場面7・物事は全て霧のせいにする
意識が朦朧としている。頭がぼんやりと重い。ここは、もう、あの壁の中だろうか。少し息苦しいが、暖かく心地よい。あとは、ゆっくりと死への移行を待つだけである。蛍光灯の光が煌々としている白い天井が、視界の端にぼんやり見えた。目の前には、白い靄を上げている硝子の瓶があった。そこは、壁の中ではなく、いつか見た理科室だった。
先ほどまで実験をしていたのだろうか、アルコールランプの炎がまだ揺らいでいた。しかし、結果を記録するものの姿は見えない。靄がかかる視界の端に、倒れている子供達の姿が見えた。
硝子の実験器具からは、まだ、透明な気体が発生しているのが見える。その実験は失敗している。そのせいで、このまどろむ意識が迫ってきているのだろう。実験の失敗の理由を少年は肌で感じていた。誰かが、薬品を意図的に混ぜたのだ。無造作に混ぜられた薬品のラベルは、もう意味を成さない。
白色の意識の中にある。子供たちがざわめく声がする。まるで、それは悲鳴のようだ。
少年は、見ていた。教壇の上にいる白衣の男を。そこで一部始終を見ていた教師は、目の前で起きている惨劇を、信じることが出来ずに、立ち尽くしていた。しかし、次々に動かなくなる子供たちを見て、現実に気がついたとき、今後問われるであろう責任におし潰され、その脆弱な精神は、あっという間に、砕けた。全て、目の前から消してしまえば、と。動くものすべて、凶器で斬りつけていく。
白衣は血煙にたなびいて、生徒達は次々にこと切れる。白と赤の滴る霞の中に次々と倒れていく。
少年は、見ていた。教室の外へ向かう白衣の男を。再び、薄れ行く意識の中、たくさんの子供たちの駆ける足音を聞いた。その音は、意識と一緒に、だんだん小さくなっていくのを感じた。
少年は、見ていた。生徒たちは、駆けていくのを。長い廊下を、階段を。そして、その校舎からは、次々に人が飛び出してくる。校庭は避難してきた人影でたくさんにあふれ、そこから、あの教室を見守っていた。
その校舎から出てくる生徒たちの集団が途切れた頃、一人の少年が昇降口に現れた。他の者とは異なり、急いでいる様子はなく、落ち着き払っていた。校舎から出て、少し歩いたところで少年は立ち止まる。校舎と花壇の間に光るものがある事に気がつき、そちらの方に向かったのだ。それは、硝子の破片にまみれて、それは黄昏の色に散乱していた。その中に、二本の鉄の棒が落ちていた。少年は、硝子の破片をどかしながら、その凶器を手に取った。もともと1本だったのだろう。真ん中から綺麗に折れていた。しかし、まだ鋭い輝きを持っていた。
少年は、その切っ先にひとさし指を当てた。水銀のような、しかし赤い色の液体が、表面張力で半球の形になって、指先に現れた。少年は、それを口に含んだ。錆びた金属に似た味が、舌に転がっていく。少年は、朱色の唇で、静かにほほ笑んだ。
それと時を同じくして、突然、校庭にひしめく人の中から女の悲鳴がした。少年は、その叫びのした方に、視線を向けた。人の群れは徐々に、その震源地から距離を置くように移動し始めた。群衆の中央には、男に後ろから羽交い絞めにされた女がいた。男の手には、赤い雫を滴らせた刃物が、輝いている。少年は、鞄の中にその凶器をしまうと、その妖しげに煌く甘い匂いに誘われるように、人波をかき分けていく。
少年は、男の背後に忍び寄った。そして、男の腕をつかみ、背負い投げた。男が立ち上がるまでの間に、少年は鞄の中から、先ほど拾った刃物を取り出した。二人の凶器を持った者たちは、向かい合う。
――そして、同時に、胸元に、その凶器を、刺し合い、飛沫を上げて、地に、落ちていく。薄れいく意識、胸に刺さった刃。そこからあふれ出る生命のぬくもり。自分の頭がだんだん重く、地面が近くにみえてくる。まぶたが重い。闇色に染まった空がぼんやり見える。白くなっていく意識、風にたなびく霧のかかる夜のそら。口から吐き出す息さえも白い。空の雲、白い雲、目の前を覆いつくしていく。
すべてがその靄に溶けてしまった。