巻の二十五 作り上げた日常。
「おーい。琉花ぁ。これをちょっと見てくれないかぁ」
「はい、ちょっと待ってください、父さまぁ」
店の奥からかかった声にとりあえずの返事だけしておく。
「そうね、この反物は陳さんの店に卸すことにしましょうか。以前から陳さんに、いい反物があれば紹介して欲しいって言われてたし」
「その荷物は、お茶ね。張さんから依頼された品だから、そのまま運んでもらっていいかしら。泉州から上等な品が入りましたって言うのよ。実際いい品なんだから、大切に扱ってね」
「へいっ!!」
店にいる下男たちにあれこれと指示を出していく。
慌ただしく動く下男と品物。店と店の周りの道が、活気づいた音と人で賑やかになる。
「頑張ってるわね、琉花」
「あら、母さま、お帰りなさい。――またご本を買われたのですか?」
そんな人と物をすり抜けて、母さまが買い物から帰ってきた。背後には、またたくさんの本を抱えさせられた侍女。
「ええ。昨今の流行りのものを少し、ね」
侍女が持っているのは、少し……とは言い難い量だったけど、黙っておく。
「香鈴は屋敷のほうに?」
「ええ、そうですけど。母さま、またあの子に本を紹介するつもりなんですか?」
「そうよ。だって、あの子、すごく興味を持ってくれるんだもの」
「人の侍女を変な方向に感化させないでください」
それでなくても、すごい妄想を爆発させるんですから。
「だって、琉花ちゃん、こういうのに興味を持ってくれないのだもの。淋しくって仕方ないのよ」
だからって。
人の侍女を。
「……今度はどういう話なんです?」
仕方なしに訊ねると、母の顔がパアッと明るくなった。
「これはね、こちらの世界の少年が異なる世界に飛ばされて活躍する話なのよ」
「以前、香鈴が話してた『こっちの世界に転生してきた』というのとは、逆なんですね」
「そうよ~。それもね、異世界に飛ばされると、そこにいた女神さまから不可思議な力を与えられることが多いのよ~」
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――琉花は、僕の腹違いの妹です。本人は知らないでしょうがね。父が正妻である僕の母の悋気を恐れ、隣で暮らす李氏に託した娘です。
――琉花の本当の母親は街の遊女で、お産の時に命を落としてます。残された琉花をどうするか。母の実家の支援もあって士大夫に合格できた父は、母の悋気を恐れ、琉花を引き取ることができずに困っていたのです。そこに救いの手を差し伸べてくださったのが、お隣で暮らしていた李氏夫婦です。
――子のいなかった李氏は、快く目も開かないような赤子の琉花を受け入れてくださいましたよ。僕の母には内緒で、あくまで自分たちが授かった実子として育ててくださいました。
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「それでね、普通の少年が異世界で生まれ変わるんですけどね、それがなぜか魔物だったり、剣だったり、人ではない不思議なものに生まれ変わるのよ」
「魔物はともかく、剣って……。生きてるんですか? それ」
無機物に生まれ変わるのは、果たして「転生」なんだろうか。
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――李氏夫婦のおかげで、琉花は幸せに育ちました。あの夫婦に似て、お人よしで、人を疑うことを知らない純粋な子に。異母兄である僕から見ても、素晴らしい娘だと思っています。
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「大丈夫よ、魔物でも剣でも、アッサリと人の姿に変身できるようになるの。人の姿になって、種族を問わず快適に暮らせる世の中を作りたいって言って魔物と国を造ったりするのよ」
「魔物とですか?」
「他にも、生まれ変わった時に女神さまから授かった能力とこちらの世界での知識を使って、異世界の帝国の内政を改革して未来を変えていくってものもあるわ。目指すは天下統一!!ってところかしらね」
「げ、現実ではできませんね、そんなこと。不敬すぎて」
「そうねえ。現実でそんな無双をしちゃあいけないわよねえ」
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――あの無邪気な琉花と一緒にあれば、何かしらの変化があると思っていたのですがね。とんだ見込み違いだったようです。
――国のため、命をかけて争うことを辞さない覚悟をお持ちなのに、どうして同じ覚悟を琉花のために持てないのですか。
――『治天の君』と呼ばれる陛下なら、手離す以外に琉花を守り愛していく手段をお持ちなのではないですか。
――後宮という古い因習を嫌っておられるのは存じておりますが、その因習に最も捕らわれておられるのは、陛下ご自身です。
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「おーい、琉花ぁ」
「はぁい。今、行きます!! 母さま、それでは」
母さまに軽く一礼してから店の奥、父さまのもとに走っていく。
「帳簿の金額がねえ……」
シクシクと泣き真似をしてみせる父さま。大雑把、ザルな商いをするから、よく帳簿と実際の出納が合わないことがある。
「ああ、ここ、劉さんに泣きつかれて五十貫ほどまけて差し上げたでしょ? それが記入し忘れてるわ。あとここも、支払いを来月まで待って欲しいって言われてたでしょ?」
「あー、そうだった、そうだった」
「もう。シッカリしてください、父さま」
「いやあ、琉花がいると、ほんとに助かるよ」
すまない、すまないと頭を掻く父さま。
「あ、奥さま、お帰りなさいまし。お嬢さまも旦那さまも、お茶を淹れますので少し一服なされてはいかがですか?」
店の奥から香鈴がチョイッと顔を出す。
「そうね。いただこうかしら」
香鈴の淹れてくれたお茶は、いつだって美味しい。
「香鈴、新しい本を手に入れたのよ、後で貸してあげるわね」
「ありがとうございます、奥さま!! そういえばあの、『悪役姫転生溺愛物語』の続き、どうなりました?」
「あれなら今日買ってきたなかにあるわよ。先に読んでもいいわよ」
「ありがとうございますっ!! あの続き、すっごく気になってたんですっ!!」
「いいわよねえ、あのお話。物語の世界、それも悪役に生まれ変わるって、ものすごく斬新だわ」
「それも、物語に登場するステキな殿方たちから次々に求愛され続けますしねえ」
馥郁とした茶の香りを堪能しながら、香鈴と母さまの会話を聞く。うれしそうな母さまと香鈴。一緒に茶をすする父さまもなんだか幸せそう。
そういうわたしも、このひとときを大切にしたいと思うぐらいには幸せだと思う。
いつも通りの父と母、香鈴。
いつも通りの会話、日常。
なにも変わらない。変わらない、何気ない出来事。
これでいい。
これでいいんだ。
そう思い込んで、日常に溶け込んでいく。
(ちゃんと寝てるかな。無理して仕事してないかな。また後宮から執拗に攻められてないかな)
不意に思い返される、陛下のこと。
なんの憂いもなく政務に取り組まれてるのならいい。そして、本当に心から愛されるご寵妃を得られたらいい。陛下の望まれる政道を進み、その治と愛を持って幸せに暮らしていただければ。
見せかけの月、かりそめ妃をお役御免となった身で願うことはそれだけ。
それだけでいい――。
「こんにちは、李氏、琉花ちゃん」
「啓騎さん……」
「ちょっとお願いしたいことがあって、お邪魔したんだけど、……いいかな?」
作り上げた日常から、わたしを引き戻すような人、啓騎さん。
その姿に、わたしだけでなく、父さまも母さまも香鈴までが気色ばんだ。




