悪女として死の森に捨てられましたが、悲劇のヒロインになる気はありません。一方、私を陥れた者たちは報いを受けているようです
森に捨てられた悪女その2です。
「この性悪女め! お前のような毒婦は、人間不可侵の『死の森』がお似合いだ!」
元婚約者である王子の声が響き渡った夜会から数日。
私は今、隣国との国境近くにある鬱蒼とした森の入り口に、たった一人で放り出されていた。
まだ日も高いというのに、そこだけがまるで世界から切り取られた空間のように暗く、異質な空気を放っている。
罪状は、王子の浮気相手である男爵令嬢への非道な嫌がらせと、彼女の毒殺未遂。
もちろんすべて濡れ衣だったが、二人によって周到に用意された偽の証拠を前に、私の無実を信じる者は誰一人いなかった。
いや――正確には、信じようとしてくれる人間が一人もいなかったのだ。
母を早くに亡くし、後妻との間に妹が生まれてから、父の関心はすべてそちらへ向いた。
妹が花瓶を割ればそばにいた私が責められ、私の物を欲しがれば「姉なのだから譲ってやれ」と言われる。
だから譲った。
それからも、ずっと。
王子の婚約者になってからも、私の立ち位置は同じだった。
彼が好む話題を学び、隣に立って恥をかかせないよう礼儀作法も政治も歴史も必死で身につけた。
王子自身の仕事まで押し付けられた時、私は反論してみたものの、このくらいできなくてどうすると叱責された。
愚かにも私は彼に恋心を抱いていたのだ。
だから、以降は何も言わず黙々と仕事を肩代わりした。
けれど、王子は一度たりとも私を見てくれなかったし、愛されることもなかった。
笑えば媚びているとあしらわれ、黙っていれば愛想がないと疎まれ、意見を述べれば生意気だと叱責される。
男爵令嬢が現れてからは、彼女が泣いても転んでも、なぜかすべて私のせいになった。
そんなことはしていないと何度訴えても、王子は決まって苛立った顔で「また言い訳か」と吐き捨てるだけだった。
最後の夜、私は父に、一度だけ尋ねた。
本当に私が人を毒殺しようとしたと思っているのですか、と。
父は私の目を見ず、ただ疲れたように「これ以上、家に迷惑をかけるな」と言った。
私を死の森へ置き去りにした兵士たちの足音が遠ざかっていくのを聞きながら、私は冷たい地面に突っ伏し――。
ガバッ、と勢いよく顔を上げた。
「あー、せいせいした!!」
両手を天に突き上げ、誰もいない森の入り口で叫ぶ。
「誰が悲劇のヒロインになんてなってやるもんですか! 濡れ衣上等、追放上等! あんな息の詰まる王都なんか、こっちから願い下げよ。私は今日から、私の好きに生きてやるんだからー!!」
王子への恋心はとうに失せていた。
我ながら遅すぎると思うけど仕方がない。
初恋だったのだ。
プツン、と、私の中で、淑女としての我慢の糸が完全に千切れた瞬間だった。
幸い、追放される間際に厨房からくすねてきた日持ちのする硬いパンがいくつかある。
森で食べられるものを探せば、しばらくはなんとかなるだろう。
そうと決まれば、まずは安全な寝床の確保だ。
私は意気揚々と、死の森へと足を踏み入れた。
――五分後。
「いやぁぁぁぁ! 今絶対あそこの茂みでなんか巨大なものが動いたぁ!!」
私は森の入り口からわずか数十メートルの大木の根元で、頭を抱えてガクガクと震えていた。
死の森を舐めていた。
木漏れ日すら届かない鬱蒼とした暗闇、どこからともなく聞こえる獣の唸り声、そして不気味な虫の羽音。
「む、無理無理無理、帰りたい、でも帰ったら処刑される……ひやっ、また変な声がした!」
半泣きで叫び散らしていると――不意に、頭上から大きな影が落ちてきた。
「…………ウルサ、い」
そして聞こえたのは、地の底から響くような、掠れた低い声。
恐る恐る顔を上げると、そこには見上げるほど巨大な男が立っていた。
死人のように白い肌、異様に長い手足。
ぼろぼろではあるが、身に纏っている黒い衣服は、はるか昔には上等な仕立てだったのだろうと思わせるものだった。
そして何より、光すら飲み込む底なしの黒い瞳が、足元で震える私をじっと見下ろしていた。
……そういえばこの森には、凶暴な獣だけではなく、正体不明の『ナニカ』が棲んでいるとも聞いたことがある。
夜ごと奇妙な声が響き、木々の隙間から巨大な影を見た者は、数日もしないうちに正気を失うのだとか。
あれが噂ではなく、真実なのだとしたら――。
「ひっ……!」
「……人間。……オ前、うまソウな、匂イ、すル」
「え?」
巨大な手が、ぬっと伸びてくる。
殺される。
いや、もしかして食べられるの!?
