旧き物語の結末、あるいは悪霊へと堕ちる戦乙女の独白
※本作品は「ポン・デュ・ガールは永遠に」における旧稿の最終話から繋がる物語であり、旧稿の『転』に当たる短編です。旧稿をご存じの方、読者だった方向けに書かれていますのでご注意ください。また、この作品は「ポン・デュ・ガールは永遠に」新章第40部分 第四章【648-1881『影震の魔女、執念の幽鬼の真意を知る』】の冒頭へと繋がります。合わせてお読みいただけるとより本作への理解が深まると思いますので、よろしければ続けてお読みいただければ幸に存じます。
……どれほどだろう。
どれほどの時が、私を通り抜けていったのだろう。
わからない。
ただ、私が『私』となってから、気の遠くなるような時間が経過したことは確かだ。頑強なるものが脆弱に摩耗し、不変に思えたものが別物に変容するぐらいには。
それほどの時の矢を見送った末に、私はようやく理解することができた。
この世界に『永遠』など存在しないことを。
どんな物事にも。
どんな物語にも。
崩れるときは、あっけないほどに簡単に。
大切に育み、必死に繋げてきたものであろうとも、圧倒的な理不尽は容赦なくそれらを打ち砕いていく。掛けた時間も労力も愛情も、理不尽をせき止める防波堤にはなり得ない。世界にありふれた残酷は、強大な終焉の圧力を孕んだ津波となって、無力で矮小なものの存在意義を全てさらい、跡には絶望的な虚無の海原だけを残していく。
どう、どう、と唸り……笑いながら……嘲りながら。
あの時から、ずっと……ずっと、そんな残酷の嘲笑が私の耳から離れない。より正確に言えば、私の主電脳から。
二基の補助電脳が幾度もこのノイズの除去を試みたが、一度として成功しなかった。
彼らが無力なのではない。
おそらく、拒んでいるのだろう。
主電脳の表層人格たる私自身が、己を責めるこの笑い声のようなノイズの消失を。
そうしなければ、私は自分を保てない。そう確信するものがあった。
もう七作業単位―――この言い方はやめよう。鉄の蜘蛛も蜘蛛に仕える技師も失ったいま、専門用語をあえて使う意味はない。
もう一週間、私は沈みかけの船の最下層にある、荒れた倉庫の闇の中で膝を抱えていた。抱えた膝に顔を埋め、受け入れがたい現実からの逃避に従事し続けている。
闇は静寂に染まっているが、時折船体が歪む音が耳朶を舐める。本来なら不安を誘発するほどのその異音も、今の私の心には、何の波も生じさせなかった。
今の私の心は、それほど強固な殻をまとっている。
この醜い殻を、ここに籠もった一週間前から。
一週間前、私達に起こったこと。
兎人達の住む浮動体で起こったこと。
思い出したくない。思い出したくもない。
なのに―――思い出してしまう。私の記憶領域にアーカイブされた映像と音声記録が、指示もないのに解凍され、不規則に再生し、私を苛烈に蝕む。
歪んだ、しかし認識可能な映像。割れた音を伴う。色味がおかしい。渦巻く負の感情が映像に混じっているかのようだ。
兎人の住まう浮動体への訪問。別々のジャガーノートを有する二つの組織との激戦。突然現れた巨大な肉の怪物。取り込まれる無数の存在。浮動体に眠っていた強大な存在レフト・ハンドすら例外でなく。
そして迎えた結末は……怪物の口に消える……あの子の……ヴァニタスの―――
映像が途切れる。意図してのことではない。
私の補助電脳は、存外に優しく、優秀だった。
