巻の七 みせかけの月。かりそめの妃。
「窓を開けてもよいか? 匂いがきつすぎる」
「え? あ、はい」
それは願ったりかなったりなんですが。
皇帝陛下が、栄順さまだったの?
栄順さまが、皇帝陛下だったの?
わたし、知らない間に皇帝陛下と顔見知りになっていたの?
啓騎さんが「何があっても驚くな」って言ったのは、こういうことだったの?
頭が混乱してくる。
これを「驚くな」って。無理な相談です、啓騎さん。
「驚かせてすまない。気を楽にしていいぞ」
「は、はい……」
石像よろしく、ガッチリ固まってしまったわたしの手を引き、栄順さま、もとい皇帝陛下がわたしを寝台に腰かけさせた。
「どこから話したらいいのか……。ハハッ、そこまで気負わなくていい。何もしないから」
「はっ、はいっ!!」
答えながらも、肩が痛いぐらいにこる。
だって。
(寝台に並んで座って、緊張しないってほうが無理なのよっ!!)
アレをナニして、コレにソレするために来たんでしょ?
そりゃあ、まったく見ず知らずの男に抱かれるより、ちょっとは知ってる人のほうがマシって……、イヤイヤイヤ。そういう話じゃない。
今、大事なのは、そういうことじゃない。
「あの、栄順さまって、皇帝陛下だったんですか?」
「ん?」
「もしかして、身代わりとか、影武者とか、そういうことは……。後宮嫌いの皇帝陛下の身代わりとして、ここへやって来たとか」
よく物語でもあるじゃない。
香鈴に持って来てもらった本にもそういうのがあった。
皇帝陛下の影武者。
皇帝に容姿が似てたから選ばれた人。
皇帝の身代わりを務めるうちに、皇帝の妃とかと割りない仲になってしまって……とか。
結ばれることのない身分差。「私は皇帝陛下の影。アナタと共に添い遂げることはできません」的な。「それでも構いません。飾りでしかなかったわたくしに、真実の愛というものを教えてくださったのはアナタです」的な。……ああ、悲恋。
「ないよ。琉花ちゃん、本の読みすぎ」
前のめりになったわたしの鼻を、栄順さまの指がクイッと押し返した。
ってか、「琉花ちゃん」って。
「正真正銘、私が奏帝国第十二代皇帝だ。栄順は、私の本名なんだが、……知らなかったの?」
「……はい。申し訳ございませ……」
「構わない。普段は〈皇帝〉とか〈陛下〉としか呼ばないだろうし」
わたしの謝罪を陛下が遮った。
「知ってたら、あそこでひっくり返って池にでも落ちてただろうな」
カラカラと笑う陛下。
顔も知らない、名前すら知らない妃候補。
呆れられるかと思ったら、おもいっきり笑い飛ばされてしまった。
まあ、〈皇帝陛下〉なんて、姓が〈皇帝〉、名が〈陛下〉ぐらいの感覚だったし。それ以外に名前があるなんて考えたことがなかった。
「あの宴には、参加するのも煩わしかったから、啓騎に身代わりを務めてもらってたんだ」
「啓騎さんに?」
じゃあ、あの紗の帳の向こうにいたのは、啓騎さんだったの?
うーん。見えなくてよかったと言うべきか。見えてたら、絶対驚いてひっくり返ってる。
「どうして私があれほど後宮に来るのを嫌がっていたのか。何度もうるさく宴に誘ったのは啓騎自身だ。啓騎には、どうして私が宴を嫌うのか、身をもって知って欲しかったからね。あそこまで露骨にグイグイと自分を売り込もうとする妃候補に、啓騎もウンザリしていたよ」
なるほど。
グイグイ、ガンガンやってくる候補たちに、この皇帝は辟易としていた、と。
まあ、その地位目当て、権力目当てで群がってくる女性に好意を持てるかって言われると、かなり微妙だとは思うけど。
わたしが皇帝を後宮に来させて欲しいって願ったから。啓騎さんをとんでもない目に遭わせちゃったかな。もしそうだったら、本当、申し訳ない。
「きみの身の上は、啓騎から話は聞いている。父親が作った借金返済のために、啓騎と賭けをしたんだって?」
「はい、その通りです」
うわ、啓騎さん、何を話してくれてるのよ。
我が家の恥部、丸出しじゃない。
「私をオトせたら、借金はナシ。無理でも半額は保証される……だったか」
地位目当て、権力目当てで近づく女はいるだろうけど、五百五十貫目当てで、なんの予備知識もナシ、皇帝の顔も名前もしらないままに後宮に飛び込む女は珍しいだろう。
「琉花ちゃん、一つ提案があるんだけど」
「はい?」
提案?
「このまま〈菫青宮〉で暮らして、私の寵妃のふりをして欲しい」
――――――は?
このまま?
わたしが〈菫青宮〉で暮らすの?