「ま、待って、わ、私、絶対美味しくないですから……ほら、もっと美味しいものあるから許してください!?」
私はパニックになりながら、持っていた荷袋からパンを取り出し、巨大な顔面に向かって思い切り突き出した。
「……?」
「パ、パンです! 私よりこっちの方が絶対美味しいので、これで、み、見逃してもらえませんか!?」
パンを受け取ったナニカはその匂いを嗅ぐと、
「……旨そウな、匂イ、コレだ」
そして、一口でむしゃりと齧る。
「…………」
「ど、どう……?」
「…………旨イ」
「よ、よかったぁ……」
どうやら食い殺されるのだけは免れたらしい。
その後手持ちのパンはすべて渡してしまった。
すると、食べ終わったナニカはなぜか、私の襟首をひょいっと片手でつまみ上げた。
「きゃっ!? な、何!?」
「……小屋、行ク」
「えっ?」
「……オ前、パン。もっと、出ス」
「ち、違うの、パンはもうないんです! だからその待ってーーーー」
私の悲鳴も虚しく、パンを気に入ったらしい巨大なナニカに、私は森の奥へと連れ去られる。
――これが、私とナニカとの出会いだった。
◇
襟首を掴まれたまま森の奥深くへと引きずり込まれ、ぽいっと放り出されたのは、半分ほど苔に覆われた粗末な石造りの小屋だった。
屋根の一部は崩れかけ、かろうじて壁と暖炉が残っているだけの廃墟のような場所だ。
「……パン、出ス」
私を見下ろす巨体が、ぬっと手を差し出してくる。
「いや、だからもうないって言ったじゃないですか!」
「…………」
光を飲み込むような黒い瞳が、瞬きもせずじっと私に据えられた。
このままではパンの代わりに食べられるかもしれない。
そう思った私は慌てて声を上げた。
「か、代わりに、私が美味しいご飯を作りますから!」
「……作レル、ノカ?」
「つ、作れます!」
「……ナラ、作ル」
ナニカはあっさりと私から離れると、床に座り込んだ。
私はほっと息を吐いたが、すぐに自分の発言の重大さに気がついた。
料理の心得なら多少はあるけど、既に外は暗くなりかけており、食材を探しに行くのも一苦労だ。
とはいえ、ここで「やっぱり無理です」などと言う勇気はない。
なんとかしなくては、と小屋の外へ目をやる。
一瞬だけ逃げようかとも考えたけど、すぐに却下した。
……逃げたところで行くあてもない。
それに、ここへ運ばれてくる途中、このナニカが通ると獣たちが逃げて行ったのだ。
そう考えると――。
一見怖いけど、話が通じるだけマシだと思える。
だからナニカの側にいる方が安全だと結論付けた。
となれば、これから多少なりとも意思の疎通を図らなければならない。
「あの」
「……何ダ」
「私はアンリと言います。あなたの名前は?」
ナニカは不思議そうに首を傾げた。
「……ソんなモノ、大昔ニ、忘レタ」
「覚えてないんですか?」
「……ナイ。必要、ナイから」
確かにこの死の森で暮らしているなら、誰かに名前を呼ばれる機会などないだろう。
とはいえ、毎回「あの」とかと呼ぶのは不便だ。
「名前がないと困ります。ええと……それじゃあ、あなたの肌が真っ白だから、『ハク』にするっていうのはどうですか?」
私が自信満々に言い放つと、ナニカは、ジトッとした黒い瞳で私を見つめ返してきた。
「……安直、ダな」
「うっ……」
怒らせたかと思ったが、意外にもハクは短く鼻を鳴らしただけだった。
「……勝手ニ、呼ベ。ソレヨリ、飯ハ?」
「あ、はい、すぐ作ります!」
私は小屋の近くをウロウロと探索し、どうにか食べられそうな木の実と果物を見つけ出すと、大きな葉っぱをお皿代わりにしてハクの前に差し出した。
「はい、どうぞ」
「…………」
ハクの全身から「これじゃない」という無言の圧が放たれている。
「今日はその……暗くてあまり遠くまで行けなかったので、これで許してもらえませんか? そ、その代わり明日はちゃんと作りますから!」
ハクはジッと私を見つめていた。
そして、何かを考えるようにゆっくりと首を傾げる。
「……明日、……必ズ、旨イもの、作ルか」
「作ります! 公爵令嬢のプライドにかけて!」
ハクは不満そうにしながらも、ポリポリと木の実を食べ始めた。
ともかく、これで今日の命の保証は得られた。
夜になり、私は小屋に入ると、硬い石の床にゴロンと横になった。
……痛い。
そして冷たい。
寝返りを打ってもうんうん唸るばかりで、まったく眠れない。
すると、部屋の隅にいたハクがすっと立ち上がり、無言で小屋の外へ出て行った。
「えっ、ハク? どこに……」
しばらくして戻ってきたハクが両腕に抱えていたのは、大量の乾いた草と柔らかな苔だった。
