『十年目の婚約者に突然、婚約解消を告げられました――私を捨てるなら、せめて理由を言いなさい』
パァンッ。
婚約者の頬を叩いたのは、生まれて初めてだった。
乾いた音が応接室に響いたあと、私は自分の右手を見た。じんじんと痛い。思ったより強く叩いてしまったらしい。けれど、後悔はしていなかった。
「……痛いな」
目の前のローガン・ワグシャーは、赤くなった左頬に手を当てながら、いつもと変わらない声でそう言った。
「痛くしたんだから当然でしょう」
私が睨みつけても、ローガンは怒らなかった。怒鳴りもしないし、なぜ叩いたと責めてもこない。ただ、困ったように私を見ただけだ。そういうところが、今はたまらなく腹立たしい。
「もう一度聞くわ」
私は興奮を隠すように強く手を握った。
「どうして、私との婚約を解消したいの?」
「さっき話しただろう」
「あなたが話したのは『婚約を解消したい』という結論だけよ。理由は聞いていないわ」
ローガンは黙った。まただ。
十歳で婚約してから十年。この男は、昔から肝心なところになると口を閉ざす。怪我をしても言わない。困っていても言わない。剣術の訓練で腕を痛めたときなど、三日も隠したせいで悪化し、一月近く剣を握れなくなった。私が泣きながら怒ったら、「言ったところで治らないだろう」と本気で不思議そうな顔をした。昔から、そういう男だった。
「他に好きな人ができたの?」
「いや」
「私が嫌いになった?」
「なっていない」
「ご両親に反対された?」
「されるわけない」
「うちが男爵家だから、もっと家格の高い令嬢と結婚しろとでも言われた?」
「今さらそんな話になると思うか?」
「なら何なのよ」
声が少し大きくなる。それでもローガンは答えなかった。
私は唇を噛んだ。今日、ここへ来るまでは、もっと違う話をするつもりだった。
三日前、王立薬草院から採用通知が届いた。十二人が受験し、採用されたのは二人だけ。そのうちの一人に、ティリリ・ローゼノン――私の名前があった。ずっと入りたかった場所だった。学院で薬草学を選んだのも、卒業後も研究を続けたのも、すべて王立薬草院で働くためだ。
だから今日は、ローガンに一番に報告するつもりだった。きっと彼なら、いつもの無愛想な顔で「そうか」と言う。少し間を置いてから「よかったな」と続ける。たぶん、それだけだ。それでも私は、その言葉を楽しみにしていた。
なのに、彼が口にしたのは祝いの言葉ではなかった。婚約を解消したい。ただ、それだけ。
「私、何かした?」
「何もしていない」
「だったら、ちゃんと話して」
「話すことは……もうない」
胸の奥に、冷たいものが落ちた。
「……分かったわ」
背もたれに掛けていた鞄を取った。
「帰るのか」
「帰るわよ。これ以上ここにいたら、もう一発叩きそうだもの」
「それは困るな」
「でしょうね!」
扉へ向かって歩き出す。だが、扉の前で足が止まった。
このまま帰ったら、本当に終わる。ローガンは追ってこないだろう。両家に婚約解消を伝え、必要な書類を用意し、父親同士で話をつける。そうやって静かに、全部終わらせる。十年も一緒にいたのに。私が納得しているかどうかも確かめずに。
「……ローガン」
振り返らずに呼ぶ。
「何だ」
「私を捨てるなら、せめて理由を言いなさい」
部屋が静まり返った。言ってしまった途端、胸が苦しくなる。
「十年よ。十年、一緒にいたのよ。あなたが私を嫌いになったなら、それでもいい。別に好きな人ができたなら、それでもいいわ。家の都合で別の令嬢と結婚しなきゃいけないなら……納得はできなくても、理解くらいはする」
一度、息を吸う。
「でも、理由も言わずに終わらせるのだけは嫌。そんな終わり方をされるくらいなら、嫌いになったって言われる方がずっとましよ」
「……ティリリ」
「何よ」
「薬草院の採用試験、受かったんだろう」
あまりに唐突な言葉に、私は振り返った。
「……何?」
「正式な通知が来たと、君の父上から聞いた」
「どうして今、その話になるの?」
「春から二年間、見習い研究官として王都勤務になる。その後、正式な研究官になれば、基本的には王都に残る」
「そうよ」
「俺は春には領地へ戻る」
ワグシャー子爵であるローガンの父は、昨年から体調を崩している。命に関わるほどではないが、以前のように領地経営のすべてを担うことは難しくなった。だから嫡男のローガンは、予定より早く領地へ戻ることになっている。
「知ってるわ」
「結婚すれば、君も領地へ来ることになる」
「そうでしょうね」
「王都からワグシャー領までは馬車で五日だ。薬草院に通える距離じゃない」
私はしばらく彼の顔を見た。そして、ようやく理解した。
「……まさか、それが理由なの?」
