩いていると、後ろから、
「ねえ、君」
と声がした。
しかし、自分ではないだろう、と思い、無視していると、
「お~い」
とさらに声が掛かる。
痺れを切らし、振り返るとそこには、
「いや~、やっと振り向いてくれた」
と安堵する男性が立っていた。
黒髪に黒いシャツを着た、二十代前半の男。
「なんですか?」
と聞くと、
「え、いや~、君迷子……だよね?」
と彼は言う。
私は、それに、
「いえ、違います」
と見栄を張って言った。
彼は、困ったように、
「え!? いやいや、だって君あからさまに『迷いました』って顔していたし……。失礼だけど、一つ聞いてもいいかな?」
「何ですか?」
「君、この町の子じゃないよね」
と言う。
「あ、いや……別に差別ってわけじゃないんだ。ただ、君みたいな髪の毛の子俺見たことないから」
つまりは、こんな気味の悪い髪のやつ見たことがない、だから、この町の人ではない、ということだろうか。
なんて、思っていると、男性は私に不快な思いをさせたのでは、と思ったのか、言葉をさらに付け足した。
「気味悪がっているわけじゃあ、ないんだ。ただ、その……君の髪の毛が綺麗だなあって思ったから……」
はにかみながら、彼は言った。
こんなことを言うのはそうそういない。身内とあの人ぐらいだ。
だから、
「あなたは……変わった人ですね」
と私は言った。
それに少し落ち込んだのか、男性は顔に出して、
「え~、酷いなあ」
と言うが、私の顔を見て微笑んだ。
多分、この時私の顔は嬉しそうにしていたのだろう。
数分くらいして、元の道に戻ってこれた。
そして、男に連れられ噴水のある広場の長いすに座った。そういえば、今は昼だったか……。だから、人が少ないのか、と考えていた。もう少し、大通りの方へ行けば喫茶店などが軒を連ねているため活気はあるが、何もないところでは本当に人が少ない。
すると、いきなり、
「ねえ、お腹空いてない?」
なんて聞いてきて、
「いえ、別に……空いてません」
と私は答えた。
それに男は、
「え、そうなの? う~ん、空いていると思ったのになあ」
と呟くように言って、
「じゃあ、ちょっと待ってて」
それから立ち上がってどこかへ行った。
「……?」
何しに行くのだろうか、と首を傾げ、数分して彼は何かを持って帰ってきた。
「はい」
と、手渡されたものはどうやら食べ物だ。
「え?」
必要ない、と言ったはずが、どうして買ってきたのだろうか。不思議でならない。本当に変わった人だ。
呆然とする私に、彼は、
「どうしたの? 食べないの?」
と聞いてくる。
「あ、いえ……」
いや、まあ……好意はありがたく受け取ろう。
「ありがとうございます」
そう言って、それを口に運んだ。
パンだろう。見た感じパンなのだ。しかも、クリームののった、温かい、いかにも出来立てですと言わんばかりのほかほかのパンだ。
食べてみると、
「あ、おいしい……」
と呟いてしまった。
私のその言葉に男は、満足気な表情で、
「そりゃあ、良かった」
と頷いて食べ始めた。
暫くして、お互いに食べ終わった所で、彼は、
「ああ、そうだ。まだ、名乗ってなかったね」
と私の方へ向きなおし、
「俺は、イルフェスだ」
と言った。
「私は、シキ……です」
「そっか、じゃあ……よろしく。シキ」
「こちらこそ、よろしくおねがいします。イルフェスさん」
差し出された手を握った。
すると、彼は少し困ったような顔で、
「ああ、イルでいいよ。みんな、俺をそう呼んでる」
「えっと……じゃあ、イルさん」
「うん」
言い直すと笑う。
子供のように笑うのだった。
イルさんは、何かを思い出したように「ああ」と声を出した。
「君さ、何のためにこの町に来たの?」
その問いに、私は漸くここに来た本来の目的を思い出した。
懐から、クロさんのメモを取り出して、
「本、を探しに来たんです」
と答えた。
「本? どんな?」
と言われ、手に持ったメモを手渡した。
「これなんですけど……」
「ん~、この文字かぁ。懐かしいね~」
「懐かしい、ってどういう……?」
「あ、そうか。言ってなかったっけ? 俺、兵士なんだ」
「兵士ですか?」
そういえば、この国の兵士はこの文字が読める、と聞いている。
なら、イルさんも読め―――
「ああ、でも、俺、授業とかまったく聞いてなかったから、読めないんだよね~」
…………。
困ったように彼は笑った。
「でも、この文字、たしか……この国じゃなくて、隣の王国に行ったほうが手に入りやすいと思うんだけどな~」
「?……どういうことですか?」