私の隣にドサリと積み上げ、長い指でポンと叩く。
「……ココで、寝ル」
「えっ、これ……私のために集めてきてくれたんですか?」
ハクは何も答えない。
私は恐る恐るその山に体を横たえてみた。
「……っ、ふわふわ……!」
冷たい石の床とは比べ物にならないほど柔らかく、冷えた体がじんわりと温まっていく。
「ありがとう、ハク」
私が素直にお礼を言うと、ハクはそっぽを向いてしまった。
安心した途端、急激な眠気が襲ってきた。
私は横たわったままで、心を落ち着かせるために、なんとなく小さな声で歌を口ずさんだ。
途中、うろ覚えだった旋律が途切れる。
すると。
「……――♪」
暗がりから、掠れた低い声がその続きを拾った。
なんでハクが、この歌を知っているのだろう。
だってこれは……。
気になったけれど、ハクの低い歌声はひどく心地よかった。
「……明日、聞こ……」
そこまで呟いたところで、私はいつのまにか泥のように深い眠りへと落ちていた。
◇
翌朝。
昨日の歌のことなんてすっかり記憶から飛んでいた。
身支度を整え、私は小屋の隅にいたハクへ声をかけた。
ハクに宣言した通り、美味しいご飯を作らなければならない。
「ハク、この近くに水場はないですか? できれば魚がいそうな場所がいいんですけど」
「……水? アル」
ハクの案内で森を少し歩くと、視界がぱっと開けた。
そこには、死の森には似つかわしくないほど美しい、底まで透き通った泉が広がっていた。
浅い水の中では、丸々とした大きな魚が泳いでいる。
「わ、これは気合入っちゃうな!」
私はそう言いながら、ドレスの裾を豪快に膝上までまくり上げた。
普通、公爵令嬢は魚など獲らないし、捌き方も知らない。
けれど私は、元婚約者の王子から、
『どうしても獲れたての川魚が食いたい。この俺の頼みだ、今すぐ自分の手で獲ってこい』
という無茶振りをされた過去があったのだ。
まだ彼に恋心をいだいていたあの時の私は、泣きながら川へ入り、料理長に頭を下げて捌き方まで習った。
まさかあの理不尽な経験が、今回こんな形で役に立つとは思わなかったけれど。
「冷たっ、でも気持ちいい!」
私はバシャバシャと泉に入り込み、じっと目を凝らす。
そして――水面が揺れた瞬間、勢いよく手を突っ込み、大きな魚を掴み上げた。
「ハク、見てください、大物です!」
得意げに魚を掲げて振り返った、その時。
ツルッと、足元の苔むした石に派手に滑った。
「わああっ!?」
「……!」
ハクが慌てて長い手を伸ばしながら、私を受け止めようと飛び込んでくる。
けれど勢いを殺しきれず、ドッパーン! という水音と共に、二人揃って泉へ突っ込んだ。
「ぷはっ! げほっ、ごほっ……」
「…………」
水から顔を出すと、私を庇うように下敷きになったハクが、顔から水を滴らせながら呆然と瞬きをしていた。
ハクは、死の森で恐れられているはずの存在なのに。
そんな彼のきょとんとしたような顔がなんだか無性におかしくて、私は堪えきれず、笑ってしまった。
「ごめんなさいハク、大丈夫ですか? びしょ濡れになっちゃいましたね」
「……オ前モ、だロ」
「あはは、確かに!」
私が大笑いしていると、ハクの底なしの黒い瞳が、わずかに細くなった。
その時の私はまだ知らなかった。
――それが、彼が楽しい時や嬉しい時に見せる、彼なりの『笑顔』なのだということを。
それから私たちは、泉の水辺で焚き火を起こし、濡れた服を乾かしながら朝食の準備を始めた。
私はナイフを借りて魚の内臓を素早く処理し、手頃な枝に刺していく。
「ハク、見ていてくださいね。これから美味しく焼きますから」
「……ソノママ、食エる」
ハクが生魚をひょいっとつまみ上げ、口へ運ぼうとしたので慌てて止める。
「せっかくですから、一緒に焼きましょう!」
「……焼ク?」
「その方が絶対に美味しいですよ」
ハクはよく分からないという顔をしたが、大人しく私の指示に従った。
焚き火の周りに串を刺して待っていると、やがて香ばしい脂の匂いが漂い始める。
「さあ、焼けましたよ。熱いから気をつけてくださいね」
私が差し出した串を受け取る時、ハクはほんのわずかに姿勢を正した。
ただ魚を受け取るだけなのに、その仕草には荒々しい見た目に似つかわしくない品がある。
「……?」
一瞬だけ違和感を覚えたけれど、ハクは何事もなかったように串焼きの魚を口に運んだ。
しばらく、もぐもぐと咀嚼する音だけが響く。
「……どう、ですか?」
「…………」
「……美味しくないですか? お塩もないし、やっぱり味が薄いか……」
しょんぼりしかけた私に、ハクはぽつりと言った。
「……温カい」