〈菫青宮〉は、皇帝が気に入った女をつまむときに、一時的に使う宮。常駐で誰かが暮らす場所じゃない。気に入った妃を置くなら〈翆玉宮〉とか〈蒼玉宮〉とか、寵妃用の別の宮もあるのに。よりによって〈菫青宮〉?
「ああ、決して不埒なことはしないと約束するから、安心して」
そういう意味で驚いてるんじゃありません。
そりゃあ、そういう意味でも驚いてますけど。
「妃のふりって……なんですか?」
わたしと一夜をともにして、気に入ったから皇后とか妃にしたいとかいうんじゃない。
わたしに、妻のふりをしてほしいとは、どういうことなの?
「父である先帝が崩御され、三年前に私が跡を継いで即位した。これぐらいは、知ってるよね」
「はい」
皇帝のお名前とかお顔は知らなくても、いつ即位されたのかぐらいは知っている。
「私が即位してからというもの、諸侯や大臣、果ては地方の行政官まで選りすぐりの美女だー、娘だーって送ってきててね。正直、辟易としているんだ」
「……その中から、一番素晴らしい女性を娶られてもよろしいのでは?」
今ならもれなく、よりどりみどり。
「琉花ちゃん、一度に何十人、何百人の異性に『子種くれ!!』と迫られて耐える自信ある?」
「ム、ムリデス」
それも愛しているから抱いて欲しい(わたしの場合は、「抱きたい」)ならともかく、地位や権力のために皇帝の子種が欲しいでは、勃つものも勃たずに萎えそう。(ナニガ?)
それって、皇帝の子種が必要なんであって、栄順さまの子種が必要ってことじゃないもんね。
そこに〈愛〉はあるんか?
「それに、私はまだそういうことにうつつを抜かす気はないんだよ。即位したばかりだし、国政も安定してない」
「なるほど。今は、恋より仕事ってわけですね」
「そういうこと。なのに、周囲ときたら、やれ『世継ぎ』だ『跡継ぎ』だってうるさくって」
ガシガシッと乱暴に頭を掻く陛下。
すっごいイヤそうな顔だし、本気で困ってるんだろうな。
「とりあえず周囲を黙らせて、政務に集中するためにも、誰か一人、妃を据えておきたいところだけど、下手に権力欲があったり、身分ある実家がついてたりすると、後々、いろいろと厄介だからね」
「それで、わたしですか?」
皇帝の名前も顔も知らなかったような妃候補。
「そう。啓騎の推薦なら間違いないだろうし、きみの目的が借金返済ってところも気に入った」
啓騎さん、そのあたり、しっかり陛下に信頼されてるのね。そして、わたしが「子種」「権力」目的ではなく、「借金返済」のために宮中に上がったことを気に入られたと。
皇帝陛下からしてみれば、「五百五十貫? そんなはした金のために後宮へ?」ってなるだろうし。
「どうだろう。もし引き受けてくれるなら、五百五十貫、全額、私が保証しよう。父君の商いの後ろ盾になり、支援も惜しまない。二度と騙されぬよう、人を手配することもできる」
う。
なんて魅力的な提案。
そもそも皇帝の寵妃の実家を騙そうなんて、図太い神経の輩はいないと思うけど。
「琉花ちゃんの未来も保証する。後宮を出ることになったら、その時は、琉花ちゃんが想う相手と添い遂げられるように手配しよう」
えーっと。
そこまでの未来、考えたことがなかった。
わたしが想う相手?
想像できない。頭に浮かんでも来ない。
「もちろん見せかけだから、きみに手を出す気はないよ。その点は、なにより安心して欲しい」
あ、それ、一番うれしい。
覚悟がなかったわけじゃないけど、やっぱりそういうことは、……ねえ。相手を知り、そういう想いを抱いてからにしたい。怖いし。
「どうする? 悪い条件じゃないと想うけど?」
「あの。もしお受けしないと、どうなりますか?」
まさか処刑とか? わたしが処刑されるだけならまだしも、啓騎さんも連座させられたり? 最悪の場合、父さまたちも一緒?
考えるだけで、顔から血の気が引いていく。
でも、皇帝陛下の願いを聞き届けなかったら、それぐらいのことがあってもおかしくはない。
「大丈夫。心配しなくていいよ。その場合は、後宮からお暇を出されるだけの話だから。啓騎からは、半額の三百貫もらえて、嫁ぎ先を斡旋されるんだっけ? それで終わりになるだけだよ」
そっか。
それだけで済むのか。
「で、どうする?」
どっちにしたって悪いようには転ばない。
ここで「恐れ多いことです」って辞退したってかまわない。
けど――。
「わたしでお役に立てるなら――」
三百貫より五百貫。
できることなら、借金はチャラにしてしまいたい。
手も出されないし、妃(仮)として、いるだけでいいのなら。
「ありがとう。琉花ちゃん」
チュ……。
額に落とされた、皇帝陛下の口づけ。
なっ!!
手を出さない約束じゃなかったのっ!!
「ゴメン。かわいかったから、つい、ね」
陛下は謝りながらも、笑いかけてくるけど。
……ちょっと決断を早まったかもしれない。