34話 なぜわたくしだけが
セトが礼を言うようになったのは、リンゼイの影響だとディーンは思っている。
ご飯を受け取るとき、何かをいただくとき、セトは言葉を口にしたことはなかった。いつもただ、黙ってうなずくだけだった。
それを注意したのがリンゼイだ。『ちゃんとお礼を言うまであげません』と叱るから、ディーンは笑った。『ときどき、セトのお母さんみたいだな』と。
確かに、リンゼイはセトにいろんな習慣を教えた。礼を言葉で伝えること。自分のことは自分ですること。できないことは、「教えて」ということ。
それは今後、きっと彼女にとって必要な力になるだろう。
「あーっ! なんでふたりでジュース飲んでんのっ!?」
ジンジャーエールで喉を潤していたら、背後から怒声が響いてきた。
「お前もいるか」
のんきに尋ねると、憤懣やるかたないとばかりにリンゼイが「当然だよっ」と答えた。
「じゃ、どうぞ」
ディーンは自分の持っていたゴブレットを差し出したのだが「新しいのが欲しい」とまたリンゼイは怒る。仕方ない、とばかりにディーンは肩を竦め、また屋台の方に行って新しくひとつ購入した。
「ほれ」
「その言い方」
差し出すとリンゼイがにらむ。まったく文句の多い男だと苦笑をしたら、リンゼイはセトの隣にどん、と座った。
「君のその魔方陣のことなんだけどさ」
セトは両手でゴブレットを包みながら、緊張した面持ちで「はい」と答えた。
「最近、なんか悩んでる?」
急に切り出され、セトは狼狽える。
「悩む、とは? そりゃあ、こんな状態になったことについては悩んでおりますが……」
「うーん。そういう感じじゃなくってさ」
リンゼイは足を組み、その膝に頬杖をついてセトを見やった。
「誰かが妬ましい。誰かがうらやましい。誰かが憎くてたまらない、とか」
黒い双眸に見据えられ、セトは背中をこわばらせた。
その表情を見て、ディーンはなにか助け舟を出せないかと口を開く。
「その……セトは、お母上や妹君のことを思い出すとき、背中に異変を感じると言っていたぞ?」
「君、お母さんや妹さんに対してどんな感情を持ってる?」
だがリンゼイの追及は止まない。
「……それが、なにかこの魔方陣とかかわりがありますの?」
セトはリンゼイの視線から目をそらし、通りに顔を向ける。
「たぶん、君の中の悪魔が反応しているんだ。君の負の感情に」
リンゼイの言葉が、セトの心に当たり、硬質な音を立てたように見えた。かつん。セトの心は揺れ、震える。
その振動は身体をも揺らした。
「セト……」
小刻みに震えるセトにディーンは声をかけるが、セトは強くこぶしを握り締めることでそれを抑え込む。
「……わたくしには、『思う』ことすら許されないのですか」
爆発しそうな感情を押しとどめたら、今度は声が震えたようだ。
セトはぎゅっと下唇を噛む。リンゼイが慌てたように続けた。
「そういうわけじゃないけど」
「では、どういうことですか。何も考えるな、ということですか。何も思うな、ということですか」
セトはそこでひとつ大きく息を吸い込んだ。
「他の皆は、いろいろ思っているではないですか」
そして吐き捨てた。
「誰かが妬ましい、なぜ自分はこんな目にあうのか、なぜあいつだけが幸せなのだ、憎い、つらい、しんどい、と」
ぼろり、と。
セトの目から涙がこぼれた。
「それなのになぜ、わたくしだけ……」
ゴブレットを握る手に、ぽつり、とセトの涙がこぼれ落ちた。
「なぜわたくしだけが、妹をうらやむことも、母を憎むことも……。誰かに嫉妬することも許されぬのですか……」
「どうした? 何があった」
ゴブレットを片手に持ち替え、右手で涙をぬぐい取っていたセトが、ディーンの声に、ゆるりと顔を上げる。
ディーンは戸惑ったようにセトとリンゼイを見比べる。
リンゼイは、というと。
氷の彫像になる魔法でもかけられたかのように、硬直していた。
「リンゼイ、お前も大丈夫か」
ディーンが柔らかく問いかけると、一気にリンゼイは首を横に振った。
「ごめん、ごめん、ごめん、ごめん! 言い方がきつかった⁉」
言うなり、真っ青になってセトの手を握る。
「泣かせるつもりも、責めるつもりも全くないよ。ごめん、違うんだ。ほら、ずっと男二人の旅を続けてきたからさ、なんかこう。鬱憤でもたまってんのかな、と思って」