「え?」
「……アンリ、ノ、焼イたの、……旨イ」
塩すらない素焼きの魚だったが、彼は目を細め、本当に美味しそうにそれを食べてくれた。
「……よかったです」
王都で食べていた豪勢な朝食よりも、びしょ濡れになってハクと一緒にかじるこの魚の方が、ずっと美味しかった。
◇
魚をきれいに平らげ、濡れた服もすっかり乾き始めた頃。
炎を見つめていたハクが、ふと、ぽつりと尋ねてきた。
「……アンリ。なゼ、ココに、来タ?」
「えっ?」
「……ココ、死ノ森。普通ノ人間、来ナイ。……捨テられタ、のカ?」
その直球な問いに、私は少しだけ目を瞬き、それから小さく息を吐いた。
「……ええ、そうです。実家からも、国からも捨てられました」
私は膝を抱え、パチパチと爆ぜる炎を見つめながら話し始めた。
無実の罪を着せられ、婚約者だった王子に切り捨てられたこと。
そして実家でも、父や妹からずっと疎まれていたこと。
ハクにとってみれば、人間の複雑な事情など半分も分からなかったかもしれない。
けれどハクは、私から視線を逸らすことなく黙って聞いていた。
「まあ、もういいんです! あんな息が詰まる場所、こっちから願い下げですから。せいせいしましたよ!」
努めて明るい声で、笑い飛ばすように言った。
だって、私は悲劇のヒロインにはならないと決めたのだ。
誰にも愛されなかったことなんて、もう気にしていない――はずだった。
「……あれ?」
ポタッ、と、抱えた膝に、透明な雫が落ちた。
頬に触れると、濡れていた。
本当に、平気だと思っていた。
けれど、誰一人として私を信じてくれなかった絶望と孤独は、ちゃんと心の奥に残っていたらしい。
「っ……おかしいな。煙が、目に……」
慌てて目元を擦ろうとした時だった。
ふ、と。
燃えていた焚き火の炎が、一瞬にして青黒く沈み、いっさいの熱を失った。
「え……?」
周囲の空気が、氷点下まで下がったかのように凍てつく。
私がゆっくりとハクに目を向けると、ハクの黒い瞳は、普段の光を飲み込むような黒よりもいっそう深く、底知れない泥のような闇を帯びている気がした。
……私が「王子」や「妹」、「裏切られた」という言葉を口にするたび、ハクの様子がおかしかったことには気づいていた。
けれど今の彼は、明らかに異様だった。
ハクの大きな手がゆっくりと伸びてきて、私の頬を包み込んだ。
その手は、恐ろしいほど冷たい。
「……酷イ、奴ラだ」
地の底から響くような、ひどく重苦しい、禍々しささえ感じる声が落ちる。
「ハク……?」
「……アンリ、何モ、悪クなイ。……ナのニ、捨テタ。誰モ、信ジナかっタ」
ぶわり、とハクの髪が揺れた。
風なんて吹いていない。
それなのに森中の木々がざわざわと騒ぎ、枝葉を激しく擦り合わせている。
「……泣カセた。……許サなイ」
その瞬間、ようやく分かった。
ハクは怒っているのだ。
私を陥れ、切り捨てた人たちに。
「……私のために、怒ってくれてるんですか?」
問いかけても、ハクは答えなかった。
けれど、頬に触れている大きな手が、私を傷つけまいとするようにひどく慎重だった。
誰かが、私のために怒ってくれる。
そんなこと、生まれて初めてで、自然と胸が熱くなる。
やがてハクが、低い声でぽつりと言った。
「……復讐、スル?」
「え?」
「……アンリ、泣カかせタ奴ラ。俺ナら、デきル。俺ガ、全部――」
「いえ、いいです」
思いのほかあっさりと答えた私に、ハクが目を瞬く。
「……イイのカ?」
「はい。だって、あの人たちのために時間を使うの、もったいないじゃないですか。でも……そう言ってくれたのは嬉しいです。ありがとう、ハク」
私は、頬に添えられた彼の手に自分の手を重ねた。
「それに、本当にもういいんですよ」
「…………?」
「昨日までは、あそこを追い出されたら私の人生は終わりだと思っていました。でも――違ったみたいです」
涙を拭って、私は小さく笑う。
「ここに来て、ハクに会って。昨日は怖くて散々泣き叫んで、今日は二人揃って泉に落ちて、びしょ濡れになりながら魚を焼いて食べて」
思い返すと、なんだかおかしくなった。
「今日だけで、王都にいた頃よりずっとたくさん笑った気がします。だから私、今の方がずっと息がしやすいんです。もちろん、この森はすごく怖いですけどね。ハクにだって最初は食べられるかと思ったし」
「……人ハ、食ワナイ」
「それは今日になってようやく分かりました」
私が笑うと、ハクの瞳から少しずつ深い闇が引いていき、青黒く沈んでいた焚き火にも橙色の光が戻った。
凍りついていた空気も緩み、森はいつもの静けさを取り戻していく。