「え……、この文字ね、王国の少し昔の言語だからね。本だったら、そっちのほうが見つかりやすいじゃないかな~、って。でも、これ頼まれたものだよね?」
「はい」
「ここにあるって言われたからここに来た……」
「はい」
「なら、ここにあるんじゃないかな~。ん~、俺図書館くらいしか行かないからなぁ」
彼は少し考え、
「まあ、この町を歩き回って本屋巡りでもすれば、見つかるかな」
と言って立ち上がったのだ。
そして、
「じゃあ、行こう。シキ」
と言って私の手を握って歩き始めた。
***
数時間……くらいだろうか。それぐらいが経った。けれど、帝都はあまりにも広すぎて、本屋を一つ探すのにも一苦労だった。手当たり次第、と言った感じの捜索だったので、時間が物凄く掛かった。しかし、目的の本は依然として、手に入っていない。
というか、もう夜だった。
「あの……イルさん」
「ん? どうしたの? ああ、そうか、親御さんが心配しているか~。早くしないとなあ」
「あ、いえ、別に両親はいないので……」
「え、じゃあ、兄弟とか? もしくは、孤児院の人たちとか?」
どう答えようか? と考えていた。
正直、両親も兄弟も、ましてや、孤児院などには入っていない。
「ああ、えっと……それは大丈夫です。この本を探すのに相当時間掛かるだろうからって、言われているので……」
「じゃあ、宿泊OK……みたいな感じ?」
「はい、まあ……そうですね」
「そっか」
そう言って、彼は背伸びした。
私は、
「ここ、どこですか?」
「え? どこって、帝都だよ」
「いや、それは分かってます。ここは、帝都のどこですか?」
と尋ねた。
イルさんは困ったように首を傾げ、
「あそこに、大きな建物が見えるだろう?」
と指を刺し、そこには彼の言っている通りに大きな塔のような、城のような建物が少し遠くに見えた。
それを見て、
「はい、見えます」
と頷く。
「あれは、帝都の中央にある、まあ、皇帝様のお城さ。あれを中心に城下町があるから、見た感じではそんなに端っこには来ていないよ」
と言った。
確かに、この町はあの城を中心とした円を描くように造られたようだった。ぐるぐる、周っていて、通りで、城が遠くに見えないなあ、と思っていた。
なんて、感心していると、後ろから腕を捕まれた。力強くつかむその手は、イルさんのものではなかった。よく見ると、筋肉質な屈強そうな、目つきの悪い男がそこにいた。
そして、その男は言う。
「へえ、白髪なんて、めずらしいじゃあ、ねえか」
それにつられて、その男の隣にいる、少し細い男が、
「そうっすね。売ったりなんかすりゃあ、高く売れるんじゃねか」
なんて言った。
外そうとするが、やはり、少女の腕力とこんな屈強な男の腕力とじゃあ、敵わない。すると、持ち上げられた。両足が地面から離れる。腕をさらに強く握られて、骨が折れそうになるような、痛みが走る。
「………っ」
細い方の男は棒を持っている。そして、またその隣には少し身長の高い、刀を持った男がいた。
イルさんは、男らに、
「……彼女を放してくれないかな?」
と問いかける。
棒の持っている男が、
「お前の連れか?」
と聞いて、
「うん、そうだよ」
とイルさんは答えた。
だが、男は興味なさそうに、棒を振り上げ、
「ふ~ん、じゃあ、諦めな!」
と言って、イルさんの頭部目掛けて棒を振り下ろした。
彼は、それを避けようともせず、ただ、
「………っ」
ごん、と殴られた。
頭からは、血が出ていた。
細い男も避けないことに驚いたのか、目を点にしている。
この場にいた全員が、何故避けなかったんだろう? と驚いていることだろう。
イルさんは、そんな疑問を感づいたのか、
「いや~、だってさ……避けたり、反撃したら、彼女がどうなってもいいのか~、って言われるからね。そういうのは、本で読んだことがあるよ」
とへらへらしながら言う。
細い男はさらに殴った。どこかへ行け、とでも行っているかのように何度も、何度も、何度も。それでも、彼は一向に逃げようとはしなかった。ただ、殴られるだけで、何もしない。
細い男はだんだんバテてきたのか、肩で呼吸をし、額には大量の汗をかいていた。
対して、イルさんはもうぼろぼろだ。体中殴られて痣ができて、青くなっていたり、血が滲んでいたり……。
それを見かねて、刀を持った男が、細い男の肩にぽんと手を置いた。交代だ、と言っているような、そんな感じ。
刀の男は、鞘から刀を抜いて、
「逃げたらどうだ?」
とイルさんに言う。
しかし、
「ヤダね。逃げたら、彼女をどこかへ連れて行くんだろう? だったら、逃げない」
なんて、イルさんは言う。
