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『十年目の婚約者に突然、婚約解消を告げられました――私を捨てるなら、せめて理由を言いなさい』

作者: NEA_
掲載日:2026/08/07


 パァンッ。


 婚約者の頬を叩いたのは、生まれて初めてだった。


 乾いた音が応接室に響いたあと、私は自分の右手を見た。じんじんと痛い。思ったより強く叩いてしまったらしい。けれど、後悔はしていなかった。


「……痛いな」


 目の前のローガン・ワグシャーは、赤くなった左頬に手を当てながら、いつもと変わらない声でそう言った。


「痛くしたんだから当然でしょう」


 私が睨みつけても、ローガンは怒らなかった。怒鳴りもしないし、なぜ叩いたと責めてもこない。ただ、困ったように私を見ただけだ。そういうところが、今はたまらなく腹立たしい。


「もう一度聞くわ」


 私は興奮を隠すように強く手を握った。


「どうして、私との婚約を解消したいの?」


「さっき話しただろう」


「あなたが話したのは『婚約を解消したい』という結論だけよ。理由は聞いていないわ」


 ローガンは黙った。まただ。


 十歳で婚約してから十年。この男は、昔から肝心なところになると口を閉ざす。怪我をしても言わない。困っていても言わない。剣術の訓練で腕を痛めたときなど、三日も隠したせいで悪化し、一月近く剣を握れなくなった。私が泣きながら怒ったら、「言ったところで治らないだろう」と本気で不思議そうな顔をした。昔から、そういう男だった。


「他に好きな人ができたの?」


「いや」


「私が嫌いになった?」


「なっていない」


「ご両親に反対された?」


「されるわけない」


「うちが男爵家だから、もっと家格の高い令嬢と結婚しろとでも言われた?」


「今さらそんな話になると思うか?」


「なら何なのよ」


 声が少し大きくなる。それでもローガンは答えなかった。


 私は唇を噛んだ。今日、ここへ来るまでは、もっと違う話をするつもりだった。


 三日前、王立薬草院から採用通知が届いた。十二人が受験し、採用されたのは二人だけ。そのうちの一人に、ティリリ・ローゼノン――私の名前があった。ずっと入りたかった場所だった。学院で薬草学を選んだのも、卒業後も研究を続けたのも、すべて王立薬草院で働くためだ。


 だから今日は、ローガンに一番に報告するつもりだった。きっと彼なら、いつもの無愛想な顔で「そうか」と言う。少し間を置いてから「よかったな」と続ける。たぶん、それだけだ。それでも私は、その言葉を楽しみにしていた。


 なのに、彼が口にしたのは祝いの言葉ではなかった。婚約を解消したい。ただ、それだけ。


「私、何かした?」


「何もしていない」


「だったら、ちゃんと話して」


「話すことは……もうない」


 胸の奥に、冷たいものが落ちた。


「……分かったわ」


 背もたれに掛けていた鞄を取った。


「帰るのか」


「帰るわよ。これ以上ここにいたら、もう一発叩きそうだもの」


「それは困るな」


「でしょうね!」


 扉へ向かって歩き出す。だが、扉の前で足が止まった。


 このまま帰ったら、本当に終わる。ローガンは追ってこないだろう。両家に婚約解消を伝え、必要な書類を用意し、父親同士で話をつける。そうやって静かに、全部終わらせる。十年も一緒にいたのに。私が納得しているかどうかも確かめずに。


「……ローガン」


 振り返らずに呼ぶ。


「何だ」


「私を捨てるなら、せめて理由を言いなさい」


 部屋が静まり返った。言ってしまった途端、胸が苦しくなる。


「十年よ。十年、一緒にいたのよ。あなたが私を嫌いになったなら、それでもいい。別に好きな人ができたなら、それでもいいわ。家の都合で別の令嬢と結婚しなきゃいけないなら……納得はできなくても、理解くらいはする」


 一度、息を吸う。


「でも、理由も言わずに終わらせるのだけは嫌。そんな終わり方をされるくらいなら、嫌いになったって言われる方がずっとましよ」


「……ティリリ」


「何よ」


「薬草院の採用試験、受かったんだろう」


 あまりに唐突な言葉に、私は振り返った。


「……何?」


「正式な通知が来たと、君の父上から聞いた」


「どうして今、その話になるの?」


「春から二年間、見習い研究官として王都勤務になる。その後、正式な研究官になれば、基本的には王都に残る」


「そうよ」


「俺は春には領地へ戻る」


 ワグシャー子爵であるローガンの父は、昨年から体調を崩している。命に関わるほどではないが、以前のように領地経営のすべてを担うことは難しくなった。だから嫡男のローガンは、予定より早く領地へ戻ることになっている。