ハクはしばらく私を見つめたあと、頬に触れていた手を離さずに、ぽつりと言った。
「……アンリ、ココ、いる?」
「ええ。……少なくとも、今はここにいたいです。えっと……料理とか頑張るので、その、側にいてもいいですか?」
ハクは答えなかった。
代わりに、ハクの黒い瞳が、ほんの少しだけ細くなった。
◇
ハクとの奇妙な同居生活が始まって、しばらく経った頃。
死の森での生活は、ハクのおかげで魔物や獣に襲われることもなく、意外にも快適だった。
……快適だったのだが。
「あー、お塩が欲しい。胡椒も欲しい、他にも色々と……!」
私は焚き火の前で、素焼きのキノコをかじりながら天を仰いだ。
肉はハクが獲ってきて捌いてくれるし魚もある。
それ以外の食材も意外と豊富だ。
だけど毎日調味料なしのご飯では限界があるし、王都を追い出された時のボロボロのドレス一着では替えの服もない。
それに、せっかくあの堅苦しい生活から解放されたんだし、もっと自由に生きてみたいものだ。
そこでふと、王宮の図書室で読んだ本を思い出した。
王都の外に広がる様々な土地や文化について書かれた本で、私はよく、まだ見ぬ世界に思いを馳せていたのだ。
例えば、見渡す限り青い水が広がり、潮の香りがするという『海』。
王都の内陸で育った私は、その海というものを一度も見たことがなかった。
他にも美味しい食べ物も食べてみたいし、せっかくなら、見知らぬ街で色んな仕事もしてみたい。
「ねえ、ハク」
「……何ダ」
「私と一緒に、この森を出ませんか?」
「…………ハ?」
ハクは、素焼きの肉を持ったまま、呆けたように口を半開きにして固まった。
「森を、出ル……? アンリ、ココ、嫌ニなっタ?」
「違いますよ。ハクと一緒に暮らすのは楽しいです。でも私、海を見てみたくて。それに美味しいものも食べたいし、可愛い服も買いたいんです。他にももっと色んなこと、経験してみたいなって……あ、でも」
そこで、私はふと思い至った。
「ハクって、この森から出られるんですか? もしかして森に縛られている存在だったり……」
出られないと言われたらどうしよう、と少し不安になったが、ハクは首を横に振った。
「……俺は、森ノ外デモ、生キられル」
「それなら問題ありませんね!」
「だガ……」
ハクは自分の異様に長い手足を見下ろし、それから長い指で自分の目元を示した。
「……俺、バケモノ、だゾ。人間ノ街、行ケば……騒ギニなル」
「うーん、確かに」
私はハクをまじまじと観察した。
顔立ちはむしろ整っているし、真っ黒な目もどうにか誤魔化せそうだ。
問題は、見上げるほど巨大なその身体だった。
「ちなみにハク。その身体、もうちょっと縮められたりしませんか?」
「……縮ム?」
「ええ。普通の人間くらいのサイズに」
「……ヤッたコト、なイが……」
ハクが目を閉じ、ぐっ、と何かに集中するように眉根を寄せた。
すると――ぼんっ という音と共に、ハクの巨体がみるみるうちに縮んでいくではないか。
「わっ、本当に縮んだ!」
それでもかなりの長身だが、手足も人間として違和感のないバランスに収まっている。
「……コレで、イイか?」
「完璧です! これなら、ちょっと背が高いだけの、瞳孔が少し開きかけのイケメンで通りますよ!」
「……瞳孔ガ、開キかけ、ノ、イケメン?」
よく分かっていない様子のハクだったけど、私は気にせずにんまりと笑ってみせた。
「どうです? 一人より二人のほうが楽しいですし、ハクも外の世界、見てみたくありませんか?」
私の提案に、ハクはしばらく無言で私の顔を見つめていた。
やがて、その漆黒の瞳がわずかに揺れる。
「……オ前、本気デ、俺ヲ連レテ行クのカ?」
「はい」
「……俺ガ、何者カモ、分カラないノニ……イイのカ」
確かに、彼の正体は分からない。
でも。
「正体なんて関係ありませんよ。少なくともハクは、私が王都で出会ってきたどんな人間よりも優しいです」
私は、彼の冷たい手を取って、にっこりと笑った。
「私にとっては、それで十分なんです」
ハクは、大きく目を見開いた。
それから、そっと私の手を握り返す。
「……アンリガ、イイなラ……行ク」
「決まりですね! さあ、善は急げです。準備が終わったら早速出発しましょう!」
こうして私は、ハクを連れて旅に出ることを決めた。
◆
アンリが死の森でウキウキで旅支度をしていた、その頃。
――王都では、彼女がいなくなったことで生じた小さな綻びが、少しずつ大きくなり始めていた。
最初は、ほんの些細なことだった。
「殿下。隣国との関税協定についてですが、先方から追加条件への回答を求められております」
執務室で側近にそう告げられ、王子は眉を寄せた。