私としては、逃げてもらいたかった。
だから、
「イルさん、逃げてください」
と、言うが、彼は、
「ヤダ」
と駄々を捏ねるように首を振る。
「ヤダ、じゃなくて……。このままじゃ、イルさんが死んでしまいます!」
と少し声を張り上げて私は言った。
刀の男は、
「彼女の言うとおりだ。あんた、このままだと死ぬぞ?」
「へえ、命の心配までしてくれるなんて、優しい誘拐犯だね~」
「言葉は不要だったか……」
飽きれたようにため息をつき、それから刀の刃をイルさんへ突きつけた。
「ぐ……っ」
イルさんは苦悶の表情を浮かべる。
彼の肩に刃が突き刺さって、そこから、赤い血が滴る。
イルさんは、
「逃げるなんて、絶対にしないよ」
と先ほどの口調とは一変して、落ち着いた声音で、
「誰かを守れない、なんて、もうヤダね。もう、守れずに後悔したくないし、失いたくもない。だから、逃げないよ」
なんて言う。
刺さった刃を素手で抜きながら、そんなことを言う。
殺されるかもしれないのに、ただ昼間に会ったばかりの少女にこんな事しなくてもいいはずなのに、それでも逃げないと言う。逃げても良かった。寧ろ、逃げてほしかった。
私は、もう、人間ではないから、ナイフで腕を切られようが、銃で撃たれようが、数日すれば跡形もなく治ってしまう。でも、彼は人間だ。ナイフで腕を切られたら、治るのに時間が掛かる。銃で打たれたりなんかすれば、打ち所が悪かったら最悪死ぬのだ。殴られただけで死んでしまうような、そんな脆い体なのだ。
だから、逃げてほしかった。死んでほしくないから、逃げてほしかった。
刀の男は、刀を振り上げ肩から腰にかけて振り下ろす。血が出る。
彼はやはり、反撃しない。ただ、斬られるだけ。
そしていると、細い男が加勢して、イルさんを思い切り胸の辺りを殴った。
「……ぐっ……ぁ」
肋骨が折れるような、砕かれるような、乾いた音が彼の体から聞こえた。
見るに堪えなかった。
「逃げて……ください」
私がそう言うと、イルさんはへらへら笑って、
「だから、もう守れないで後悔するのは嫌だって言ったはず……だよ。それに……こんな体で逃げたって、追いつかれるだけだし、どうせ、もう……無理だよ」
と言う。
もう、立っているだけでも現界のはずだ。普通の人なら、意識だってない状況で、彼は立ってる。もうこの際、意識を失った振りでもして、倒れてほしかった。そうすれば、巡回兵に見つけてもらって助かる見込みはまだある。私だって死ぬ事はない。
なんて考えていると、遠くから、声がした。巡回兵の声だろうか。
その声に反応して、男たちは、
「やばい、逃げるぞ!」
と私の腕から手を離し、逃げていった。
いきなりの事で、着地の準備のできていなかった私は、地面に転び、直ぐに立て直して、安心して倒れてしまったイルさんの下へと駆け寄った。
仰向けで、倒れたイルさんは微笑みながら、
「シキ、泣かない泣かない」
と言って宥めてくる。
「泣いてません」
「そうなの? じゃあ……君の目から出ているこの液体は何?」
「これは……、雨です」
「雨なの? へえ、変わってるね」
「あなたに言われたくありません」
「あははは。酷いなあ」
声を出して笑っているが、その声には元気がない。
「ねえ、シキ……」
「なんですか?」
「俺もう、疲れた」
「当たり前です」
「怒られちゃった~」
「怒ってません」
「そっか……」
彼はそれだけ言って、寝てしまった。
月夜の綺麗な日だった。
***
イルさんは帝国騎士団の医務室に連れてこられ、治療を受けた。
数日して、彼は、
「……やあ」
目が覚めたのだった。
「おはようございます」
と私が言うと、彼は微笑んで、
「ああ、おはよ。シキ」
と言った。
周りを見渡して、それから状況が把握できたのか、
「ねえ、シキ……?」
「なんですか?」
「俺はどのくらい寝てた?」
「二日……くらいです」
「そっか」
と頷き、私の顔を見て、
「じゃあ……、その間、君はずっと傍にいてくれてたのかい?」
と言われて、
「……はい。まあ、ずっといました。迷惑でしたか?」
なんて思ってしまって、俯く。
私のせいでこうなったのだ。と、申し訳なく思ってしまう。
彼は少し困ったような顔で、
「そんなことないよ。凄く、助かった。ありがとう」
笑って、彼の手が私の頬へと伸びてきて、
「だからさ、泣かないでよ」
と言った。
困ったように笑って言った。
気づかない内に泣いていたらしい。頬に涙が伝うのが分かった。
「ごめん、なさい」
しかし、拭っても拭っても、涙は止め処なく流れてくる。
どうやったら、止められるんだっけ?
