4話 思い込んだ奴はすでに負けている
「どうする?」
ディーンは振り返り、リンゼイを見た。生け贄の少女の首には、短剣の切っ先が当てられている。すでに少し刺さったのか。少女の首からは細く血が流れ出ていた。
リンゼイは腕を組み、つまらなそうに司祭と参加者、それから祭壇を眺めている。
まだ幼さが残る顔だ。
大人びたデザインの異端審問官服がその年に不釣り合いのように見える。
それもそのはずだ。最年少の異端審問官。過去例がないほどの速さでリンゼイはその地位に上り詰めた。
「ディーン」
リンゼイは腕を解き、人差し指を曲げて相棒の騎士を呼ぶ。
ディーンは戸惑いながらも、佩刀から手を離して後ろ向きに数歩リンゼイに近づいた。
謡唱はすでに三節に入った。
異端書の終盤は近い。
「魔方陣がどこかにあるはずなんだ」
背伸びをし、リンゼイはディーンの耳元で囁いた。唇の動きを読まれないように手で覆うことも彼は忘れなかった。
ディーンは素早く祭壇に目をやる。
非常に視界が悪い。カンテラと蝋燭の明かりだけでは、どこに魔方陣があるのかわからない。
「異端書を最後まで読み上げたとしても、魔方陣が不十分であったり、消されたりした場合は、悪魔は現れない」
リンゼイの言葉に、ディーンは頷いた。
「どこかに書かれた魔方陣を崩せばいいのか。彼女はどうする?」
ちらりと少女に視線を走らせたディーンに、リンゼイは鼻を鳴らした。
「人質は取らせたままにしておけばいいよ。優位に立っていると思わせればいい」
リンゼイは司祭を見やる。
「囲碁でもそうさ。自分の陣地が相手より広いと思い込んでいる奴は、その時すでに負けているんだ」
「囲碁ってなんだ」
ディーンは目を瞬かせる。リンゼイは口をへの字に曲げて肩を竦めて見せた。
「こっちにはないのか。ボードゲームだよ」
リンゼイの言葉にディーンは小首を傾げる。
リンゼイとは知り合って数年。仕事を組み始めて一年ほどだが、時々不思議なことを言う。
「とにかく、魔方陣を探して崩す。そうすれば、術は発動しない」
リンゼイがきっぱりと小声で言い切る。ディーンが頷いた。
視線を祭壇に向ける。
床、天井、配置された器具、壁。
いろんなところを見るが、魔法陣らしきものは描かれていない。
参加者達は地に拝して詩を唱えている。
五節に入っていた。
朗とする司祭の声が先導する。
腕の中の少女は荒い息を吐きながら、まだ逃げだそうともがいていた。元気だ。
だが。
「あと、一節……」
思わずディーンの口から声が漏れる。
それまでに、魔方陣を見つけなければ。
「どこだよ」
苛立ったようにリンゼイが呟く。ちらりと見た彼は、めまぐるしく黒瞳を周囲に彷徨わせていた。
「偉大なり、偉大なり。彼の声は天を割り、地を震わせる」
司祭が大声を張ったときだ。
「その場を動くな!」
「皆、武器を捨てよ!」
いくつもの罵声や怒号が足音と共に室内に吹き込んだ。反射的にリンゼイとディーンは振り返る。二人だけではない。参加者も詩謡の声を止め、司祭さえ口を閉じた。
「みな、静まれぇぇい!」
松明を翳し、大声を張り上げたのは顎髭と剛毛が目を引く熊のような男だった。男は憲兵隊の証である赤のサーコートを身につけていた。
「ディーンのお友達?」
ちらり、とリンゼイがディーンを見やる。ディーンは困惑したようにリンゼイに告げた。
「違う。知らないのか? 王立憲兵隊第二隊長のマザラン卿だ」
ふぅん、リンゼイは気のない素振りで呟く。マザランの周囲には5名ほどの同じ赤のサーコートを着た騎士達が居た。彼らも憲兵隊、ということだろう。
「そういえば制服が違うね」
リンゼイの指摘通りだ。
ディーンの所属は教会だ。もちろん、異端審問官であるリンゼイも。
だが憲兵隊の所属は、国王。
指示系統がまるで違う。
それなのに。
(なぜ異端集会の場に憲兵隊が?)
ディーンは眉根を寄せた。