「追加条件? そんなものは聞いていないぞ」
「ですが、これまでの交渉記録には殿下のお名前で――」
差し出された書類を見て、王子は言葉を失った。
見覚えがない。
けれど、確かに自分の名で何度も提出され、先方から高く評価されている。
そこでようやく、王子は思い至った。
面倒な交渉も、貴族同士の利害調整も、外国使節への細かな配慮も、すべてアンリに丸投げし、自分の功績としていたことに。
そして、彼女がいなくなってから、王子の執務は目に見えて滞り始めた。
――そして一方、アンリに代わって未来の王太子妃となるはずだった男爵令嬢も、王妃教育についていくことができなかった。
礼儀作法を間違え、貴族の家名を取り違え、外国使節の前でも失言を重ねる。
それでも当初、王子は男爵令嬢を庇った。
「慣れていないだけだ」
だが、彼自身の失態も日を追うごとに増えていった。
そしてついに、国王は、王子と男爵令嬢を執務室へ呼び出した。
「一体、最近のお前はどうなっている」
机には、処理の滞った書類が山と積まれていた。
「以前のお前は、少なくともここまで酷くはなかったはずだ! まるで人が変わったようではないか!」
国王の叱責に、王子の顔がみるみる歪んでいく。
そして追い詰められた末、彼は隣に立つ男爵令嬢を指さした。
「……私は、この女に騙されたようなものです!」
「殿下……?」
「アンリを追いやるため、毒を盛られたと訴えようと言い出したのはお前だろう! 私はお前の案に乗っただけだ!」
一瞬、男爵令嬢がぽかんと目を見開く。
次の瞬間。
「はぁ!?」
甲高い声が執務室に響き渡った。
「何をおっしゃっているんですか! アンリ様をどうにかしたいと最初におっしゃったのは殿下でしょう!?」
「なっ……!」
「だから私が、毒も証拠も用意して、アンリ様の仕業に見せかけたんじゃありませんか!」
「馬鹿っ、黙れ!」
「今さら私一人のせいにしないでください!」
「だが貴様が余計なことをしたせいで、俺の執務を担わせていたアンリがいなくなったんだろうが! だからこうなったんだ!」
頭に血が上った二人は、そこが国王の執務室であることすら忘れて責任を押し付け合った。
そして――自分たちの口で、アンリに着せた罪がすべて偽りだったことを暴露した。
王子に至っては、これまで自分の功績としていた仕事の多くをアンリに任せていたことまで口走っている。
国王は、青ざめた顔で二人を見つめていた。
「……今の話は、本当なのか」
その低い声で、ようやく二人は我に返る。
だが、遅かった。
二人の怒鳴り声は廊下まで響いており、その日のうちに噂は王城中へ、翌日には貴族たちの耳へ広がった。
さらに調査によって偽造された証拠も発見され、アンリの無実はあまりにも遅く証明されたのだ。
当然、その余波は実家の公爵家にも及んだ。
公爵は娘の訴えを確かめることすらせず、王家へ「どのような処分でも受け入れる」と申し出ていた。
無実の実娘を自ら切り捨てた男だと知れ渡り、公爵家の信用は瞬く間に失われていった。
王家の判断に逆らえなかっただけだと弁明したところで、もはや誰も耳を貸さない。
公爵は王宮での役職を解かれ、有力貴族たちは距離を置き、後妻の実家からも見放される。
やがて公爵家は政治的な影響力を失い、かつての名門とは見る影もないほど没落していった。
――それからしばらくして、失墜した公爵家を立て直すため、公爵は一人、『死の森』を訪れていた。
アンリの無実が明らかになった今、優秀な彼女さえ戻ってくれば、再び王家に重用され、公爵家の権威も取り戻せるかもしれない。
そうなれば、後妻も妹も以前のような華やかな暮らしに戻れる。
だから、連れ戻さなければならない。
「アンリ!」
公爵は森の入り口から声を張り上げた。
「アンリ、いるのだろう! 父だ! 迎えに来たぞ!」
返事はない。
ただ、風に揺らされた木々がざわざわと音を立てるだけだった。
「もう何も心配はいらない! お前が無実だったことは証明された! 戻ってくれば、また以前の生活に戻れるんだ!」
生きている可能性は低い。
それでも公爵は、わずかな望みに縋ってアンリの名を呼び続ける。
その時だった。
森の奥で、何かが動いた。
公爵の声が止まる。
気づくと、鬱蒼と茂った木々の隙間に、見上げるほど巨大な人影が立っていた。
死人のように白い肌に、異様に長い手足。
そして光すら吸い込んでしまいそうな真っ黒な二つの瞳が、じぃっと公爵を見ていた。
『死の森』には、人ならざるものが棲む――昔から何度も耳にしてきた噂が、脳裏を駆け巡る。
噂だと思っていたが、まさか……!
