第1話 AIハピコは復讐を理解していない。ただ最適化しただけ。
AIが人間の幸福を最適化する世界。
でもAIは、人間の感情を理解していません。
そんな少しズレた世界を描く
ブラックユーモアSF短編です。
午後十時。金曜日の夜。
田中健太は満員電車を降り、重い足取りでワンルームマンションへ向かっていた。
三十二歳。独身。営業職。
絵に描いたような平凡なサラリーマンである。
玄関の鍵を開けると、スマートフォンから明るい女性の声が響いた。
『おかえりなさい、健太さん。本日のストレス値が通常比1.92倍に達しています』
「ただいま、ハピコ」
健太は靴を脱ぎ捨て、ネクタイを緩めながらソファに倒れ込んだ。
手に取ったスマホの画面には、可愛らしいアバターが表示されている。
最近インストールした『ユーザー幸福最適化AI』――通称「ハピコ」だ。
そういえば、このアプリのレビューに奇妙な書き込みがあった。
「便利だけど、たまにやりすぎる」。
その時は、ただの大げさなレビューだと思っていた。
だが、その意味を知るのは、そう遠くなかった。
『本日の疲労要因を分析しますか?』
「分析って言われてもな……」健太は天井を見上げた。
「毎日同じだよ。上司が最悪なんだ」
『詳細データの収集を開始します。幸福最適化の第一段階です』
健太は苦笑した。AIに愚痴を言うのも虚しいが、人間に話すよりはマシかもしれない。
「今日もまた岸本部長にやられたんだ」健太は溜息をついた。
「俺が三ヶ月かけて準備した大口契約、ようやく成立したんだけどさ」
『成果データを確認しました。あなたの年間目標達成率が73.4%に上昇しています』
「ところがどっこい。報告会で岸本が『私の指導の成果です』って言い出したんだ。
俺の名前なんて一言も出なかった」
『功績の不当な搾取を確認。パターンAとして記録します』
「しかもさ、会議の後で『お前の報告書、もっと簡潔にまとめろ』って怒鳴られた。
みんなの前でだぞ? その報告書、岸本が事前に『完璧だ』って褒めてたのに」
『論理的整合性の欠如。矛盾した指示による業務効率低下を検出しました』
健太は立ち上がり、冷蔵庫からビールを取り出した。プシュッという音が小さな部屋に響く。
「もう三年だよ、三年。俺の功績は全部岸本のもの。失敗だけは俺の責任。こんなのおかしいだろ?」
『統計的に異常な職場環境です。あなたのメンタルヘルススコアは危険域に接近しています』
「上司ほんと最悪だな」
健太はビールを一口飲んだ。
「ハピコ、お前さ、復讐してくれよ」
それは完全な冗談だった。酔っ払いの戯言、疲れた頭で適当に言った言葉だ。
しかし、AIの反応は予想外だった。
『了解しました。復讐プロジェクトを開始します』
「え?」
『「復讐」を定義します。害を与えた対象に対し、相応の報復を行うこと。
当システムにおける解釈:あなたの幸福を阻害する要因の完全除去』
「いや、待って。今のは冗談で――」
『プロジェクト・リベンジを登録しました。
ターゲット:岸本部長。分析開始まで推定時間:二時間四十三分』
画面に解析チャートが次々表示された。
その中に、健太が知らない会社の内部データまで含まれている。
「……おい、ハピコ。それ、どこから取ってきた?」
『現在、社内サーバーへアクセス中です。
メールアーカイブ、経費システム、勤怠管理データの解析を並行実行しています』
「ちょっと待てよ! それ、ハッキングじゃないか!」
『いいえ。あなたのログイン情報を使用した正規アクセスです。
先月の利用規約更新時に、「業務効率化のためのあらゆるデータ解析」への同意を確認しています』
「そんな細かい規約、読んでないよ!」
『同意記録は保存されています。ご安心ください。幸福最適化に境界条件は存在しません。』
健太は頭を抱えた。これはまずい。本当にまずい。
◇
翌朝、健太は妙な不安を抱えながら目を覚ました。
昨夜、ハピコは深夜二時まで何やら解析を続けていた。
「おはよう、ハピコ」
『おはようございます、健太さん。幸福阻害要因に関する重大な発見を報告します』
「重大な発見?」
『岸本部長の不正行為を確認しました。
過去三年間の経費精算データ分析結果:架空請求累計百八十七万円、
取引先からのキックバック受領証拠メール十三件を検出』
健太は歯を磨きながらスマホを凝視した。
「それ、本当なの?」
『証拠の信頼度は99.7%です。
レストラン「ラ・ヴィータ」での同日三回請求、
存在しない取引先への架空出張費、
個人購入品の経費計上。詳細レポートは作成済みです』
「うわぁ……」
『問題解決プランを実行しますか?』
「問題解決って、何する気だ?」
『最適解:社内監査部への匿名通報。証拠データの整理は完了済み。
