26話 町営住宅1
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携帯のスヌーズ音に凛世は薄く目を開いた。
カーテンから漏れ出す朝日はまだ、薄い。布団の中でぼやり、と天井を眺めていたが、「凛世、起きているの?」という母親の声に、「うぃいい」と返事をする。
寝転がったまま畳に手を這わせ、携帯を手に取る。パネルをスライドさせてアラームを停止させると、呻きながら上半身を起こした。
ふすまの向こうからは、「おっさんみたい」と母親が笑う声がする。その後に続くのは、じゅっ、と何かが焼ける音だ。
「おかーさん。朝ごはん、いらないー」
凛世は言いながら、布団から這い出る。
鼻腔をかすめるのは、卵焼きを焼くにおい。
「食べなさいっ」
叱られるが、「いらないー。時間ないー」と答える。
どうして、ディーンといい、母親と言い、まるで一大事のように自分に朝ごはんを食べさせようとするのだろう。
万年床だ、とこちらも毎日注意されるが、凛世は布団をたたまず、勉強机に向かった。
ノートパソコンが置かれ、その両脇にノートと教科書の山が屹立する机から、今日必要な分の教科と学校指定のタブレットを手に取る。
「じゃあ、お弁当に追加しておくから、お昼食べて」
そういわれて、「うん」と頷く。スウェット姿のまま、学生カバンに手を伸ばす。バックルを外し、かぶせを開き、ファスナーを走らせた。
今日、使わない教科のノートを引っ張り出そうとして。
一緒に、茶封筒が出てくる。
見た瞬間。触れた瞬間。気づいた瞬間。
咄嗟に頭に血が上り、つかんでごみ箱を振り返るが。
母親に見つかることを恐れて、寸前で思いとどまる。
いらだち紛れに布団にたたきつけ、その上から学生カバンで押しつぶした。乱雑にノートと教科書を引っ張り出し、ぶちまけ、今日の分を押し込む。
無茶苦茶にスウェットの上下を脱ぎ、パンツ一枚で凛世は部屋から飛び出した。
「あんた、学生服着てから出なさいよ」
呆気にとられた母親が、お弁当を持って立っていた。
もう、出勤するのだろう。化粧も服装もばっちりだ。
「すぐ、着るー」
言ってから、洗面所に飛び込んだ。
ざぶざぶと顔を洗い、せわしなく歯磨きをしていると、「お母さん、もう出るからね」と声が聞こえる。
「うん」
うがいをしてこたえ、タオル掛けに手を伸ばす。
視界に入るのは。
古びた、鏡だ。
端っこが欠けているのは、この町営住宅に引っ越してきた当時からだった。
曇った鏡は縁起が悪い、と母親がいつも拭いているが。
それ以前に古びて、壊れ、どうしようもない。
鏡に映るのは、伸びすぎた黒い髪に、黒目がちな瞳の男。
少年というには年がいきすぎで、かといって、青年という部類に入れるには、幼すぎる。男というには太さがなく、女というには、つやがない。
中途半端な姿が、そこにあった。
「………」
なんとなく、セトに言われた言葉が気になって鏡に顎を近づける。
「……ひげだと、おもうけどなぁ……」
一本だけ濃いひげが数ミリだけ伸びている。指でつまんで抜いた。些末な痛みに顔をゆがめていると、「行ってきます」と声がかかる。
「はーい」
こたえて、凛世は洗面所を飛び出した。
キッチンや居間を兼ねている小さな部屋を数歩で通り抜け、自室に入る。唯一の個室を、凛世は母から与えられていた。当初、いらない、と断固言い張ったのだが、「思春期男子に部屋はいるでしょ」と笑われて、結局この部屋は凛世のものになった。
カーテンレールにひっかけたハンガーを取り、シャツを着る。
壁時計を見た。
八時。
高校までは徒歩十分だ。余裕で間に合う。
が。
近所のコンビニで、この茶封筒を捨てなくては。
ズボンをはき、ベルトを締め、歯磨き粉のミントくさい息を吐いてため息をつく。
学生カバンを持ち上げた。
その下で、押しつぶされた茶封筒。
中に入っているのは、男性同士が性行為をしている写真だ。どこかの雑誌の切り抜きなのか、ネット検索してプリントアウトしたのかは知らない。
嫌悪感をこらえて握りしめ、部屋を出る。
リビングの食事机から、ランチバックを取った。
数歩でたどり着く玄関に行き、肩で片切スイッチを押した。室内の電気が消える。
学校指定の革靴に足を突っ込んだ。
なんで運動靴にしてくれないのかね、と凛世は思う。革靴だと、体育用にまた、運動靴を買わねばならない。母親は、そのことをしらない。凛世は、母親に、「中学校の時のシューズでいいって」と言い、学校指定のシューズは、離婚した父親のところに行って、分捕ってきた金で購入した。養育費を払わないんだから、これぐらい安いもんだ。
施錠をし、家を出る。
近所のコンビニでこっそり茶封筒を捨て、同じ高校の学生の群れに潜り込む。
なるべく目立たないように。
凛世はうつむきながら、周囲に歩調を合わせる。
周囲の学生たちは、朝の小テストを話題にしていた。背後の学生たちは、スマホでゲームをしているらしい。課金がどうの、と言っている。
凛世は静かに、歩く。
ひとりで、歩く。
誰も、彼に声をかけない。
凛世も。
誰とも話したくない。
そっと、下足室で靴を履き替え、教室に行く。
教室はにぎやかだ。
女子が甲高い声で何か言い、大声で笑っていた。
ふと、思う。
セトはあんなに風に騒がない。
笑ったり、怒ったり、命令したりするが。
(……品が、いいんだな)
教室の、一番後ろにある自席に座り、凛世は少しだけ自分の口角が上がるのを感じた。ただ、横柄だけどなぁ。心の中でそう付け足す。
凛世は机の上に乗せた学生カバンのバックルを開く。
教科書をおさめようと、机の中に手を這わした。
がさり、と。
掌が。
何かに触れる。
凛世は浮かんだ笑みを瞬時に消し、机の中をのぞく。
そこにあるのは、茶封筒だ。
そっと引き出し、中を見る。
中には。
男性同士が交わる写真が山のように入っていた。ぱんぱんに膨れ上がるほど、入っていた。ぎゅうぎゅうに、詰められていた。
『高校に行けば、いじめは収まるかもしれないね』
過去に言われたあの言葉。
スクールカウンセラーの声が、ざらりと鼓膜を撫で、怒りに視界が真っ赤になりそうだ。
憔悴しきり、がりがりにやせた母に、スクールカウンセラーは穏やかに微笑んで言った。
『凛世君は頭がいいから。進学校に行けばいい。そんな高校に、いじめをするような子はいませんよ』
(嘘つけ、このやろう……)
凛世は茶封筒を机に押し込みうつむいて、手の中で握る。
あっちの世界なら。
きっとこの教室中が炎に包まれただろう。
それほどの怒気を、凛世は肩から、頭から、背中から噴き出していた。




