9話 よろしく
だがその後流石にまずいとおもったのか、肩の力を抜いて、がりがりと頭を掻きはじめた。
「あの……。すみません、ついカッとなって」
おそるおそる、しりもちをついているマザランに手を差し伸べる。
そのディーンの姿に勢いを盛り返したマザランは、勢いよく立ち上がった。差し出された手を払いのけ、腫れ上がった頬を震わせて、ディーンに相対する。
「貴様っ! 上官に対して……っ」
「別に上官ではありませんでしょう?」
マザランの叱責を上からかぶせたのは、凜とした澄んだ声だった。
思わず誰もが、その声の主を見る。
少女だ。
祭壇の上ですっくと立つ姿は、可憐でありながらまるで舞台女優のように花があった。
「憲兵は国王のもの。そこの騎士と異端審問官の彼は教会のもの。それぞれ所属が違うではありませんか」
少女はアーモンド型の切れ長の瞳でマザランを射すくめた。
「それともなんですか。国王は教会より上位の存在である、と? 国王と教会は平等。この原則は建前である、と? だからこそ、そこの騎士は自分の部下的存在である。そのように申すのですか。そういう論理ですか」
淡々と、だが流麗に語る少女に、マザランは明らかに狼狽した。手と首を左右に振り、「そのようなことは言っておらん」と周囲に訴えた。
「いーや。今のはそんな感じだった」
それに追い打ちをかけたのは、リンゼイだった。
腕を組み、ふん、と鼻を鳴らす。
「やだなー。大人ってやだなー。王室は教会をそんな目で見てたんだ。へー。知らなかったー。口では、『大司祭、さいこー』『大司祭、やべー』『大司祭、フィーバー』って言いながら、お腹ん中ではそんなこと考えてたんだ。へー」
「そんなことはないっ!」
拳を握り、マザランは大声を発するが、少女とリンゼイの応酬は止まない。
「怖いですわね。大人って。わたくし、このたび本当にそう思いましたわ。口で言っていることと、やっていることが全く違いましてよ」
「だよねー。汚れてるよね、大人って。あいつ、僕らのことをそう思ってたんだ。大司祭に言うべき? あいつらこんなこと考えてるよって」
「でしょう。言うべきでしょう。なんなら、わたくしからも、申し添えますわ。確かにこの耳で聞きました、と」
「まじで? 一緒に言う? 大司祭に」
「おいっ」
呆然とふたりのやりとりを見ていたディーンだが、肩を乱雑に掴まれて我に返る。直ぐ側には、マザランの困惑顔があった。
「あの二人を止めてくれっ」
必死な目に見つめられ、ディーンは慌てて首を縦に振る。
「お任せください。そんなことは、させません。ええ。このことは大司祭の耳には決して……。だからその、憲兵隊長」
ディーンは間近にある髭面の男を真剣な顔で見つめた。
「どうぞ、リンゼイの言う通りにお願いします。自分は、必ず憲兵隊長の不利になるようなことはしませんので」
断言するディーンに、マザランは安堵したように頷いた。
自分の顔を変形するほど殴った男だというのに、「すまんが宜しく頼む」と頭まで下げて見せた。
「おやめ下さい、憲兵隊長!」
ディーンは慌てて彼に向かって首を振ってみせる。頬骨にひびが入ってるかも知れないな、これ、とマザランの顔を見ておののいた。
「ささ。どうぞ、先にお行きください。我々はこの後、実況検分がありますので」
「そうさせてもらう。あとはよしなに」
マザランはそそくさとディーンから離れ、そして出口に向かう。
その後を、部下が足早に追った。扉から出て行く一瞬、マザランはディーンに目礼する。ディーンはそれに応じながら、やっぱりものっすごい顔、変形してる、と少し反省した。
「さて、と」
明るい声に振り返ると、リンゼイが祭壇からぽすり、と飛び降りているところだった。
「邪魔者はいなくなったし、実況検分といこう」
審問官服の内側から紙束と羽ペンを取り出したリンゼイは、ディーンにそう声をかけた。頷きかけたディーンだが、「あのう」という間延びした声に動きを止める。
「おろしてー」
声に見遣ると、あの少女だ。
祭壇に腰を下ろし、目いっぱい足を伸ばしたが、地面に届かないらしい。ぷるぷると裸足のつま先を震わせて、「おろしてー」とディーンに訴える。
「飛びなよ。ぽーん、って」
呆れたようにリンゼイが言うが、首を横に振る。
「怖い」
そういうから、リンゼイは呆れたように肩を竦めた。
「待ってろ」
ディーンは足早に駆け寄り、正面に向かい合った。ホッとしたように紫色の瞳が自分を見つめる。
「ありがとう」
少女の口唇がほころび、そう告げる。面と向かってそう言われると、なんだかディーンはこそばゆくなって顔を逸らした。
彼女の細い腰に両手を当て、持ち上げる。女の子ってこんなに軽いのか。ディーンは戸惑いながら彼女を持ち上げ、そっと床に下ろしてやる。
「これから、王都まで行きますの?」
菫色の瞳が自分を見上げる。ディーンはおずおずと頷いた。
「大司祭のところに君を連れて行くことになると思う」
「さっきも言ったように君の中の魔物を消さないといけないからね。大司祭にやってもらうつもり」
いつの間にか隣に来ていたリンゼイが少女に告げる。そう、と少女は頷く。その表情は少し戸惑っているようにも、困っているようにも思えた。だが、少女は直ぐにその色を隠し、顔を二人に向けた。
「セトです」
そう言うと、するり、と慣れた素振りでディーンに手を差し出してみせる。
ディーンは「えっと」と呟き、困惑した顔でリンゼイを見た。これ、どうすべきだ、と。
「挨拶」
ぼそり、とそう言われる。
ディーンは慌ててセトと名乗った少女の手を取り、片膝をついた。
手の甲にぎこちなくキスを落としてすぐさま立ち上がる。
「ディーンと呼んで。彼つきの護衛騎士だ」
そう言って、手を離す。
セトは頷くと、今度はリンゼイに手を向けた。
リンゼイは、ぎゅっとその手を強く握る。その様子を見て、なんだよ。あれで良かったのか……っとディーンはひたすら顔を赤くして項垂れた。
「異端審問官のリンゼイだよ。よろしくね」
セトは頷くと、「よろしく」と微笑んだ。