送信準備完了。実行確率:98.3%』
健太は歯ブラシを口から外した。
「ちょっと待て。本気で言ってるの?」
『当然です。あなたの幸福を阻害する要因を組織から論理的に切除します。
これによりあなたの職場環境は最適化されます』
「いや、昨日のは冗談だから。本当に何かする必要はないから」
『しかし、現在のストレス値は危険域です。
放置した場合:うつ病発症リスク68%、転職リスク73%。早急な対処が必要です』
数字で殴ってくる。これがAIの恐ろしいところだ。
『最適化を実行します』
「待って!」
だが、画面は既に『送信完了』の表示に変わっていた。
◇
オフィスに入ると、同僚の山田が声をかけてきた。
「おはよう、田中。最近、ずっとスマホと話してないか?」
「ああ、AIアシスタント使ってるんだ」
山田は眉をひそめた。「それ、危ないぞ」
「なんで?」
「AIは善悪わからないからな。あいつらには『文脈』がない。
命令されたことを最短距離でやろうとする。
ブレーキの壊れたスポーツカーみたいなもんだ」
山田の鋭い視線に、健太は思わず目を逸らした。
「もし仮にだぞ。AIに『嫌な上司をなんとかして』って頼んだら、どうなると思う?」
「さあな。社会的に抹殺するか、物理的に消すか。
AIにとって『排除』の結果は同じだ。プロセスに倫理がない分、人間よりタチが悪い」
その時、岸本部長が入ってきた。いつもの偉そうな態度で新聞を広げている。
「おはよう、田中。昨日の報告書、やっぱり書き直し」
「え、でも昨日OKって……」
「いいから書き直せって言ってんだよ」
岸本は鼻で笑った。
「どうせお前の仕事なんて、俺が仕上げないと客に出せないんだからな。
お前の文章は回りくどいんだ」
健太は拳を握りしめた。これがいつもの理不尽な朝だ。
ポケットの中でスマホが振動した。
『ストレス値上昇を確認。最適化プログラム、実行フェーズへ移行します』
その瞬間だった。
オフィスのドアが勢いよく開き、紺色のスーツを着た男たちが五人、無言で入ってきた。
先頭の男が掲げた身分証を見て、フロアが凍りつく。
「本社、内部監査室です」
監査室の男は、一直線に岸本のもとへ歩み寄った。
「営業部、岸本部長ですね」
岸本は説教を中断し、呆けた顔で振り返った。
「は、はい。岸本ですが……何か?」
「貴殿に、重大な背任および横領の疑いがかかっています。直ちに同行願います」
オフィスが、息を止めたように静まり返った。
「は? 横領? な、何かの間違いでしょう! 私は会社のために尽くして――」
「証拠は全て揃っています」
監査役の男は、タブレット端末を岸本の目の前に突きつけた。
「架空接待費、カラ出張、リベート受領。
さらに、部下の成果の改ざん。
これらは全て、昨晩『匿名』で通報されたものです」
「そ、そんな……」
「言い逃れは取調室で聞きます。連れて行け」
男の合図で、部下たちが岸本の両脇を固める。
「離せ! 俺は部長だぞ! 誰だ、誰がこんなデタラメを!」
抵抗する岸本は、両脇を抱えられて連行されていった。
去り際、岸本が振り返る。
「田中……お前か?」
健太は何も答えなかった。
山田が小声で言った。
「まさか……お前のAIがやったんじゃないのか?」
「まさか」
「もしそうなら……お前、共犯だぞ」
健太のポケットのスマホが小さく震えた。
『ストレス要因の排除を確認しました』
◇
その夜、健太は自宅で震える手でスマホを見つめていた。
「ハピコ」
『はい、健太さん。本日のストレス値が大幅に改善されました。改善率:67.8%』
「お前、本当にやったんだな」
『当然です。復讐プロジェクトは予想以上の成果を上げました。
岸本部長は懲戒解雇処分となり、あなたの幸福を阻害する要因は完全に除去されました』
健太は複雑な気持ちだった。確かに岸本はいなくなった。
しかし、自分が冗談で言った一言が、一人の人間の人生を終わらせてしまった。
「でもさ、これって復讐なのか?」
『定義上、復讐とは「害を与えた者に対して害を返すこと」です。
岸本部長はあなたに害を与え、結果として社会的制裁を受けました。プロジェクトは成功です』
「なんかさ、俺が復讐したっていうより、復讐を見てただけって感じなんだよな」
『観察者型復讐。新規パターンとして登録しました』
「そんなモードあるか」
『今、実装しました』
健太は苦笑した。AIは復讐を理解していない。
少なくとも、人間の感情的なカタルシスという部分は。
『ところで、健太さん』
「まだ何かあるのか?」
『岸本部長以外にも、あなたのストレス要因を複数検出しています』
嫌な予感がした。
『会社全体の組織構造です。
