049.狂笑-Crazed-
1991年5月31日(金)PM:16:04 南区特殊技術隊第四師団庁舎三階
一人椅子に座り、何か思案に暮れている男。
小柄ながらがっしりとした体付き。
角刈りのきりっとした目付き。
「この世界に落とされて、もう三百年か」
手元の資料を見ているが見えていない。
思考の渦に、どっぷり浸かっている。
「ここの世界の人間達は、歪曲点と呼んでるらしいが。我にとっては僥倖だった。もしあの時、歪曲点が現れていなければ、あの男に負けていただろう」
その瞳は、資料ではなく、遠い何処かを見ているようだ。
「我の悲願は、あちらの世界では果たす事叶わぬ事になったが、こちらの世界でならば果たす事も叶うかもしれぬ。まずはその第一歩となろう」
一人囁くように言葉を発している。
男、形藁 伝二の顔は、狂笑に彩られていた。
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1991年6月1日(土)PM:13:38 中央区緑鬼邸二階
市菜さんと名乗った緑髪の女性と、俺は今対面で座っている。
眼鏡の少女が麦茶をもってきてくれた。
「それで龍人さん、お話しというのは颪金の事でしたね」
「はい、そうです」
「探偵さんという事で、山金にはお話しは伺っております」
「それでは、颪金さんと最後に話しをされたのは、市菜さんという事でお間違いはないのでしょうか?」
「はい、ここに住んでいる全員に確認しましたが、私が最後でした」
「そうですか。その時、颪金さんはどのような感じでしたか?」
少し思案するような表情の市菜さん。
「凄く嬉しそうな感じで、森へ行ってきますねと、私に声をかけてきました」
「嬉しそうにですか・・・山金さんから聞いたのと同じですね」
「でしょうね」
「その時、何か他の事は言ってましたか?」
「その時は特に。蟻についてのお話しは、その後、嵐金に聞きました」
「そうですか。市菜さんは、その蟻はいると思いますか?」
「いるかどうかと問われると、信じられないとしか・・・二十年以上ここに住んでますが、見た事もありませんし」
俺は彼女の言葉を、一字一句記憶に焼き付けている。
「なるほど、わかりました。森には入っても問題ないですかね?」
「私達も、森に入る事がありますが、何か言われた事はないので大丈夫かと」
「それでは、ちょっと森に行ってみます」
「よろしければ、わかる範囲で案内しますが?」
「あぁ、それじゃ入口まで案内をお願いできますか?」
「それでは裏口に案内しますね」
俺は、市菜さんに案内され、森に入る事になった。
市菜さんには、森の中も案内するつもりだったようだ。
嫌な予感がするので、今回は丁重にお断りした。
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1991年6月1日(土)PM:14:13 中央区宮の森
俺は今、一人で森の中を進んでいる。
一人の緑鬼族の青年を探す為に、進んでいた。
彼が何故一人で、この森の奥に入っていったのかは憶測でしかない。
そもそもそんな、非常識な事が有り得るのだろうか?
だが、その俺の疑問は、すぐに氷塊する事になった。
進む方向にソレが見えたからだ。
常識的に考えて、そんなものがいるはずがないのに。
いるはずがない存在のはずだ。
だが俺は、ソレに遭遇してしまったのだった。
蟻の常識をはずれた体躯。
木々の中に見えてる黒い蟻。
あんな顎で噛まれたら、間違いなく千切れるぞ。
こっち向いてるようだから、気付いているだろう。
走って逃げるという手もある。
だけどこの不整地じゃ、追いつかれる可能性が高い。
やはり倒すのが一番手っ取り早いか。
「ッ!? エッ!? マジカッ?」
黒い蟻の頭上で、クルクルと回転している茶色の三角錐。
俺目掛けて射出された。
驚いている場合じゃない。
俺は、茶色の三角錐の射線上に、巨大な風の刃を射出。
茶色の三角錐を真っ二つにぶった切る。
風の刃に弾かれ俺の左右を斜めに飛んでいく。
どうやら背後の木に突き刺さったようだ。
風の刃はそれだけでは消える事は無い。
黒い蟻を両断し、そのまま直線状にあった木に突き刺さる。
風の刃が突き刺さった木には、縦一直線に切れ込みがはいった。
「手加減しないと、無駄に森を破壊しかねないな・・・。とりあえず、蟻が来たと思われる方角に進んでみるか」
切断されて絶命した蟻。
極力視界にいれないように、注意しながら通り過ぎた。
人の手が余り入っていないだろう森を進むのは、やはり骨が折れる。
風の力を使えば、ぶった切っりつつ進めない事もない。
だが、余力は残しておきたいので、諦めて進む事にした。
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1991年6月1日(土)PM:16:02 中央区緑鬼邸二階
私は今、折れた木刀を握りながら、蟻の目の前に立っている。
氷の力を使えば、倒す事そのものは難しくはないけど。
かといって皆のトラウマにしたくない。
私自身、こんな巨大な蟻の目の前で、氷を突き刺したくはない。
それでは、自分にトラウマを植え付ける事になりそう。
顎っぽい所を突き出してきた。
恐怖でへこたれそうな体を、心を叱咤する。
顎の表面に手を置いて、バク転の要領で黒い蟻の上に飛んだ。
三井兄様から、皆を守るように頼まれたのだから、私が何とかしないと駄目。
そうだ、もう一体はどうしてる?