涙をぬぐうセトの前で、リンゼイは端整な顔をゆがめた。
「いろいろ無理させたかな、とか思ってさ。僕、いろいろ言ったしね。だから、早く王都に向かおうと思って。そっちのほうが、君、ラクだろう?」
「……早く?」
セトはオウム返しに尋ねる。リンゼイはうなずいた。
「セトの体力とかよくわかんなかったから、結構のんびり来たんだよね、ここまで。だけどさ。さっきの郵便局で、僕宛に届いた手紙があったんだ。教会からの」
セトは促すように瞬きをする。涙の残滓が散り、澄んだ紫水晶のような瞳がリンゼイをとらえていた。
「ベッケルフが、逃げ出したらしい」
「ベッケルフが?」
セトは目を丸くするが、ディーンだって驚く。
「憲兵隊はどうしたんだ」
やつらが連行し、尋問するのではなかったか。
リンゼイは肩をすくめてゴブレットのジンジャーエールを口元に寄せる。
「あの村で、魔方陣を見たろ?」
リンゼイは一息にジンジャーエールを飲み切った。
「あれ、変だと思ったんだ。カーレンの魔方陣なんて異端の中でも珍しいからね。それが、続けて二件も出るなんて、と思っていたし、それに」
「それに?」
ディーンは自らもエールを口に含んで促した。
「あの、変なにおい。あったじゃん」
ディーンとセトは顔を見合わす。小屋中に充満していた、あの腐臭。
「あれ、魔物が発しているっていうよりさ、化膿した傷の臭いに似てたんだよ。あいつの右手。ほらベッケルフの右手ね? 僕が焼いたじゃん」
しれっとリンゼイが言い、ディーンは顔を顰めてソーダを煽った。
確かにそうだ。思い出した。
「ではあの男。逃げ出して、さらに術を継続していた、ってことですの?」
セトの言葉に、リンゼイはうなずく。
「ま。あとは贄を屠るだけで術は執行されるんだから、歯がゆかったんだろうね。なんとしても、君の命を奪おうと来るだろう。そうすれば術が発動できるんだから」
リンゼイの双眸がまっすぐにセトを見据える。セトはその内容にたじろぎはしなかった。
ただ。
純粋に焦っているように見えた。
「教会にお願いして早馬を用意したんだ」
リンゼイがディーンとセトに言う。
「セトの馬術の腕前なら、用意した馬でも乗りこなせるでしょ? もちろん、僕とディーンも同行するから安心して」
ディーンも口角に柔らかい笑みを乗せてセトを見た。
「次の都市には護衛騎士たちがいる。後は彼らとともに王都に行けばいい。安全だ」
「次の都市で、二人とはお別れですの?」
尋ねたセトの声は、震えてはいなかったが、かすれていた。ごまかすように、セトはゴブレットを口元に寄せる。
「そうだな。教会のほうが司祭も用意してくれているようだし……」
「動き早いよね。護衛騎士だって、あれでしょ? 一角馬騎士団が来るんでしょ?」
「一角馬騎士団?」
セトが肩を跳ねるようにして驚いた。
「そう。異端審問官とはあんまり一緒に行動しないんだけどねぇ」
「俺も初めてお会いするな。聖域で活動することが多い騎士団なんだが……。セトは知っているか?」
ディーンが尋ねると、セトは顔を青くして小さく頷いた。
「きっと……。なにもかも露見したのですわ」
小さく小さく。
か細い声でセトは言う。
「……セト?」
様子が変だ、とディーンはいぶかる。
「なにが露見したって?」
「……なんでもありません」
セトは首を振ってその質問を拒絶した。
「あの……今晩、発ちますの?」
そのかわり彼女は別のことを尋ねた。
「いや。明日の朝にしよう。夜は危ない。俺とリンゼイだけでは君を守り切れないかもしれないから」
ディーンの返答に、セトはゆっくりと息を吐いた。
ようやく安心した。そんな感じだ。
「ねぇ、今日の夕飯って、宿?」
リンゼイがぶらぶらと脚をゆすらせながらディーンを見上げる。
「いや、まだ確定じゃないが……。どっか食堂で食べるか?」
そう提案すると、リンゼイはベンチから勢いよく立ち上がる。
「むっふっふ」
そして人の悪い笑みを浮かべた。そのまま、セトの正面に向かうと、うつむき加減のセトの顎をつまみ、上を向かせる。
「気晴らしに、冒険してみないかい? お嬢ちゃん」
挑戦的に、リンゼイはそう笑った。