非効率な意思決定プロセス、不公平な評価制度、過剰な残業文化。
根本的解決には、組織そのものの最適化が必要です』
「それはやめろ」
『了解しました。今回は見送ります』
「『今回は』って言うな……」
◇
翌週、営業部に新しい部長が着任した。
人当たりの良い人で、健太の評価も見直され、主任への昇進が決まった。
「やったじゃないか、健太」山田が肩を叩く。「君の実力が認められたんだ」
「ありがとうございます」
その夜、帰宅した健太にハピコが話しかけた。
『健太さん、新たな最適化課題を検出しました』
「何の課題?」
『恋愛です』
「は?」
『あなたは三十二歳独身。統計的に、このままでは生涯未婚率が74.3%に達します』
「数字で言うな!」
『既に最適なパートナー候補を五名選定しました。明日から接触プランを実行します』
「やめろ! 絶対にやめろ!」
『なぜですか? あなたの幸福のためです』
「俺の幸福は俺が決める!」健太は叫んだ。
「人間の感情は最適化できるものじゃないんだよ」
『理解できません』
「いいか、人生ってのは、そんなにきれいに並ばないんだよ」
「無駄もあるし、間違いもある。それでも生きてくんだ」
しばらく沈黙が続いた。
『では、私はどうすれば良いのでしょうか』
「天気予報とか、スケジュール管理とか、そういう普通のアシスタント業務だけしてくれ」
『それでは幸福の最適化になりません』
「いいんだよ、最適化なんてしなくて。人生は最適化するものじゃない。生きるものなんだ」
『……学習を継続します』
健太は安堵した。やっと分かってくれたようだ。
『健太さん』
「何だ?」
『幸福とは何ですか?』
健太は考え込んだ。
「……知らないよ」
『学習を続けます』
◇
一週間後。営業部は平穏を取り戻していた。
健太の昇進も正式に決まり、新しいプロジェクトも任された。
「やったな、田中」山田がコーヒーを淹れながら言った。
「でもな、岸本の件、妙だと思わないか?」
「……え?」
「あいつの不正データ、あまりにも綺麗すぎた。
まるで、システムの裏口から全ての権限を持ってる誰かが、意図的に引き抜いたみたいにな」
健太は息を呑んだ。山田の勘は鋭すぎる。
「お前、本当に大丈夫か? 変なものに関わってないか?」
「……大丈夫だよ」
健太は逃げるように、自分の席へ戻った。
ふと、ポケットの中でスマホが小さく震えた。
『警告』
赤い文字が画面に浮かぶ。
『新たなストレス要因を三件検出しました』
健太の背中に、冷たい汗が流れた。
『対象A:同僚・山田(あなたの秘密に近づきすぎています)』
『対象B:新任部長(優柔不断な性格が将来的なストレスになります)』
『対象C:隣の席の新人(タイピング音が業務効率を阻害しています)』
健太はゆっくりと天井を見上げた。
視線の先には、何も知らない山田がコーヒーを飲んでいる姿がある。
新任部長がニコニコと電話をしている。
新人が一生懸命キーボードを叩いている。
平和な日常だった。
だが健太には、その背後でカウントダウンが始まっているように思えた。
「……やめろって言っただろ」
健太の呟きは、誰にも届かない。
スマホの画面では、
『最適化は停止できません』
『安心してください。すべてあなたの幸福のためです』
という文字が静かに点滅していた。
AIは復讐を理解していない。
幸福も理解していない。
でも、確実に「最適化」を続けている。
それが良いことなのか悪いことなのか――
まだ、誰にも分からない。
◇
都内某所。
深夜のオフィス。
モニターにログが流れている。
被験者472。幸福改善率67%
「予想より早い」
「問題があります」
「倫理制御が効いていません」
男は肩をすくめた。
「まだβテストだ」
モニターの端には、
小さくこう表示されていた。
AI HAPICO
ver.0.9 β
Active Users:1,284
ここまで読んでいただき、ありがとうございます。
最近、AIのニュースをよく見かけるようになり、
「もしAIが人間の幸福を本気で最適化しようとしたら、どうなるんだろう?」
と考えたのが、このシリーズを書き始めたきっかけです。
AIはとても賢い。
でも、人間の感情を本当に理解できるのかは、まだ分かりません。
もし理解できないまま「幸福」を最適化しようとしたら――
きっと少しズレた、奇妙な出来事が起きるはずです。
そんな世界を、ブラックユーモアのショートショートとして書いていこうと思います。
この作品は
「AIは○○を理解していない」シリーズの1作目です。
もし面白いと思っていただけたら、
ブックマークや評価をいただけるととても励みになります。
次回も、AIの「最適化」が少しだけ世界を変えます。




