42話 夜道を歩く
◇◇◇◇
セトは、黒い夜道を歩いていた。
どうして、夜道を歩いているのか、セト自身、よくわかっていない。
確か自分はベッケルフに追われていたような気がするのだが……。
ふと、首を傾げたとき、真後ろから『声』が聞こえた。
「まっすぐに行けばいい」
『声』がそう言うので、素直にうなずく。
明かりがないことが不安と言えば、不安だった。リンゼイのように夜が怖いということはないが、心もとなかった。
なぜなら。
暗いと、父も母もしっかりと殺せないからだ。
ちらりと右手を見る。
ほっと、安堵した。
ちゃんとナイフがある。
これを父に突き立てればいいのだ。ついでに、母も。
セトは足取り軽く、前に進む。
もはや。
自分が夜道をなぜ歩いているのか、という疑問は霧散していた。
「そのまま。そのまま」
『声』は命じた。
セトはうなずく。右手に握り込むナイフ。その手触りと、重さ、堅さをしっかりと感じながら、セトは足を動かした。
早く行こう。
早く、父と母のところに行こう。
そして、殺そう。
「今まで、辛かったな。斎王セシリア」
不意に『声』が、そう言った。
「……辛かった……?」
セトは歩きながらつぶやく。
「兄妹だけが愛されるのを見て、さぞかし、寂しかったのではないか?」
セトは首をかしげる。
そう、だったろうか。
「兄は当然王子として丁重に育てられ、妹は母親に似たおかげで下にも置かれぬ扱いを受け……」
「それでも、わたくしには、侍女たちがいましたわ」
セトは声に答えた。
そう。
自分は、寂しいなどと思った覚えはない。
それが。
普通、だったのだから。
兄や妹が母の傍近くに座り、自分は侍女たちと遠くでそれを眺めて座る。
父は母に無視されてでも歩み寄り、そして兄や妹に声をかける。
自分は、一顧だにされない。
それでも。
侍女たちがいればよかった。
今でこそ、「斎王様」「セシリア様」と呼ぶが、昔は、「セトさま」と侍女たちは呼んだ。
学習がはかどれば、「父王様に似て聡明でございます」と褒められ、ダンスを踊れば、「母君に似て優雅にございます」とほほ笑まれた。
寂しいなど、自分は一度も思ったことがない。
「では、今からはどうだ?」
『声』は尋ねる。
セトは、歩みを止めた。途端に、「歩くのだ」と促され、慌てて足を動かした。
「お前は、見知らぬ男のところに嫁ぐのだろう?」
『声』は不意に近くに聞こえ、その声音が耳朶を揺らす。
「たった、ひとりで」
ぞくり、とセトは肩を震わせ、必死でナイフを握った。
そうだ。
今まではさみしくなどなかった。
神殿に行ってしまったことで、皆に迷惑をかけてしまったが、それでもセトは楽しかった。
父や母を見なくても済むし、自分だけ扱いが違う、と感じなくてもよかった。
閉じられた、区切られた生活空間で、自分のことを愛してくれる人たちに囲まれて暮らすだけでよかったのだ。
だが。
「獣のように毛むくじゃらで、醜く太った男のところに嫁ぐのだろう?」
脳裏に浮かんだのは、先日自分に声をかけてきた酔っぱらいの青年だ。
手の甲に毛が生えていて、もみあげもずいぶん長かった。別の男は剃り残しのひげがあって、口からは煙草と酒の嫌なにおいまでした。
「たった、ひとりで」
セトは悲鳴を上げた。
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。
「子を、なすのだろう?」
セトは首を横に振る。
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。
あの男たちに服越しに触られただけでも鳥肌がたったのに、共にベッドに入るなど、気が狂いそうだ。
そんな男との子など。
どうして。
自分に愛せようか。
「お前の兄も、婚約が決まったそうだ」
肩をこわばらせ、宗教用具のように必死にナイフを抱え持つセトに、『声』は告げた。
足早に歩くセトに、執拗に『声』は言う。
「お前も覚えているんじゃないかね。ほら、マクセル侯爵家の娘さ。幼馴染のように育ったそうだね。そのころから二人は、ずいぶんと仲が良かったそうじゃないか」
促されなくても知っている。覚えている。
5歳ごろまでしか自分は王宮いなかったが、当時十代半ばだった二人は、はた目にも恋人同士のように仲睦まじかった。
そうか、とセトは胸が締め付けられる。
兄上も、好きな人と結婚するのか、と。
「妹はすでに外国の王家に嫁いだそうだが、それはそれはいくつもの肖像画の中から王子を選んだそうだよ」
くくくくく、と声は笑う。
「母が肖像画を吟味し、父である国王が王子を自ら呼んで面接をし、その様子を陰からのぞいて、あの妹は自分が一番気に入った王子と結婚したのだそうだ」
そうか、とセトは息苦しさのために眩暈がした。
妹は、自分で選んだ男性と結婚したのか、と。
「お前だけが、わけのわからぬ男のところに嫁がされるのだなぁ」
『声』は笑う。
セトは半ば駆けだした。
いやだ、いやだ、いやだ、いやだ。
ただただ、そう念じた。
「そりゃそうだ。成り上がりの、薄汚い、欲望にまみれた男の餌になど、なりたくはないだろう」
『声』は真後ろから聞こえた。
セトは、その『声』に背中を押されるように走る。伸ばした髪が、揺れる。全速力で走っているからか、後ろになびいた。
「殺せ、殺せ。母も父も、殺してしまえ。そうすれば」
『声』は、やさしげに言う。
「お前は、自由だ」
そうだ、とセトは思った。
「お前に愛情を注ぐどころか、都合の悪いことばかり押し付けてくるあの両親を殺せ。そうじゃないと」
『声』は、ひひ、と笑う。
「もっと、ひどい目に遭うぞ」
セトは荒い息を吐き出しながら、自身の目の前が真っ暗になるのを感じた。
もっと、ひどい目。
それはどんなことを指すのだろう。
自分はどんな目に遭うのだろう。
ここを出たら。
もう、自分を守ってくれる侍女たちはいないのだ。
ひとりで戦っていかなくてはならないのだ。
やるしかない。
セトはナイフを握りしめる。
あの父や母が、自分に対し「もっとひどいこと」をする前に。
(殺さなくては……)
セトは必死に足を動かし、喉を反らせて息をする。
早く、ふたりの元に行かなければ。




