43話 どうしてわたくしはひとりなの!
◇◇◇◇
ごぼり、と闇に飲まれたディーンだったが、すぐに光を感じた。
明るい方に目をやる。
自分の頭の上だ。瞬きをすると、それが火球だと気づいた。
リンゼイの、炎だ。
正直、どちらが「上」でどちらが「下」なのか見当がつかなかった。まるで水の中に放り込まれたように体の動きは悪く、まとわりつくようにもったりとする。
ディーンは、火球があるほうを「上」と決め、両腕で掻く様に前に進んだ。
一歩一歩が重く感じるが、ディーンは水流の中を進むように、足を蹴りだす。
「……セト……?」
自分の前方を、背を向けて走る人影が見えた。
ディーンは目を凝らし、眺める。
銀の髪に、すらりとした四肢。ふわふわとした白いワンピースを着ているその人物は。
「セト、なのか……?」
ディーンは呟く。
その人影とは確かに距離があった。
あちらは抵抗なく走れるのか、動きに無駄がない。そのせいで、ディーンは必死に足を動かしているというに、その距離が一向に縮まらない。
遠くに、見えているからだろうか。
なんだか。
セトが、いつもよりか細い。
「リンゼイ、明かりを!」
ディーンは火球に向かって声を張る。火球はその場で数回回転をすると、光量を増やして燃え盛った。
「セト!!」
ディーンは声を張る。
やはり。
後姿はセトに似ている。
「セト! 待て!!」
大声を上げ、必死に足を動かすと、セトらしき人物が足を止めた。
きょろきょろと左右を見回している。ディーンは前のめりになりながら、あがくように歩を進めた。
「セト!」
さらに大声を張ると、その人影は振り返った。
「……ディーン?」
尋ねる声に。
自分を見る顔に。
相対した体に。
ディーンは思わず動きを止めた。
「ディーン。わたくし、急いでいるんです。なにか御用ですか?」
ぱっちりとした大きな菫色の瞳。急いで走っていたのか。上気している桃色の頬。おろした銀色の髪は長く、腰まで伸びている。
その声は確かにセトで、姿形も、「おおよそのところ」セトだった。
ただ。
痩けた頬に、落ちくぼんだ瞳。ノースリーブのワンピースから伸びる足も腕も、まるで枯れ枝のようだ。関節がごろり、と浮き上がり、張りの無いなめし革のような皮膚が骨を纏っている。
銀の髪も。
艶が無く、まるで薄汚れた毛束のようだ。
「……どこに。行くんだ?」
ディーンはゆっくりとセトに近づいた。セトは焦れたように自分の背後を眺め、それから気まずく「ちょっと急いでますの」とはぐらかした。
「急いで、どうするんだ?」
ディーンの歩みは遅々としているが、それでもセトが立ち止まっているから距離は詰まった。
気づけば、セトの目の前に彼は立っていた。
「随分と、物騒なものを持ってるね」
間近で見ると、本当に痩せこけている。
まるで骸骨のようだ。
「そう、ですか?」
セトは慌てて自分の背後にナイフを隠した。落ちくぼんだせいで、さらに大きく見える瞳をぱちぱちと何度か瞬きさせ、せわしなく視線を彷徨わせる。
「わたくし、本当に忙しくて……」
セトは口をとがらせてそう言った。「みたいだね」。ディーンがうなずく。セトはほっとしたように顔をほころばせた。
「すぐに用事を済ませますわ。ですから、ディーンはここで待っててください」
にこりと笑い、ワンピースの裾を翻す。さらに駆けようとした彼女の手首を、ディーンはつかむ。その細さに、堅さに、ディーンは一瞬怯んだ。
「なんですの?」
驚いたようにセトは振り返った。右手でナイフを持ち、左手をディーンにつかまれたま、きょとんと彼を見る。
「一緒に、帰ろう」
ディーンはセトに微笑んだ。セトはにっこりと笑み返す。「ええ。帰りましょう」。そう頷く。
「ですが、今、わたくし急いでおりますの」
セトは小首を傾げた。
「もう少し待ってて下さい、ディーン。そうすれば、わたくしも帰りますわ」
ディーンは首を横に振る。
「今すぐ帰ろう。俺と」
断言する。手を握った。そっと、力を込める。慎重に。本当に折れそうなほど細い腕を。
「本当に、すぐ済むんです。ねぇ、そうですわね」
セトは紫色の瞳を宙に向ける。ディーンには何も見えないが、セトはそちらに向かってしきりに話しかけ、そして頷いたり首を傾げたりしていた。
「ですからね、ディーン」
早口にセトはディーンに視線を向けて言う。
「もう少しだけで良いんです。待ってて……」
「ダメだ。帰ろう」
ディーンは強い口調で言い切った。慎重に自分の方にセトを引き寄せる。
「俺と帰ろう」