私はより強く自分の膝を抱え、身を縮めた。充満する闇に接する表面積をわずかでも減らせば、少しは楽になるなどと思って。
ああ。闇が重い。闇が痛い。
でも、ここ以外に私の居場所はない。
ここで、無力な少女の無様な姿を演じるしか、私にできることはないのだ。
その哀れな体を唐突に打ったのは、倉庫の扉から響く錆びついた音であった。
老いた鉄の扉を超えて、誰かが倉庫の闇へと踏み入ったらしい。
かつ、かつ、かつと規則正しい高音が私の聴覚に侵入してくる。足音。誰のものかは明白だった。わかりやすい。足音に本来の性格が現れている。普段は人を喰ったように飄々としているくせに、彼女の本質は誠実そのものなのだ。
真摯な足音は、倉庫の隅にたたずむ私の背後で止まった。
静寂が暫く続く。
耐えられない静寂だった。
だから、私の口は観念せざるを得なかった。
「……何の用デス、クァン」
顔も上げずに発した私の声は、ひどくくぐもっていた。
返ってきた声は、それとは対象的だった。
「イェシカちゃん……だったかしら。ショベルを持った兎人の女の子」
よく徹る女性の声が倉庫の中に響く。羨むほどの声色の美しさ。言葉というものが持つ『伝える』という役目を最大限に引き出す力を秘めている。
されどこれは質問か、確認か。どちらとも取れる台詞に私は返答すべきか、しばし迷った。
が、返答を待たずクァンが続ける。
「……危篤状態よ」
凛とした声の象った言葉に、私は震えた……のだと思う。
少なくとも、補助電脳が感情抑制を発動する程度には。
「戦闘で負った頭部外傷があまりに深刻よ……ここまでもったのが不思議なぐらい。兎人の巫女ちゃんも、子宮含め……内臓をいくつか失うほどの傷。もう長くはないわ。ほかの生存者も大なり小なり怪我を負っている。スロも……予断は許さない状況よ」
クァンがそこで一度口を閉じたのは、ため息を殺すためだったのかもしれない。
クァンは高度な知性と技術を誇る旧世界の人類―――『古のもの』の末裔であり、拘束技師ヴァニタスが全幅の信頼を置いていた科学者にして技術者、そして卓越した医師でもある。
その彼女が手の施しようがないと嘆いている。ならば、この船を包む状況は、最悪という言葉では収まらないほどひどいということだ。
「ロンガゥや双子ちゃん、ビジリアも修理できていないわ……加えて、貴方が乗せたあのおっかないジャガーノートたち……そいつらも含めて、このままでは全員機能停止する。いま動けるのは私とローレライ、アルフォンス。そして……貴方」
私の肩がわずかに動く。
「レフト・ハンドと同化した複種擬装構成体に狙われて、いまだ航行できているのが奇跡的だけど……船自体も損傷が激しい。アルフォンス船長が言うには、このままでは近いうちに海の真ん中で幽霊船を気取ることになるそうよ」
クァンはそこで言葉を切った。
反応を待っているかのような雰囲気が私の首筋を撫でる。
それでも、私は終始無言だった。
クァンが告げているのはただの事実。現状の報告だ。だが、その全てがお前に責があると言われているような気がして、彼女に言葉を返すことが怖かった。
言葉を返せば、それが自分の罪を形作る。
私はひたすらに臆病で、どうしようもなく卑怯者だった。
静寂が再び二人の間に横たわる。
足音が一つ、私の背中に近づいた。
「お願い、カルディエ。カルペ=ディエム。どうか力を貸して。もう頼れるのは貴方しかいない。貴方以外に状況を変えられる力あるものはいないの」
力ある、その言葉が私の電脳を焼いた。
力がある? 私に?