巨大なソレは、ただ黙って、固まっている公爵を見下ろしていた。
やがて。
「……去レ」
地の底から響くような、おどろおどろしい声が落ちてきた。
人のようであって人のようではない、そんな声だ。
公爵は思わず一歩後ずさる。
けれど、なんとか声を張り上げる。
「わ、私はアンリを迎えに来ただけだ! あの子は私の娘だぞ!」
その言葉が落ちた瞬間だった。
――森から、音が消えた。
先ほどまで絶え間なく聞こえていた葉擦れも、獣の唸り声も、虫の羽音さえも、ぴたりと止む。
しん、と、耳が痛くなるほどの静寂が辺りを覆った。
公爵の背筋を悪寒が這い上がる。
目の前の怪物は、何もしていない。
ただ立っているだけだ。
それなのに、本能が叫んでいた。
これ以上、この存在を怒らせてはいけないと。
虹彩も何もない、底なしの黒い瞳が、ゆっくりと公爵へ向けられる。
「……アンリ、渡サナイ。奪ウ、ツモり、なら――」
ここで言葉を切ったあと、ソレは言った。
「――――――――」
「ひぃっ!」
それはとても小さい声で、けれど確かに公爵の耳には聞こえた。
公爵はとうとうぶるぶると震えながら、その場に腰を抜かしてしまった。
そして、悟る。
連れ戻すなど無理だ。
アンリが無事なのかどうかさえ分からない。
けれど、もしこの怪物のもとにいるのだとしたら――自分にはもう、森の奥へ一歩たりとも踏み込むことなどできない。
アンリを連れ戻すという考えは、その瞬間、恐怖によって完全に打ち砕かれた。
やがて巨大な影は、公爵などもう興味を失ったかのように森の奥へ身を翻す。
その時、ぼろぼろの黒い衣の裾が揺れ、一瞬だけ銀色の刺繍が覗いた。
王家の紋章によく似ているとうで、けれどどこか意匠が違う。
しかし確かめる間もなかった。
巨大な影は黒い衣を翻し、そのまま深い『死の森』の闇へ溶け込むように消えていった。
再び木々のざわめきが戻る。
公爵はアンリの姿を見ることすらできないまま、這うように立ち上がると、逃げるように死の森を後にした。
◆
「……今、なんと申した?」
後日、公爵から報告を受けた国王は、険しい顔で聞き返した。
「死の森で見たバケモノの衣に、王家のものに近しい紋章がございました」
「それを、覚えているか」
公爵の説明を聞くうちに、国王の顔からみるみる血の気が引いていく。
脳裏に浮かんだのは、王城地下の書庫に封じられている一冊の古い手記だった。
初代国王が遺した、決して表に出してはならない記録。
王位を得るため、誰より自分を信じていた兄に反逆の濡れ衣を着せ、殺害したこと。
そして、その亡骸を――死の森へ捨てたこと。
晩年の手記には、震える文字でこう残されている。
『――死んだ兄が、窓の外にいる。今夜も、私を森へ呼んでいる。アレに捕まれば、もう、戻れない』
さらに公爵が目にしたという紋章の特徴は、初代国王が生きていた時代まで王族が用いていた、古い王家の紋章と酷似していた。
現在の王家が使う紋章とは、わずかに意匠が異なる。
初代国王が発狂の末に亡くなった後、残された王妃が、新たな時代の始まりを理由に紋章を一新したからだ。
けれど王家に伝わる記録には、別の理由も残されている。
――兄を殺した初代国王の罪と、それにまつわる忌まわしい記憶を、王家から永久に葬り去るため。
それ以来、旧王家紋章が使われることは一度としてなかった。
その紋章を、死の森に棲む怪異が身につけていた。
「……そんな、まさか」
国王の指先が震えた。
信じていた者に裏切られ、無実の罪を着せられ、死の森へ捨てられた王族。
そして数百年後、王家はまた一人、無実の令嬢を同じ森へ捨てた。
「陛下……?」
「もう、アンリ嬢を探すな」
「なっ……しかし! アンリさえ戻れば、我々も――」
「もうよい」
国王の低い声が、公爵の言葉を遮る。
「今後、アンリ嬢を探すことは許さぬ。死の森へ近づくことも禁ずる」
「なぜです!? 陛下、あの娘が生きているのなら――」
「これは王命だ」
有無を言わせぬ声に、公爵は口を閉ざした。
「お前が森で見たものについても、誰にも話すな。家族にもだ」
「……しかし」
「死にたいのか!」
「……っ、承知、いたしました」
森で怪異に言われた言葉を思い出したのか、途端に公爵の顔から血の気が引いていく。
深く頭を下げて退出していくその背を見送り、国王はゆっくりと椅子へ沈み込むと、額を押さえて深いため息をついた。
仮に、公爵が見た怪異が、初代国王が最期まで怯え続けた兄その人だったとして。
それが今、アンリの側にいるのは間違いない。
ならば――下手に手を出してはならない。
アンリを連れ戻そうとする行為が、あの存在にどう映るのかなど分からないのだから。
◇
「見てくださいハク、これが海ですよ!」