言った途端、大声で喚かれた。「いやよ!」。続いて、セトは悲鳴を上げる。
「いやいやいやいやいや!!!」
片手をディーンに掴まれたまま、ナイフを握る手を振り回す。
「帰らない、帰らない、帰らない、帰らない! いやよ!」
無自覚に振り回すせいで、ディーンは彼女の両手を握ることが出来ない。ただ、上半身を反らし、そして左手をしっかりと握ったまま、「セト」と名前を呼びかけた。
「あそこはいや!」
セトは叫んだ。
「怖い、怖い!」
セトの目に涙が盛り上がる。ふくれあがったガラス玉のような涙は、ぼろぼろと頬を流れる。渇いて、ひからびた皮膚を滑りきれず、滞り、ぬめりながら顎から滴を垂らした。
「どうしてわたくしだけ、ひとりなの!?」
ひぃっく、としゃくり上げ、セトは目ばかり大きな顔をディーンに向ける。
「どうしてわたくしだけ、こんな目に遭うの!」
嗚咽混じりに咳き込む。
「どうしてわたくしだけ、お母様に似なかったの!」
セトは無茶苦茶に地面を蹴りつけた。
「どうしてわたくしだけ、醜いの!」
彼女の叫びに、ディーンは気づいた。
今目の前にいるこのセトは。
彼女が自分自身で思い込んでいる姿なのだ、と。
骨張り、痩せこけ、かさついた肌と糸束のような髪。
思い起こせば、最初から彼女はどうにも、「自己像」に歪みがあるような気がした。
いくらディーンとリンゼイが「教会関係者」であるとはいえ、無頓着すぎる。そんな肩書きの前に、「男」だという危機意識がいつも欠落しているように思っていた。
もちろん、聖職者が女性である自分に何かするはずがない、という前提条件があるのだろうが。
それにしても、無防備すぎるし、自分自身を守ろうという意識も薄い。
それは。
自分が醜い、と。
そう、思い込んでいるからではないか。
思い返せば、彼女自身、何度もそう言っていたではないか。「わたくしは、醜いですから」と。
あれは、謙遜でもなんでもなく。
心底、そう思っていたのだ。
ディーンは、自分の腕をふりほどこうと、奇声を上げてもがくセトを見る。
痩せて、衰えて、ただただ、目だけを見開いた少女だ。
奇異な目で見られこそすれ、異性が声をかけようとは思わないだろう。ましてや、性的対象としてなど考えにくいかも知れない。
だから、セトは無防備なのだ。
こんな自分など、誰が振り向くのだ、と。
誰が手を出そうとするのだ、と。
だからこそ。
政略結婚にしか使えない、と自分自身で思い込んでいるのだろう。
持参金。肩書き。血筋。
そんなものが欲しくて、男は自分に近づくのだ、と。
「セト」
相変わらずナイフを振り回すセトに、ディーンは声をかけた。
「セト、帰ろう。大丈夫だから」
「なにが大丈夫なの!」
セトが金切り声を上げた。「戻らない! 嫌よ!」。目から涙を溢れさせた。
「君は綺麗だ。誰が見てもそう思う女の子だ」
ディーンの声かけに、引き攣れたように笑う。
「じゃあ、どうしてわたくしは一人なの!」
セトは肩で荒い息をしながら、ディーンを睨み付ける。
「じゃあ、どうしてディーンはわたくしのことを好いてくださらないの!」
怒鳴りつけられ、愕然とする。
「わたくしが醜いからでしょう!」
肩を震わせて、泣きながら笑うセトに、ディーンは違う、と叫ぶ。
心の中で叫ぶ。
本当は好きなのだ、と。
君のことが忘れられないのだ、と。
他の男に触れさせたくは無いのだ、このままかっさらって逃げたいのだ、と。
だが。
開いた口唇は震え、結局閉じて噛みしめた。
伝えてどうするのだ。話して聞かせて、どうするのだ。期待だけさせて、それで放り出す方が残酷ではないか。
『君のことが好きだ。だが、俺にも許嫁がいる。その人を大切にしたいから、この話はこれでおしまいだ』
そんなこと、言えるはずが無い。
『ただ、君の好意は俺も嬉しいから、時々会って話をしようじゃないか』
そんな卑怯な真似が出来るはずもない。
「ほら、やっぱり!」
セトは無言のままのディーンを見てひとしきり笑うと、疲れたようにその場に座り込んだ。腕を掴んだままのディーンは、つられるように腰を折る。
「どうしても、わたくしを連れて帰るとおっしゃるのなら」
セトは涙で濡れた瞳をディーンに向けた。
「わたくしの亡骸を連れ帰って下さい。わたくしはもう、あそこには帰れません」
そう言うと、ディーンにはわからない宙を眺めやり、「もう疲れました。知りません」と言い放っている。
「それでは、宜しく頼みますよ、ディーン」
セトは言うと、右手に握るナイフを自分の首に押し当てる。ぐい、と切っ先を細い首に突き立てようとした。