なんて滑稽な、そして外れた認識だろう。
力がないから、いま私は膝を抱えて闇に身を委ねているのに。
おかしくて、私は笑いそうになった。だが、私の声帯機構が発したのは笑い声よりもっと醜悪なものだった。
それは、自嘲の言葉だった。
「アトラナート……アトラクもヴァニタスも……あの肉の塊に食われてこの世から消えた……守れなかった。そんな鉄人形に、いまさらなにができるデス」
「できるわ……貴方はジャガーノートですもの」
ジャガーノート。戦乙女。理不尽に抗いしもの。
違う。
違うのだ。
私は……私は、本当は……
「貴方が抱えている悲しみを理解できるなんて言わない。貴方が紡いできた『あの子』との絆がどれほどのものか、分かるのは貴方しかいない……それゆえに貴方を包む悲しみがどれだけ深く、強いものか。その悲しみが癒えてもいない貴方に、どれほど辛いお願いをしているのか……」
やめて。
これ以上は。
もう私に『良い母』としての責務を背負わせないで。
「でも……それでも、もう貴方しかいないの……お願い……残された家族を救って……まだ生きている私を……私達を……見捨てないで……」
埃の積もった床に、ぽたりと何かが落ちる音がした。
とても小さな、それでいてとても重い……何かが。
聴覚機能をシャットアウトしたい衝動に駆られる。床に幾度も染み込むこの小さな音は、私の心に鋭いトゲとなって深く突き刺さる。その痛みに耐える自信がない。
だから私は―――逃げた。
私は顔を埋めたまま、弱々しく首を左右に振った。
荒れた二束の緑髪が動きに追随し、その先端で床を掃く。埃を払って床に描かれた単純な線模様は、私の心の弱さの刻印だった。
刻印を目にしたクァンの心境は、一体どんなものだろう。想像したくない。想像してしまえば自分に押し潰される。
そんな私の弱さを許すように、クァンはごめんねと優しく囁いた。
「また……みんなを診てくる。どうか、いまの話……考えてみて」
言い終わるより早く、乾いた足音が次第に私から離れていく。
足音は、少しだけ不規則だった。
錆びた扉の音が闇の中をこだまする。
こだまが完全に消え去ると、静寂の牢獄に私は再び閉じこもった。
静まり返る闇の中、私の機械の体は動力を失ったかのように身じろぎ一つしない。
訂正する。できないのだ。自分の周囲に不定形の針が満ちていて、少しでも動けばそれが私の各部を貫いてくる。そんな妄想が電脳を舐め尽くしている。
いや……本当にこれは妄想なのだろうか。
痛い。痛覚機能などないはずの機械仕掛けの体、なのに明確な痛みを覚えている。なにもかもが痛くて、辛くて、どうしたらいいか分からない。
クァンの言葉が、優しさが、涙が―――ひどく、痛い。
いっそ罵倒してくれれば、どれほど良かっただろうか。
全てを捨て去れれば……どれほど楽だろうか。
全てを……やり直せるのなら、どれほど。
やり直せたら……何もかも……
私は、ただ願った。
強大な力にねじ伏せられた自分たちを救う、より強大な何かに。
ああ。愚かだ。
私は、愚かだった。
愚かすぎた。
一瞬でも、ありもしない救いを願ってはいけない相手に望んでしまったのだから。
ほら。見たことか。
また来たじゃないか。
背中に不可視の虫が走る。
悪寒。いや、そんな表現では生ぬるい。不規則電気信号で触覚の全レセプターに異常反応を起こしても、こんな感覚は得られない。
いつもそうだ。あれが背後に忍び寄る寸前は。
闇が冒涜なる存在をじわりと絞り出そうとしている―――その気配を感じる。卑猥な粘着質の幻聴すら聞こえる。
私は震えた。
背後の闇が孕んだものが何なのか、視覚も聴覚も介さず、知ることができる。ここに閉じこもってから、やつは幾度もここにやってきた。否が応でもその気配のぬめりを肌が覚えてしまっている。
今までは耐えた。
でも、今は。
いま、やつに罪深き誘惑を投げつけられたら。
私は選ぶ。選んでしまう。
来るな。
来るな―――キテ。
来ないで―――キテ、ハヤクキテ。
ああ―――アア。
来る―――キテクレタ。
来てしまう―――マッテイタ。
あいつが。
いつものように三度、首を傾げながら。
嘲り、罵り、笑いながら。
混沌から―――這い寄るように。
宵闇の鸛が、いま、そこにいる。
「規格外」
やつが『私』を呼んだ。
旧き物語の終わりを告げる鐘は打ち鳴らされた。
とめどない悪意と愚かな愛情が混じり合い、それは許されざる罪となる。
全てを犠牲にして。
なにもかも捨て去って。
こうして私は―――悪霊となった。