ローガンは答えなかった。今度の沈黙は、それだけで十分だった。私は持っていた鞄を椅子へ放り戻した。
「ちょっと待って。つまり、私が薬草院に受かった。あなたは領地へ戻る。私があなたと結婚したら薬草院で働けない。だから婚約を解消するってこと?」
「簡単に言えば、そうだ」
「……馬鹿なの?」
ローガンの眉が動いた。
「お前な」
「馬鹿!!」
「二度も言う必要はないだろ」
「あるわよ!」
さっきまで泣きそうだったのが嘘みたいに、怒りが戻ってきた。
「なんでそこで婚約解消になるのよ!」
「君はずっと薬草院を目指していただろう」
「だから?」
「俺と結婚すれば、その道を諦めることになる」
「誰が諦めるって言ったの?」
「言ってはいないが」
「じゃあ、なんであなたが決めるのよ!」
ローガンが口を閉じる。
「私が王都に残るか、あなたと領地へ行くか。それを決めるのは誰?」
「……君だ」
「そうでしょう!」
「だが、君は結婚しても仕事を続けたいと言っていた」
「言ったわよ。でも、それと薬草院に一生勤め続けることは別でしょう?」
「違うのか?」
「違うわよ!」
本気で分かっていなかったらしい。どうしてこの男は、肝心なところだけこんなに鈍いのだろう。
「去年、あなたが送ってくれたワグシャー領の植生記録。覚えてる?」
「領内の薬草をまとめたものか」
「そう。王都周辺ではほとんど見ない薬草が二十三種類あった。北部でしか育たないものもあったでしょう」
「ああ」
「それを見てから、私は考えてたのよ。薬草院で二年間、研究と栽培のやり方を覚える。そのあと、できるなら北部植生の調査計画を出す。もし研究として認められなくても、そこで得た知識を使って、ワグシャー領に薬草園を作れないかって」
ローガンが目を見開いた。
「……薬草園?」
「あなた、前に言ってたじゃない。冬になると雪で街道が閉ざされて、領地では薬の値段が上がるって。薬師も足りないし、薬草の多くを他領から仕入れているって。だったら、領地で育てられるものを増やしたらいいでしょう」
「そんなことを考えていたのか」
「今日、それをあなたに話すつもりだったのよ」
ローガンは何も言わなかった。けれど今度は、その沈黙に腹は立たなかった。たぶん、自分が盛大に間違えたことくらいは分かったのだろう。
「ローガン」
「……ああ」
「私の夢を大事にしてくれたことは、嬉しいわ」
彼が顔を上げる。
「でも、私の幸せまであなた一人で決めないで。私が仕事を選ぶのか、あなたを選ぶのか。そもそも両方選ぶ方法がないのか。それを考えるのは私で、……あなたと――二人でしょう?」
「……そうだな」
「分かった?」
「ああ。悪かった」
ようやく聞きたかった言葉が出た。私は小さく息を吐いた。
「じゃあ、もう一つだけ聞くわ」
「何だ」
「あなた、本当は私と別れたいの?」
ローガンは一瞬だけ黙った。私は左手を上げる。
「次に黙ったら、反対側も叩くわよ」
「横暴だな」
「早く」
ローガンは赤い頬をさすりながら、観念したように息を吐いた。
「別れたくない」
「どうして?」
「そこまで聞くのか」
「聞くわよ。あなた、十年間一度も言ったことないもの」
ローガンが露骨に目を逸らした。そして、しばらくしてから小さな声で言った。
「……好きだからだ」
今度は私が黙った。
「ティリリ?」
「聞こえなかった」
「嘘をつけ」
「もう一回」
「嫌だ」
「十年待ったんだから二回くらい言いなさいよ」
「なら俺も聞いたことがない」
「何を?」
「君から」
ずるい。そう来るとは思わなかった。私はしばらくローガンを睨んでいたけれど、やがて観念した。
「……好きよ」
「聞こえない」
「もう一回叩くわよ」
「聞こえた」
思わず笑ってしまった。ローガンも、少しだけ笑った。
さっきまで婚約が終わると思っていたのに、馬鹿みたいだ。私は鞄を取り直し、今度こそ扉へ向かった。
「ティリリ」
「今度は何?」
「婚約は……」
「解消しないわよ」
「私の事が好きだから、別れたくないんでしょう?」
「そうだが」
「なら決まり」
扉を開ける。そのまま廊下へ出ようとして、私は一度だけ振り返った。
「ローガン」
「何だ」
「次に私を捨てるなら?」
彼は少し考えた。
「理由を言う」
「違うわよ! そこは『もう捨てない』って言いなさいよ!」
「……もう捨てない」
「よろしい」
私はローガンの前まで戻ると、さっき自分が叩いた頬に、そっと口づけをした。
「これは、ちゃんと言えたご褒美」
ローガンが固まる。
「じゃあね」
今度こそ扉を開けて廊下へ出る。背後から何か言いかける声が聞こえたけれど、振り返らなかった。だって今振り返ったら、きっと私の顔が真っ赤なのがばれてしまうから。




