きせき
さて、奇跡とは何だろう?
死者が生き返るとか。天変地異が鎮まるとか。
そんな大きなことは私には分からない。
では、軌跡とは何だろう?
国が辿った歴史とか。偉人の人生とか。
これまた大き過ぎることなど私に解ろうはずも無い。
まあ、何だ。
私に分かることと言えば、幸せ過ぎてどうしようとか。生徒にからかわれるのも悪くない気分だとか。
私が解ることで言えば、左手の薬指に指輪を嵌めてもらったとか。二人で婚姻届を貰いに行ったとか。
まあ、つまり、そういう事である。
「苦節10年……自分、良く頑張った」
16歳の夏に出会って、17歳の春に自覚して、18歳の早春に宣言した。
いろいろあって、本当にいろいろあって、漸く辿り着いた来週の日曜日。祖母と祖父も来てくれる春の良き日に、私は10年越しの恋を成就させるのだ。
知らず幸せな笑みが零れる。目敏く見付けた生徒達にからかわれるが、それがどうした。私は人生最高に幸せなのだ。今なら世界の中心で惚気を叫べる。
窓の外では、薄紅の花弁が風に柔らかく舞っている。
ひらりと流れて来た一片【ひとひら】に指先を伸ばす。
ふわりと誘われて手のひらに舞い降りた。
薄紅の花弁。
雪柳の白と比べて初めて、淡く染まっていると気付いた紅。
何も知らなかった自分と比べて初めて、恋に染められたのだと気付かされた紅。
あの日、落とされた口づけを今でも覚えている―――
ガラリ、と英語科準備室の扉が音をたてる。
集中力がぷっつり切れて窓の外の桜をぼうっと眺めていた私に、柔らかな声が開いた扉からかけられた。
「ちょっと休憩がてら一緒に桜を見ないか?」
茶道部の顧問のお誘いに、私はにっこり笑って席を立つ。
「先輩がお茶を点ててくれるなら」
差し延ばされた手のひらに、そっと一回り小さな手のひらを重ねた。
いつかまた、桜の重ねを着て、二人仲良く桜を眺めましょう?
それは、一生望み続ける小さな奇跡。
それは、これからも紡がれ続ける二人の軌跡。
お色直しには桜の重ねを着よう。
私と貴方の恋の始まりの思い出に。
あとがきに代えて
あいぞめ…孫の回想。先輩との思い出。
わかば…祖母の卒業式の日の思い出。祖母からの別れ話。
いろうつり…孫の思い出。先輩の卒業式。階段の踊り場で同じ大学に追っていくと宣言。
はるいろ…祖母の現在。
なごりゆき…孫と祖母の思い出。祖母、桜を語る。孫、桜の国へ行く。
ゆきみち…祖母の卒業式の日の思い出。祖父からのプロポーズ。
きせき…教職についた孫と先輩の会話。
「淡い花雪」に纏わる話をお送りいたしました。