と、わけが分からなくなった。
また、彼を困らせてしまう……。
「あははは、泣かないでよ。シキ……。君は笑った方が可愛いんだからさ」
「可愛く……ないです」
「あははっ、それが言えるなら大丈夫だ。まあ……でも、シキは泣いても可愛いね~」
などと、ふざけた事を言ってくる。
「やっぱり、あなたは変な人です」
と気づいたら、私は笑っていた。
彼も笑っている。
すると、イルさんの顔が曇った。
「ああ、そうだ。言い忘れていたんだけどさ……」
言い難そうに言葉を詰まらせながら彼は言う。
「今度、戦争に行くんだ」
「戦争……ですか?」
「うん」
町の人たちが噂していた戦争。その戦争に、彼は行くのだと言う。
「まあ、でも……俺は家族とかいないから、別に悲しむ人とかいないんだけどね。守りたい人ももういないし……。栄誉のために! って、わけでもないんだ。ただ……」
と彼は言葉を繋げて、
「死にたいだけ、なんだよね」
なんて言う。
希望なんてない。そんな口調。
「生きるのに、疲れた。ただ、そんな一時の気分さ」
「そう……ですか」
何を言ったらいいのか、分からない。
だから、とりあえずそう言う事にした。
多分、私の顔は落ち込んでいたのだろう。彼は「ああ、でも……」と言葉を足す。
「五年後……君が俺に会ってくれるっていうんだったら、頑張って生きてみようかな」
「五年ですか?」
「うん」
「なんで、五年なんですか?」
「いや~、だって五年したら君が大きくなって、そしたら、美人になっているんじゃないかな~、って」
五年ということは、今の見た目は十二歳くらいだから、十七歳くらいだろうか。彼はその時の事を言っているのだろう。
「会ってくれるかな?」
という問いに、
「はい。もちろん」
と頷く。
イルさんは元気そうに、
「だったら、生きて帰ってこなくちゃだ。俄然、気力が増してきた!」
と声を張り上げた。
「でも、五年後……じゃなくても、いつでも会いに来ますよ?」
と聞くと、
「いやいや、五年間楽しみに待って、そしたら、綺麗になった君を見る、ってのも生きがいかな~って。もし、会ったら、君の事口説こっかな~。いいかなぁ?」
なんて、楽しそうに言うのだ。
私はそれに、
「いいですよ。楽しみに待ってます」
と朗笑する。
「じゃあ、約束だ」
イルさんは小指をぴんと立てて差し出してきた。それに、私はその小指に自らの小指を絡め、
「はい、約束です」
と約束したのだった。
すると、医務室の外から、三十代くらいの男性が、入ってきた。軍服を着た、屈強そうな男性に、イルさんは、
「あ、隊長~。心配して来てくれたんですか~」
と間の抜けた声音で言った。
隊長、と呼ばれた男性は、
「心配は、お前にではなく、そこの少女にだな。お前は、心配する必要がないからな」
などと言う。
イルさんは、
「酷いなあ」
と残念そうに言うが、その顔はまったく残念そうではなかった。
男性は豪快に笑った。それにつられて、イルさんも笑った。
数分して、この男性が私が探しているという本の場所まで案内してくれた。それから、町の外までおくってくれたのだった。
天界に二日ぶりに戻ってきた。
楽しい事もあったり、心底心配した時もあったりと、充実した日々だった。
クロさんの元へ本を持っていくと、
「お、やっと帰ってきたんだね。随分と早かったね」
とにやにやと彼女は笑っていた。
「いや、まあ……」
彼女は私の顔を見て、
「何か良い事でもあったのかい?」
「えっ……はい。楽しかったです」
「それは、良かった。そういえば、これから仕事だっけ?」
「はい」
「そっか、じゃあ……仕事が終わったらまた面白い話でもしてあげよう」
と笑って言った。
「はい。楽しみにしています」
私はクロさんにお辞儀をして、多分書類でいっぱいであろう、自室へと戻っていった。
五年……。五年間で、神格を上げて十七歳くらいの容姿にならないといけない。気が重いが、でも、やる気は十分あった。彼と約束したのだ。だから……。
―――この数週間後、帝国で戦争が起こった。そして、誰もいない荒野で、私は一人の死んでいる兵士の前に立って、泣いていた。
「約束、したじゃないですか……っ」
呟いた声は、広い荒野の中で小さく響き、やがて、消えていった。
私がイルさんと会う事は二度となかった―――。