「知ってるわ」


「結婚すれば、君も領地へ来ることになる」


「そうでしょうね」


「王都からワグシャー領までは馬車で五日だ。薬草院に通える距離じゃない」


 私はしばらく彼の顔を見た。そして、ようやく理解した。


「……まさか、それが理由なの?」


 ローガンは答えなかった。今度の沈黙は、それだけで十分だった。私は持っていた鞄を椅子へ放り戻した。


「ちょっと待って。つまり、私が薬草院に受かった。あなたは領地へ戻る。私があなたと結婚したら薬草院で働けない。だから婚約を解消するってこと?」


「簡単に言えば、そうだ」


「……馬鹿なの?」


 ローガンの眉が動いた。


「お前な」


「馬鹿!!」


「二度も言う必要はないだろ」


「あるわよ!」


 さっきまで泣きそうだったのが嘘みたいに、怒りが戻ってきた。


「なんでそこで婚約解消になるのよ!」


「君はずっと薬草院を目指していただろう」


「だから?」


「俺と結婚すれば、その道を諦めることになる」


「誰が諦めるって言ったの?」


「言ってはいないが」


「じゃあ、なんであなたが決めるのよ!」


 ローガンが口を閉じる。


「私が王都に残るか、あなたと領地へ行くか。それを決めるのは誰?」


「……君だ」


「そうでしょう!」


「だが、君は結婚しても仕事を続けたいと言っていた」


「言ったわよ。でも、それと薬草院に一生勤め続けることは別でしょう?」


「違うのか?」


「違うわよ!」


 本気で分かっていなかったらしい。どうしてこの男は、肝心なところだけこんなに鈍いのだろう。


「去年、あなたが送ってくれたワグシャー領の植生記録。覚えてる?」


「領内の薬草をまとめたものか」


「そう。王都周辺ではほとんど見ない薬草が二十三種類あった。北部でしか育たないものもあったでしょう」


「ああ」


「それを見てから、私は考えてたのよ。薬草院で二年間、研究と栽培のやり方を覚える。そのあと、できるなら北部植生の調査計画を出す。もし研究として認められなくても、そこで得た知識を使って、ワグシャー領に薬草園を作れないかって」


 ローガンが目を見開いた。


「……薬草園?」


「あなた、前に言ってたじゃない。冬になると雪で街道が閉ざされて、領地では薬の値段が上がるって。薬師も足りないし、薬草の多くを他領から仕入れているって。だったら、領地で育てられるものを増やしたらいいでしょう」


「そんなことを考えていたのか」


「今日、それをあなたに話すつもりだったのよ」


 ローガンは何も言わなかった。けれど今度は、その沈黙に腹は立たなかった。たぶん、自分が盛大に間違えたことくらいは分かったのだろう。


「ローガン」


「……ああ」


「私の夢を大事にしてくれたことは、嬉しいわ」


 彼が顔を上げる。


「でも、私の幸せまであなた一人で決めないで。私が仕事を選ぶのか、あなたを選ぶのか。そもそも両方選ぶ方法がないのか。それを考えるのは私で、……あなたと――二人でしょう?」


「……そうだな」


「分かった?」


「ああ。悪かった」


 ようやく聞きたかった言葉が出た。私は小さく息を吐いた。


「じゃあ、もう一つだけ聞くわ」


「何だ」


「あなた、本当は私と別れたいの?」


 ローガンは一瞬だけ黙った。私は左手を上げる。


「次に黙ったら、反対側も叩くわよ」


「横暴だな」


「早く」


 ローガンは赤い頬をさすりながら、観念したように息を吐いた。


「別れたくない」


「どうして?」


「そこまで聞くのか」


「聞くわよ。あなた、十年間一度も言ったことないもの」


 ローガンが露骨に目を逸らした。そして、しばらくしてから小さな声で言った。


「……好きだからだ」


 今度は私が黙った。


「ティリリ?」


「聞こえなかった」


「嘘をつけ」


「もう一回」


「嫌だ」


「十年待ったんだから二回くらい言いなさいよ」


「なら俺も聞いたことがない」


「何を?」


「君から」


 ずるい。そう来るとは思わなかった。私はしばらくローガンを睨んでいたけれど、やがて観念した。


「……好きよ」


「聞こえない」


「もう一回叩くわよ」


「聞こえた」


 思わず笑ってしまった。ローガンも、少しだけ笑った。


 さっきまで婚約が終わると思っていたのに、馬鹿みたいだ。私は鞄を取り直し、今度こそ扉へ向かった。


「ティリリ」


「今度は何?」


「婚約は……」


「解消しないわよ」


「私の事が好きだから、別れたくないんでしょう?」


「そうだが」


「なら決まり」


 扉を開ける。そのまま廊下へ出ようとして、私は一度だけ振り返った。


「ローガン」


「何だ」


「次に私を捨てるなら?」


 彼は少し考えた。


「理由を言う」


「違うわよ! そこは『もう捨てない』って言いなさいよ!」


「……もう捨てない」


「よろしい」


 私はローガンの前まで戻ると、さっき自分が叩いた頬に、そっと口づけをした。


「これは、ちゃんと言えたご褒美」


 ローガンが固まる。


「じゃあね」


 今度こそ扉を開けて廊下へ出る。背後から何か言いかける声が聞こえたけれど、振り返らなかった。だって今振り返ったら、きっと私の顔が真っ赤なのがばれてしまうから。



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