横目でちらっと見ると、紗那ちゃんが顎っぽい所を抑えている。
力比べをしてるというか持ち上げ始めていた。
微かに彼女も震えてるような気がする。
持ち上げたまま、ジタバタしてる蟻。
たぶん眼中にないのではなく、恐怖で見ている余裕なんてないのかもしれない。
それでも、持ち上げたまま、一歩また一歩と前に進んでる。
とりあえず何とかなりそう。
伽耶ちゃんと沙耶ちゃんは、率先して年少者を守ってる。
他の人もそれを見て行動し始めた。
蟻の上で、二回転した私は、背後に移動。
目の前の現実に集中するんだ。
蟻がこっちに向くかどうかはわからない。
私は一気に冷気を溜めて、蟻の背後から氷漬けにしてやった。
身動きが出来なくなった事を理解してるのかはわからない。
でもとりあえず、氷が融けるまでは、動けないはず。
砕いたりはしないと思う。
大丈夫だと思いたい。
次は、もう一体の方をなんとかしないとだ。
挫けそうな足を奮い立たせる。
たっぷりと息を吸い込んだ。
「紗那ちゃん、氷漬けにするから離れて!」
大広間の入り口、なぎ倒された障子の手前にいる紗那ちゃん。
彼女の側まで、転びそうになりながら辿り着いた。
私の声を聞いたからだと思う。
紗那ちゃんは、そのまま持ち上げて、大広間の向こうに投げた。
壁に叩きつけられた黒い蟻に、今度は私が冷気を叩きつける。
蟻の氷漬けの出来上がり。
どの程度まで凍結したのかはわからない。
でも、これでしばらくは動けないはず。
でも、まだ脅威がさったと安心も出来ない。
私は紗那ちゃんに、裏口の森まで、氷漬けの蟻を両方運んでもらった。
場所は森の入り口の木々がある所。
氷が融けてしまえば、また動き出すかもしれない。
特大の氷の刃を二体の蟻の頭上、木のてっぺん位に四個拵えた。
貫通力を高めるためだ。
でもきっと気持ち悪いの事になると思う。
百八十度回転して視界にはいれないようにする。
私が何をしようとしているか紗那ちゃんも理解したんだろう。
彼女もさすがに見たくなかったらしい。
運び終わると、私の隣で、蟻とは反対方向を向いていた。
氷が突き刺さる音。
直後、ぐしゃりと拉げるような音が立て続けに発生した。
脅威は去ったという実感を感じる。
皆を守らなきゃ、三井兄様の頼みを完遂しなければという気持ち。
それだけが、心を支配していた。
命を刈り取ったという実感は何もない。
一安心した私は、その場にへたり込んでいた。
隣をみると、紗那ちゃんも同じような気持ちだったのだろうか?
同じようにへたり込んでいる。
不思議と、二人とも涙目になって、互いに顔を見合わせていた。
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1991年6月1日(土)PM:17:00 中央区宮の森
俺、三井 龍人は、最大のピンチを迎えていた。
今まで生きてきた中で、最大と言っても過言ではない状態。
俺は阿呆だ、本当阿呆だ。
何の準備もしないで、森の中になんてはいるんじゃなかった。
迷子ってレベルじゃない。
あのでか蟻に注意しながら進んだ。
何か颪金の痕跡がないのか、超蛇行して進んだのが間違いだった。
汗だくでスーツは気持ち悪いし。
何時間彷徨ってるんだか・・・。
コンパスでもあれば、方角もわかるってもんだが・・・。
見渡す限り木々ばかりで、人の生息してる痕跡すら見当たらない。
全く持って自分の馬鹿さ加減に呆れる。
そもそも、颪金があのでか蟻の餌になってるとしたら、生存なんて有り得ない。
虫に一途な気持ちなんてわからないし。
でも彼的には、それはそれで幸せな最後だったのだろうか?
いやまだ、死んでるって決定したわけではないけど。
とりあえずどうするか?
今まで駆逐した蟻は三体。
どっちがどっちだか、方角がわからないからなぁ。
どっちに進むか・・・・おし、賭けだ。
俺は進む方向を、勘で決める。
おそらく自分が歩いてきたであろうと思われる道を、戻り始めた。
 