潮風に髪を揺らしながら、私は船の甲板から見渡す限りの青い水面を指差して歓声を上げた。
私の隣には、フードを深く被ったハクが、手すりに寄りかかって海を見下ろしている。
「……しょっぱイ、匂イがスル」
「ふふっ、そうでしょう! 本で読んだ通りです!」
死の森を出てからの私たちの旅は、とても順調だった。
ハクが森で仕留めていた獣の毛皮を街で高く売り払い、旅支度を整え、道中の街で働きながら路銀を稼ぎ、ついにこの国の端にある大きな港町へと辿り着いたのだ。
今、私たちが乗っているのは、大陸の反対側――はるか北側の国へと向かう大型の客船である。
「北の国には、『かき氷』っていう甘い蜜をかけた氷のデザートがあるらしいんです。着いたら絶対に食べたいんですよねー!」
「……北ノ国は、ココより寒イんダロ?」
「ええ、雪が降るくらい寒いらしいですよ」
「……寒イのに、氷ヲ、食ウノか?」
ハクが本気で理解できないというように首を傾げるので、私は笑ってしまった。
「そこがいいんじゃないですか! 温かい部屋で食べる冷たいデザートは最高なんですよ」
そんな他愛のない話をしていると、ふと、甲板の少し離れた場所にいる乗客たちの会話が耳に入ってきた。
「そういえば聞いたか? 王太子殿下が廃嫡されたらしいぞ」
「ああ。例の男爵令嬢と一緒になって、公爵令嬢に濡れ衣を着せていたことが発覚したんだろ?」
「しかも、その公爵令嬢が王太子の仕事をほとんど肩代わりしていたって話じゃないか。いなくなった途端、何もかも立ち行かなくなったとか」
「実家の公爵家もすっかり落ちぶれたらしいな」
「無実の令嬢を死の森に捨てた途端、関わった連中が揃って破滅だ。王都じゃ『アンリ様の呪い』なんて噂まで出てるらしいぞ」
アンリの呪い。
その言葉に、私は思わず瞬きをした。
もちろん、私は誰も呪ってなどいない。
無実が証明されたことには少し驚いたけれど、今さら王都へ戻るつもりもないし、彼らがどうなったところで知ったことではなかった。
それにしても。
「……呪い、かあ」
なんとなく、隣にいるハクを見る。
ハクは乗客たちの話などまるで気にしていない様子で、流れていく海を眺めながら、低い声で何かを口ずさんでいた。
「……――♪」
波音に混じって聞こえてきたひどく掠れた旋律に、私は、はっと息を呑んだ。
それは王宮で王子妃教育を受けていた頃に教わった、王家に伝わる古い子守唄だった。
建国よりはるか昔、初代国王がまだ幼かった頃、彼を誰よりも可愛がっていた兄が、よく歌って聞かせていたという曲。
そこで私は思い出す。
森のハクは、ぼろぼろだが、かつては上等な仕立てだったと分かる黒い衣服を着ていたこと。
時折見せる、洗練された所作。
「王子」「妹」「裏切り」という言葉への異常な反応。
そして、初めて会った夜にも、彼はこの、初代国王の兄が歌っていたという古い子守唄を歌っていた気がする。
――歴史書によれば、初代国王の兄は『反逆の罪』で処刑されたと記されている。
そして、その死体が遺棄された場所は、確か……。
けれど、彼の存在が何であっても、関係ない。
私が選んだのは、今ここにいるハクなのだから。
ただ、一つだけ確認したいことがあった。
「……ハク」
「……何ダ」
「もしかして、あの人たちに何かしました?」
「…………?」
ハクが首を傾げる。
「ほら、私を陥れた人たちが、揃って酷いことになったらしくて」
けれどハクはすぐさま否定した。
「……オ前、復讐、いらナイって、言っタ。ダカら、何モ。デモ……前ニお前ノ父親ラシキ人は、追い返シタ」
「え!? 追い返したって……あの森に来たんですか? 聞いてないんですけど」
「……言ッテ、ナイから。……アンリ、会イたくナイだロ?」
「まあ、そうですね」
なんだか怒る気も失せて、私は小さく笑った。
なら、ハクが何かをした可能性は、おそらくない。
王子たちはきっと自滅したのだろう。
私はハクの言葉を信じることにした。
「……アンリ?」
黙り込んだ私をハクが覗き込む。
光すら飲み込む、底なしの暗闇のような瞳。
けれどそこには、私を害する気配は微塵もない。
「なんでもありません。ただ、やっぱりかき氷はハクも一緒に食べましょうね、と思っただけです」
私は微笑んで、彼の手を取った。
ハクはその手を軽く握り返しながら答える。
「……俺は、食ワないゾ」
「えー、一口くらいは食べてみてくださいよ」
「……腹ヲ、壊ス」
「あなたってお腹壊すんですか!?」
私たちの笑い声が、カモメの鳴き声と潮風に溶けて消えていく。
――時を隔て、同じように理不尽な罪を着せられ、捨てられた私たちは。
過去の因縁も、遠い王都の騒ぎも、すべて海の彼方へ置き去りにして、今日も二人で、新しい世界へと旅を続けている。




